無言で窓の外を眺めているカロルを見つつリオンは不思議に思っていた。いったい彼になにがあったというのだろうか。彼を変えてしまったものが何か、それがわからない。 確かにあの会議の場での彼は宮廷魔導師だった。堪えかねたよう、口調が崩れた場面もありはしたが、彼は自らを律し続けていた。 けれどいまは違う。二人の他は誰もいない。それなのに彼はいまだ、宮廷魔導師の顔をしている。カロルがなぜ距離を置きたがるのか、リオンにはわからなかった。なぜとなく自分の手を見る。 「それ、師匠だな」 不意にカロルの声がした。見るともなしに見ていた自分の手を、カロルが見ている。 「えぇ、まぁ」 思わず苦笑してしまった。彼にはこの魔法が見えているのだろうとリオンは思う。それをどのような気持ちで見ているのかは、わからなかったけれど。 「それを受け入れる必要が、あったのか」 「そうしなきゃ軟禁を解いてもらえそうになかったですからねぇ」 「解除の方法、聞いてるのか」 「聞いてますよ」 あっさりとリオンは言う。それがカロルには理解できなかった。 リオンの指先にかかっている魔法。強い制約の魔法がそこにある。呪い、と言ったほうが正しいかもしれない。禁じられた事を為せば、直ちに魔法が発動する。おそらく死の呪いがかかっていることだろう。深く探ったわけではないから、種類まではさすがのカロルにもわからない。 だが、そうであることは予測がつく。ラクルーサの秘事を漏らせばリオンの命を失わせるような魔法であることは。 「けっこう陰険ですよねぇ。自分の心臓の血を爪にたらせばいいなんて」 笑って言うリオンが信じられなかった。つまるところそれは、自らの意思で死ぬか呪い殺される事を選ぶかという違いでしかない。 「どうして受け入れた」 「ですから」 「軟禁と言っても、いずれ時が経てば王宮の中は自由に動けたはずだ」 「あなたには、会えませんでしたから。早く会いたくて」 カロルは一瞬言葉を失いリオンを見る。呆然としたカロルの目にリオンが映った。 「あなたに、謝りたかったんです」 「……何がだ。詫びられる覚えはない」 むしろ巻き込んでしまったことに対して、謝罪するのは自分のほうだともいまもまだ思っていた。 「……あなたに、酷いことしましたね。私」 静かに息を吐くような言葉。カロルがはっと体を硬くしたのに、ようやくリオンは気づいた。それが、彼が今もまだ宮廷魔導師の顔をしている理由だったのか、と。 「あなたにとって、あれがどれほどいやなことだったのか、想像力が足らなかったようです。カロル、ごめんなさい」 彼の肌に触れたこと。半ば無理強いのように抱いたこと。彼の過去を考えれば、耐えられないほどの苦痛と屈辱であったはず。 「いい」 カロルは視線をそらし、窓の外を見てはそれだけを言った。 「ですが」 「いいって、言ってる」 「あなたが――」 「俺も楽しんだって言ってんだよ。忘れてくれりゃ、それでいい」 ぎゅっとカロルは自らの手を握りこんでいた。リオンの視線を浴びているのが、つらい。いっそ早く出て行ってくれさえすれば。 「――忘れられません」 跳ね上がりそうになる体をカロルは堪えた。いま何かおかしなことを言われれば、殴ってしまいそうだった。 「カロル」 だがしかし、リオンは名を呼んだだけ。優しい気配だけがそこにある。ようやく気づいた。軽蔑でも、同情でもない視線。 「手を。いいですか?」 リオンの声にカロルは黙って手を伸ばす。視線は外を眺めたままではあったけれど。 「嬉しいな」 その声が、あまりにも幸福そうで、思わずカロルは唖然とリオンを見た。なにを言っているのだろうか、この男は。たかが、手。 「あなたはまだ、この右手を私に預けてくれるんですね。カロル」 カロルの利き手は魔法の手。カロルにとっての最後の武器。温かなリオンの手に包み込まれていた。 「ただの、偶然だ」 「それでもいいですよ。もっとも、あなたが偶然であったとしても少しも心を許さない相手にそれをするとは思えませんけどね」 「そんなことは――」 否定しても、無駄だった。リオンは悟っているだろう。何よりカロルは自分自身でそれを知っていた。 「カロル、聞いてくれますか?」 「勝手に話せばいい」 「では遠慮なく」 これほど突き放しているのに、どうしてリオンはそのような顔で笑うのだろうか。こうしているだけで幸せだ、そんな顔をする。この自分相手に。そのようなはずは、ないというのに。カロルは巡る思考に彼の思いが理解できない。 「あなたに、話したくないことは話さなくっていいって言いましたよね、私。あのような形ではありましたけど、知ってしまいました」 カロルは答えない。また目はどこでもない場所を見ていた。ただ、リオンの手の中で彼の手が強張っていた。 「あのことを、知られたくなかったんだな、と知りました。それを嬉しいと言ったら、怒りますか、カロル?」 「……意味がわかんねェ」 「あなたが、私に知られたくないと思ってくれたことが、嬉しいんです」 「なに言ってんのか、わかんねェ」 ぽつりぽつりと漏らされる言葉。答えになどなっていない。けれどカロルの声が硬さを失いつつある。それを彼自身は気づいていないのだろうことが、リオンはいっそう嬉しい。 「愛してますよ、カロル」 今度こそ、リオンの手の中で跳ね上がる手を、カロルは抑えきれなかった。愕然としてリオンを見る。あの塔の中で言っていたときと、少しも変わらない顔をして彼は言っていた。 「あなたが好きですよ、カロル」 言葉の意味が、わかってくると共にカロルは気づけば手を握り締めていた。彼の手の中で。決してリオンの手を握ったわけではない。彼もそのくらいはわかっているだろう。意味のない、緊張の仕種。 「あなたが、どのような過去を持とうと知ったことではないとも言った気がしますが?」 「聞いたっけな?」 「酷いな、カロル。忘れたんですか? あれ……うーん。言ったっけなぁ、私」 軽やかなリオンの笑い声がカロルの耳に届いた。この一ヶ月というもの、ずっと響き続けていた彼の声、言葉。 「俺は……」 そのことがカロルの逡巡を、なぜかいっそう酷くした。このままありえない期待をするよりは、早く去って欲しい、ともより強く思う。 「一つ、聞きます」 「……おう」 「あなたは、自分が生きてきたことを誇りには思わないんですか?」 カロルは笑った。どこか冷たい声だった。それこそこの一ヶ月の間、絶え間なく己に言い聞かせていたことに他ならない。 「なんで生きてんだろうな、俺は。死にたいわけじゃねェけど、なんで生きてんのかは、わかんねェ」 「カロル」 「あのとき、俺はフェリクスに偉そうなこと言ったよな」 「とっても素敵でしたよ」 「うっせェよ。あんなこと言っといて、俺は自分でどうしていいかわかんねェ。なにをいまさらって感じだがよ」 伏せて笑った翠の目が、自嘲にだろうか、わずかに歪んだ。リオンはカロルの魔術師らしい綺麗な手をさらに包み込むよう握った。 「それでも、生き抜いてきたことは、誇りに思う」 ゆっくりと、言う言葉は自らに対して確かめているのかもしれない、そうリオンは思う。だから答えはしない。黙って彼の手を握るだけ。 「あんなことしてでも、生き抜いてきたことを恥じはしない。だがよ――」 「カロル」 「なんだよ」 「そんなに走り続けると、疲れますよ」 「あん?」 訝しげな自分の声に、はじめてカロルは気づいた。何度か瞬きをしてあのころの口調に戻っていたと知る。驚いたのだろう、息を吸っていた。それを意識させないよう、リオンは柔らかく微笑んで手を包む。そんなリオンにカロルは少しばかり照れたよう、目をそらした。 「あなたは素敵ですよ、カロル。一生懸命生きてきて、ずっと自分の足で走り続けて。頑張って頑張って、ここまできたんじゃないですか」 一度言葉を切り、リオンは彼の顔を覗いた。カロルはわずかに唇を噛んで目を瞬いていた。 「あんまり頑張って走ったから、ちょっと疲れちゃったんですよ、カロル。たまには休憩も必要ですって、言ったじゃないですか」 塔の中で言ったこと。生きていくこと。戦うこと。すべて同じだとリオンは言う。真実と幻想の女神、青春の女神に仕える神官の考えなど、そういうものなのかもしれない。 カロルはそう思ったところでなにがどうと言うわけでもないのに、すべてが納得できた。 「だがよ……」 なにを、言いたかったのだろうか。カロルにもわからなかった。ただ、なんでもいいから否定したかったのだろう。 「休憩って……」 休むことなど、考えたこともない。休みたいと思ったことはいままでない。いまは、少しそう思う。走り続けなくていい、そのようなことを言われたのは、初めてだった。 そのせいに違いなかった。カロルの戸惑いが深まっていく。彼自身、自分らしくないと思う。このような堂々巡りの逡巡は。けれどリオンの言葉がカロルを包み込んでいた。まるでその手のように。 「カロル、愛してますよ」 突如として、頭に血が上った。いままで冷静に話していられたのが不思議なほど、リオンの声が癇に障る。それほど、自分の心が凍りついていたのだとは、わからなかった。 「うっせェよ! 俺がなにしてたか知った上で、それを言うのかよ! なんでそんなことが言えんだ、テメェはよ!」 振りほどこうとした手。リオンに強く握られて離せなかった。唇を噛みしめてリオンを睨み据えた。それなのに彼は。 それなのにリオンはカロルを微笑んで見ていた。やっと彼が帰ってきた、そう思う。宮廷魔導師、メロール・カロリナではなく、カロルがそこにいた。 再び振りほどこうとする手を、リオンはそっと包み込む。たったそれだけ、今度は強く握られているわけでもないのに、カロルはどうしてもそれを振り払うことができなかった。 リオンの両手が自分の手を抱くように胸に抱えるのを黙って見ていた。幸福そうに軽く目を閉じて微笑むリオンを見ていた。 「答えろよ、ボケ!」 きつい罵り声。リオンの耳に届いたときには柔らかく響く。うっとりと笑って目を開けた。 「カロル、忘れたんですか?」 「なにがだよ!」 「私はエイシャの神官ですよ?」 「だからなんだってんだよ、あん?」 堰を切ったよう、罵声を飛ばすカロルが愛おしくてならない。リオンは胸にある彼の手を抱きしめる。 「実はいま、この目であなたを見てはいません、私」 いたずらをするような口調が訝しくてカロルはリオンの目を覗いた。 |