照れたのだろう、リオンの目は少しばかり細められたけれど、普段と変わらなかった。
「神官の目でね、視てます。とっても素敵ですよ、あなたは」
「おいコラ」
「塔で視たときと、なんら変わりはありません。私が好きなあなたは、このあなただな、と再確認しています」
「ボケ、なに――」
「ここまで歩いてきて――あなたの場合は走ってきたと言ったほうが正しいでしょうが、そうして生きてきたあなたが、好きです。私の目に視えるあなたの本質は、なににもまして美しい。朝日が昇った後、最後まで太陽に抗って輝き続ける西の空の星のよう。どれほど綺麗なものなのか、あなたに見てもらえればいいのに」
 静かに、けれどカロルに口を挟ませずリオンは言い切る。ひたとカロルに目を据えたまま。カロルもまた、視線をはずしはしなかった。期せず、視線が絡まる。
「あなたの過去を知ろうが、私の目に視えているものが変わるわけでもありません。何より綺麗な銀の星。このあなたが、好きです」
「気にもなんねェとでも言う気かよ」
「うーん、それはないですねぇ」
「だろうがよ」
「あぁ、違いますよ? あなたがどうのではなくて、せっかく王宮にいるんですから、ことあるごとにダムドをいびり倒すくらいはしたいな、と。そういう意味です」
 にっこり笑ってなんと言うことを言うのだろうか、この男は。呆れて見上げたカロルの前で、リオンが嬉しげな顔をしていた。
「人間の本質なんてね、カロル。そんなに簡単に変わるものじゃないんです」
「あん?」
「ですからね、私が視てるあなたの本質は、いまも昔も変わらず素敵だったはずです。これほど濁りのない人がいるなんて……綺麗だなぁ」
 言ってリオンはとっくに逃げる気の失せたらしいカロルの手を軽く握っては頬に寄せた。
「カロル――」
「もういい」
「ですが」
「もう、いい」
 諦めたよう、カロルが笑った。けれどいやな笑みではなかった。むしろ、リオンの言葉に根負けしたとでも言いたげな顔をしていた。
「おや、嬉しい。私の言うことを信じてくれたんですか?」
 からかうよう、リオンが茶化して言った。そうでもしないとカロルになにをされるかわからなかった。神官の目は、一瞬にして燃え上がった炎を捉えていた。
「信じるも信じないもねェだろうが」
 ぽつりと、カロルが言う。はっとして顔をあげたリオンの目の前で、カロルがにたりと笑う。
「テメェの魔法が俺の中にある。魂に絡み付いて離れねェ。しつこいったらありゃしねェな!」
 ずっと聞こえていたリオンの囁き。嘘ではなかった。間違いでも、聞きたい言葉を聞いていたのでもなかった。
 リオンがずっとそこにいた。彼の治癒魔法の一部が、彼自身の魂にも似た何かが、体の中に留まってカロルに囁いていた言葉。嘘のはずがなかった。
「それはあなたが離さないからです。私のせいじゃありません」
 ふっと笑ってわざとらしく耳許で言われた。腹立ち紛れ、偶々そこにあったものに噛み付けば上がる悲鳴。彼の耳に軽く歯型がついた。
「痛いなぁ、もう。素敵ですけどね、そういうとこも」
「どういう目ェしてやがんだ、ボケ!」
「おかしいですか?」
「世間の常識からは相当ずれてんな」
「だったら世間がおかしいんです。私は間違ってませんよ」
「おいコラ」
「あなたが、好きです」
 結局、そこに収束するのかと思えばカロルはおかしかった。うっとり笑うリオンをこの先も見ていていいのか、と思う。
 走り続ける自分の側に、この男がいるのは悪くないと思う。疲れきって走れなくなるその前に、首根っこを押さえて休ませてくれるだろう、彼ならば。そして無理強いされたとは、感じさせずにそうしてくれるだろう。強制に、強く反発する自分だと理解する彼ならば。それはどことなく心踊る思いだった。休息することを心待ちにしたことなどいまだかつてなかったというのに。
「続き。しねェのかよ?」
「え。あ……」
 眼前で、リオンの目が見開かれ、次いで頬に血の色が上っていく。照れたのかと思えば、やはり嬉しい。嬉しいと思えるだけ、この男が好きだと思う。やっとそう思えた自分が、誰より幸福だとカロルは知る。
「カロル?」
 問いではなく、その声は促し。目を閉じれば緊張しているのだろうか、リオンの手がきつく手を握ってくる。
 微笑ましくて、楽しくて、嬉しい。カロルは口許を緩めて誘い込む。手を振りほどいては指先を絡めあう。
 唇にリオンの吐息を感じた。試すよう、そっと触れてくるだけの唇。もどかしくて軽く吸う。音を立てて離されて、再び重なる。
 くちづけ一つが、こんなにも甘い。舌先が、唇を舐める。酔ったよう、カロルが唇を開けば入り込む熱いもの。
 絡んだ舌が、名残惜しそうに離れたのは、どれほど経ってからだったのだろうか。それほど長いはずもないのに、ずいぶん時間が経っていたような気がした。
「カロル……」
 なにを言っていいのか、今になってわからなくなったよう、リオンの口から言葉が出ない。カロルの肩に額を預けた。
「あれでやめんのかよ?」
 今度からかうのは、カロルの番。肩先で、リオンが笑った。
「うーん。こんな真昼間っから押し倒したら、怒られそうで」
「別にいいけど?」
「カロル!」
「なんだよ」
「ほんとに押し倒しますよ?」
「……やめろよ?」
 冗談を真に受けたふりを彼はしているだけだとわかってはいたが、このままだと本気にしかねない。カロルは軽く睨んで釘を刺す。
「では。夜になったら忍んできましょうかねぇ」
 茫洋とした口調のまま言われた言葉だけに、一瞬意味をとり損ねた。呆れてリオンを見たとき、彼は体を起こして目の前で笑っていた。
「ボケが」
「愛してますよ、カロル」
 噛みあわない言葉など、どうでもよかった。わざと音を立てた軽いくちづけが、嬉しくてならない。
「カロル」
「なんだよ」
「この命の限り、あなたの側にいるつもりです」
「で?」
「私のほうが年下ですけど、先に死ぬのは私でしょ。あなたは魔術師だから。だから、それまでに自分で休憩の仕方、覚えてくださいね、カロル」
 笑って言うことかとカロルは思う。今の甘い気分が一度で吹き飛んだ。不機嫌そうに黙ったカロルをリオンもまた黙って見ているだけ。
「やだ」
「カロル!」
「テメェ、ボケの上に馬鹿か? 俺が休み方なんか覚えられるわけねェだろうが。テメェが死ぬまでの短けェ時間でよ」
「あのねぇ、カロル」
「うっせェ。いい、テメェがいればいいんだろ?」
「ですから」
「いいって言ってんだろうがよ! 魔法、教えてやろうか?」
「え……」
「鍵語魔法も使える世にも珍しい神官。愛すべきエイシャも物珍しがって喜ぶんじゃねーの?」
「え、あ……それは……」
「いやなのかよ?」
「そんなわけないでしょうが」
「だったらなにが問題なんだよ、あん?」
「覚えられますか、私」
「神聖魔法と鍵語魔法の元が一つって言ったのはテメェだ。鍵語魔法の適性はあると思うぜ」
「それは……」
「なんだよ!」
「嬉しいです、とても」
 くすりと笑って頬に頬を寄せてきたリオン。拒むはずもなかった。互いの体温がここにある。それがこんなにも嬉しいものだとカロルはずっと知らずに来た。他人の体温は、疎ましいだけだった。
 いまはまだ包み込むような優しいぬくもりをした体が、熱を帯びるのはいつなのだろうかと思っては不意に頬に血が上る。それを待つ日が来るなど、思ってもみなかった。
「カロル?」
「なんでもねェ」
「そうですか? 別にいいですけど。なにに照れたのかな、と思って。そんなあなたも大好きですよ、カロル」
 わかっているくせに、わざと言うリオン。頬を離して軽く睨めばそ知らぬ顔をされた。カロルは喉の奥で笑う。
「それ、しばらくは黙ってたほうがいいぜ」
「どういうことです?」
「フェリクス。あの馬鹿弟子め、そりゃ俺も面倒だとは思ったがよ」
「いったい、なにが?」
「面ァさらしてっからな。言い寄る阿呆がもう何人かいてな。俺より先に馬鹿弟子が切れた。しつこかった阿呆をうっかり氷漬けにしやがった」
 あからさまに大袈裟な溜息をカロルはついて見せる。リオンがかすかに引きつったのを感じ取っていた。
「幸い、そんときはまだ生きてたのはわかってたからよ、師匠と二人がかりで三日かかって掘り出した」
「ずいぶん……かかりましたねぇ」
「そりゃ、炎の魔法でも飛ばしゃ一発だがよ、凍死が焼死になっちまっちゃ、意味がねェだろ」
「……それは、確かに」
「だろ? だから当分あいつには黙ってたほうがいいぜ。どうも連れ戻して以来ガキ臭くってな」
 呆れ果てて物も言えない、そんな口調のくせにカロルはどこか嬉しそうだった。師として弟子に頼られるのはやはり嬉しいものなのだろうとリオンは思う。
「色んなことがありましたからね。しばらくは仕方ないでしょう」
 だがしかしリオンは意外と物分りのいいところを見せてカロルでさえも唖然とさせる。肩をすくめて諦めた顔して見せるのだから、どうやら本気らしい。
「落ち着くまでは、貸してあげますけど。ちゃんと返してくださいね、フェリクス」
 にやり、笑ってリオンが言った。なにが起こったのか、カロルは咄嗟にわからない。おずおずとリオンの視線を追う。信じがたいことにそこにフェリクスがむっつりと立っていた。
「いや!」
 口を尖らせ、リオンを睨み据えて抗議している。ゆっくりと息を吸うのを見るにいたってカロルは室内を破壊されるより先にフェリクスの魔法を封じることを選ぶ。
「カロル、酷い。僕のこと可愛い弟子って言ったじゃないか」
「あぁ、はいはい。言った言った」
「どうして。こんなののどこがいいの」
「それは俺も知りたい」
「カロル!」
 二つ分飛んできた声にカロルは肩をすくめ、それからじろりとフェリクスを睨む。
「おい馬鹿弟子。テメェどっから聞いてた」
「世間の常識がどうのってあたり」
「テメェ」
 罵ったものの、いったいどちらに罵っているのかカロルにもわからない。黙って聞いていたフェリクスなのか、それとも知っていて続けたリオンなのか。
 もっとも、話が早くてそれはそれで隠さず済むのだから都合がいい、そうカロルは思い直す。そうでも思わなければ、とても恥ずかしくてやってなどいられない。
「まぁいい。じゃ話し聞いてたんだな。ボケに魔法教える」
「僕はその人の兄弟子ってわけ? いびっていいよね、カロル」
「せめて、しごくにしとけ」
「あのー。庇ってはもらえないんでしょうか」
 情けないリオンの声にカロルは甘えを感じる。それはそれで中々悪くはない気分だった。そしてそのカロルの心を敏感に感じ取ったのはリオンのみならずフェリクスも。
「むかつく。馬鹿!」
 子供のような拙い罵声を飛ばし、魔法を封じられたフェリクスはリオンの腹を殴った。が、素直に殴られる義理もないリオンである。よけたようにも見えないのに、拳は空を切っていた。
「おいコラ馬鹿弟子。馬鹿が馬鹿って言うんじゃねェ。それはボケだ」
「カロル。慰めになってません」
「別に慰めてねェもん」
 足踏み鳴らして悔しがるフェリクスの前、二人は何事もなかったかのよう会話を続けていた。
「馬鹿弟子。殴り合いがしたかったら師匠んとこ行っとけ」
「いや!」
「師匠は強いぜ。本気でやったってぜってェ勝てねー。遊んでもらえ。楽しいぞー。その代わり魔法の殴り合いだけどな」
「カロルなんか大っ嫌い!」
「おう、好都合だ。さっさと師匠離れしやがれ馬鹿弟子」
「カロルの馬鹿! 絶対、いびる。その人、苛め抜くからね、僕」
 カロルが反論するより先、フェリクスは荒々しく扉を閉めて出て行った。呆れた溜息が二つ分、部屋に満ちる。
「まぁ、なんと言うか、その。意外と可愛いところがありますねぇ」
「あれがか?」
「そう思っておかないと、ちょっとこの先が不安で」
 虚ろな笑い声を漏らすリオンをカロルは見ていた。視線に気づいたよう、リオンが笑みを返す。照れたよう、目を伏せたのはカロルだった。
「カロル?」
「なんでもねェよ」
「そうですか?」
 真剣に、問いただしたいわけではなかった。あまりにもカロルが幸福そうな顔をしていたから、つい嬉しくなってしまっただけ。
「こいよ」
 不意にカロルが立ち上がる。ふわりとローブの裾がなびいた。
「どこへです?」
「なに期待してんだ、ボケ」
「だって。いいじゃないですか」
 見透かされたことが情けないと言うよりはなぜとなく嬉しい。ゆっくりと、リオンの心にカロルが自分を受け入れてくれた事実が染みとおっていく。
「それで、カロル?」
「呪文室だ、――」
「え?」
 一度目は、聞き逃した。思わず問い直した。振り返ったカロルがにたりと笑う。二度目は、決して聞き漏らしはしなかった。
「魔法、覚えんだろ。リオン」
 彼の元に駆け寄って抱きしめるより先にその翠の目を覗き込む。満足そうな輝き。きっと同じような顔をしているに違いない、そう思いつつカロルを腕に抱いてはくちづけた。




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