その場に列した一同が一斉に息を飲んだ。午後の光が窓から差し込みカロルの淡い金髪を浮かび上がらせる。肩の辺りで断ち切られた金髪、薄く血の色の映えた唇は共に女の持ち物だった。だがきつい翠の目がその容貌を裏切って強く輝く。カロルの素顔に一同が息を飲む。 その中でただ一人、彼の翠の目に滲んだ苦痛を見て取ったのは、リオンだけ。そのようなカロルを見ていられなくてそらしかけた視線を強いてリオンは引き戻した。 そしてリオンのみならずその場のすべての人々は信じがたいものを見た。ふっと、カロルが笑みを浮かべた。きつい翠の目が不意に和らぐ。その目が向けられていたのは、ダムド。 「エメラーダ……!」 誰もが知らぬ名を呼び、そしてそのとき確信する。カロルの言葉は偽りではなかった、と。かつて二人の間には関わりがあったのだ、と。 「ありえない……そんな馬鹿な! 何十年も前の――」 驚愕した己の声に正気づいたのか、ダムドがはっと口をつぐんだ。カロルの媚を含んだ目が厳しさを帯びたものに戻る。 「はっ。語るに落ちたな」 呟きめいた嘲笑。ダムドに視線を注いでいた者らが今度はカロルを見つめる。 「それは昔のお前の名だね」 「よく覚えてましたね、師匠」 「まぁね」 互いの間でだけ理解できる、苦笑。それを戸惑いも露にノキアスが見ていた。 「カロリナ、説明してくれるね?」 「はい、陛下。四十年近く前のことです。ある場所から逃げ出した私を拾って助けてくれたのが、メロール師です。名を問われた私はつい、それまでの名を名乗りました」 「それが、エメラーダ?」 「はい」 すっとカロルが息を吸う。そして王に向かって詫びるよう一礼した。これから自分は決して口にしたくない事を言おうとしている。カロルは内心で嗤い強い意志を保つ努力をする。おかげで宮廷魔導師の顔をし続けることが難しい。 カロルが意識しているのはダムドでもノキアス王でもフェリクスでさえなかった。ハルバードを握りなおしたのだろうか、石突が床にあたった音がした。 「おいコラ、馬鹿弟子」 はっとして列席の者が呼吸を止めた。いかな者であろうとも、王の眼前で使うような言葉ではない。が、意外にもノキアスは咎めない。苦笑してカロルを見ていた。 「はい……」 呆然としたのは、フェリクス。突如として呼ばれた理由がわかるようで、わかりたくない。 「テメェはなんて呼ばれてた」 「……リリア」 「やっぱりな」 カロルは一つうなずいた。誰一人として声もない。ノキアス一人が厳しい意思をこめてダムドを見据えた。 「以前いた場所では男も女名を名乗ることになっていました」 「それでカロリナ、と?」 「はい。メロール師は人間の名に疎いもので」 ノキアスはいまの名はメロールに名づけられたものだと知っているのだろう。大臣たちが若く頼りない王だとばかり思っていた玉座の男を見上げた。 「私も、フェリクスもそうでした」 「カロリナ……」 ノキアスが首を振る。もういいとばかり。だがカロルはそっと唇を歪めただけ。 リオンは王を責めたくてたまらなかった。彼の命があれば、カロルはこれ以上話しはしないだろう。それなのになぜ、止めない。 ぎゅっとハルバードを握りなおせばわずかにカロルの視線を感じた。いつの間にかうつむいていた顔を上げる。が、カロルは黙って王を見ていた。 「ダムド」 静かなカロルの声。それにダムドが小さな悲鳴を上げた。跪いていた膝は崩れ、だらしなく床に座っている。 「あんたは俺を知っている」 「知らない……!」 「いいや、知っている。あんたは俺の――客だった」 疾うに誰もが悟っていたことだった。だがその言葉がカロルの唇から発せられるや否や、一斉に室内がざわめきだす。 「物心ついたころ私は売られました。それが魔法の才能だとは知らなかったのでしょうけれど、両親は私の周囲で不思議な事故が起こるのを恐れましたから。売られた先が、娼家です。私は男娼でした」 自らの言葉で新しく傷を刻もうとでもするようなカロルの声だった。まさしく、今のカロルがしていたのはそれだった。決して誰にも明かしたくなかった己の過去。いまここに、一番聞かせたくない男がいる。 カロルはリオンの顔を窺いかけ、そして思いとどまる。見たくなかった。驚いているのだろうか。それとも哀れんでいるのだろうか。あるいは、蔑んでいるのかもしれない。どのような顔も見たくなかった。すっと息を吸って呼吸を整える。取り乱した姿など、誰にも見せない、と。 トランザムの制止にざわめきが、止まる。大臣たちが唖然とカロルを見ていた。その視線をカロルは鼻で笑う。そうとでもしなければ自らを持せないのかもしれない。 「けっ。自分の弟子とおんなじ客取ってたのかよ。気色わりィ」 吐き出すようなカロルの口調。リオンはローブの袖の中で彼の手が握り締められたのを知る。いたたまれなくて、これ以上見ていられない。そのリオンにカロルが言葉をかけた。 「エイシャの神官」 「はい?」 「テメェ、見たな? 俺の背中に傷跡があったの」 「あぁ、はい。見ました」 はじめから見てもいなかったと言うのに、カロルの視線がいっそうリオンからそらされた。ゆっくりと息を吸い、そして言う。 「不思議なもんだな。四十年前の傷だ。とっくに消えてるはずなのに、消えない」 まるで今でもその傷が痛みでもするようカロルは目を伏せた。リオンは傷跡があったのは、知っていた。まさかそれほど古い傷とは思いもしなかったものの、知ってはいた。 だが、カロルが仄めかしたほどはっきりと残っている傷跡ではなかった。じっと見つめてやっと見定めることができるかどうか。 リオンは努めて冷静に息をする。あの傷跡は、カロルにだけ、はっきりと見えているものなのだろう。古ければ古いほど、凝ってしまった恨みと屈辱の痕。 「ある晩、馴染みになっていた若い貴族の男が私を買いました。すでに何度となく危害は加えられていましたが、その夜はことに酷かった」 思い出すのも苦痛だと言いたげにカロルの目が閉じられる。再び開いたとき、翠の目は決然とした色をしていた。 明かしたくなかった過去を暴くなら、いっそすべてを知ってしまえばいい。彼の視線を感じ続けているのも、いまだけ。男娼などと言うおぞましい過去を持つ者に誰が真剣に愛を語ろうか。横顔に向けられたリオンの目。カロルは何も見えないふりをする。 「カロリナ。ダムドに剣を向けられたと言うのかね? それほど昔に?」 「剣ではありません。鞭です、陛下」 「鞭……」 「痛いものです、鞭の傷は。立つも座るもできない。這って逃げるくらいが精々ですが、それも動いているとは言えないほどだったでしょう。そのあとに楽しむのが、その男のやり方でした」 淡々と言われただけにいっそう真実味の増した言葉。フェリクスは自分の過去と照らし合わせているのだろう、顔を上げてダムドを睨む。 「なぜ、それほどそなたが憎かったのだろう……」 まっすぐなノキアスには、ダムドの習癖などわかりはしない。憎くもないのに他者を傷つける者が存在するなど、信じがたいのだろう。あるいは信じたくないのかもしれない。 「違います。陛下。先程申し上げたよう、ダムドは他人を傷つけるのが趣味でした。そうして息も絶え絶えの男娼を――」 「カロリナ。そこまでにしなさい」 自分自身をあまりにも痛めつけるカロルの言葉。苦痛と過去の屈辱を振り払おうと激しくなっていくそれを止めることができたのは、メロールだけだった。 はっとしたようカロルが口をつぐみ、それから師に向かって頭を下げた。ローブの袖の中、今度はリオンにだけであったかもしれないけれどはっきり見えた。カロルの拳が震えていた。 「王よ、無礼の数々をお許しください」 王宮で発するべきではない言葉。王に前で口にするべきではない話題。男娼など、その存在すらも知らないことになっている王の前、明らかになったフェリクスとカロルの過去。 「だから、そなたは顔を隠していたのだね?」 しかし王は彼を咎めはしなかった。むしろその表情に浮かんだのは後悔と謝罪。王たるものが決して口にすることができないもの。口からでかかった謝罪の言葉を無理に押し込めれば、そのような顔になる。 「はい。メロール師に拾われて王宮に連れてこられた私は、その男が高位の貴族の若い息子だと知りました。私の存在を知れば、私は再び屈辱を強いられることになったでしょう」 フェリクスが慙愧の念に堪えかねたよう、唇を噛んでうつむいた。なぜ、カロルが顔を隠していたのか想像をしたこともなかった。わからないなりに彼に倣っていれば、このようなことは起こらなかったかもしれない。そう思えば自分の不甲斐なさが悔しくてならなかった。 「それが、フェリクスに起こったことと言うわけか。……アデル・ダムドよ」 呆けたよう、ダムドは王に顔を向けた。カロルの素顔を見て以来、体の震えが止まらない。いまこそ過去の亡霊に追いつかれた。 「まだ否定するか。それとも認めるか」 切りつけるかのノキアスの声。かっと、王の手にある真の銀の指輪が光を放った。青ざめてダムドは跪き、そして顔を伏せる。全身で後悔を表現する。 「メロール・カロリナに問う」 「はい、陛下」 「そなた、この者をどうしたい?」 「……陛下の御意のままに」 言いたいことなど、いくらでもあっただろう。だがカロルはそう言って頭を下げた。それはあるいは表情を隠す仕種だったのかもしれない。 「許す。言うがよい」 一切の慣例を破った王の言葉に大臣たちが騒ぎ出す。賞罰を定めるのは王の権限。王だけの持つ特権だった。たとえ被害を受けた者であっても、どのような罰を望むかを口にしてよいはずがない。 近衛騎士団長が一喝するまでもなかった。ノキアスが視線を巡らせるだけで、大臣たちの声が尻すぼみに小さくなっていく。 「王の仰せに従います」 騒ぎ立てる声が静まるのを見計らっていたかのカロルの声。そして彼は誰も見ずに言った。 |