何度かのまどろみと覚醒をカロルは感じていた。神聖魔法によって致命傷を癒された体が、今度は自らの力をもって傷を治そうとしている。
 傷を塞いだからと言って、すぐさま活動できるものでもなかった。体の深いところに澱のように溜まるものがある。
 それが腹の中を焼いたり冷やしたりしてはカロルの体を苛んだ。時折、自分の喉が呻きに似たものを漏らすのも、知っていた。
 不思議なものだった。メロールやリオンと会話をかわしたのが現実だったとはとても思えない。だが確かにあれは回復の初期だったのだと今にして知れる。
 目覚めたこと。それによって神聖魔法の一部が効力を失ったのだろう。その後はカロル自身の体力によって治癒させるのが、人間の体にとっては最も自然なことだった。
 うとうとと眠っては、目覚める。首を傾けて隣のベッドを見た気がした。眠っているはずの姿を探して。
 だが、カロルの目は何かを捉えたという気がしなかった。それは意識がまどろんでしまったせいなのかもしれない。
「水――」
 喉の渇きを覚えてカロルは目を開ける。不意に快癒しているのを知った。ゆっくりと体を起こしてみる。少しの痛みもなければ、眩暈もない。
 枕元にあった水差しからコップに水を注いでみた。たっぷりと水の満たされた重い水差しを、少しも揺らぐことなく持つことができる。
 カロルの口許に笑みが浮かぶ。ようやく治ったのだ、そんな思いがカロルの心を躍らせる。注いだ水を飲み干せば、甘い。体中に染み渡っていく心地だった。
「おい、ボケ」
 なにげなく彼がいるはずの寝台を振り返る。カロルが見たのは空のベッドだった。
「あぁ……」
 いないのか、そう思った。すでにリオンの体力は戻り、メロールと共にいるのだろうか。
 一瞬カロルはそう思い、けれど否定する。それほどリオン自身がラクルーサの宮廷で信用を勝ち得ているわけもない。おそらくはどこぞに軟禁されていることだろう。
「地下牢じゃなきゃいいけどな」
 ぽつりと呟く。リオンはきっと地下牢に放り込まれてもたいして気にも留めないだろう。だが日の射さない半ばぬかるんだ土の床に黴の生えた壁がじっとりと湿っているような牢に、リオンがたとえ一日であったとしても入れられる、と思うのはいやだった。
 不思議とフェリクスがそこに放り込まれていることに対する不快さはあまりなかった。不愉快に思うには、彼は途轍もないことをしすぎた。
 必ずしもフェリクス自身がすべての責任を負うものではない、とカロルは思ってはいたが、それでも罪は罪。罰は受けるべきだと考える。そのほうが、フェリクスにとってよりよい将来をもたらすはずだと信じて。
「まぁ、なんとかしてくれてっかな」
 自分が不甲斐なく寝込んでいた以上、リオンの処置はメロールの一存、と言ってよかった。人間に慣れているとは言え、本質的に警戒心の強い半エルフのメロールがリオンとは親しげに話していた。
 カロルとしてはそれに賭けるしかない。メロールがリオンを気に入ってくれていれば、軟禁は避けられないとは言えある程度以上は快適さを約束してくれているだろう。
 とにかく、いまはリオンの行方を考えても仕方ないことだった。カロルは一つ肩をすくめて頭の隅に追いやる。それから自らの体を確かめるよう、カロルはベッドから降りた。
 窓の側へと歩み寄る。ちょうど向きがよかったのか、そもそも嫌がらせの一環なのか、カロルの病室の窓は崩壊した塔の跡地に面していた。
「ひでェ……」
 呟いたカロルの顔が青ざめる。魔力が暴走した結果なのだろう、塔の建っていた場所は一面の荒地と化していた。
 ごろごろと巨石が転がっているのは、塔の残骸だろうか。荒れ狂う魔力を浴びたのだろう、岩も土もありえないほど灰色になっていた。
 円を描くよう、ぽっかりとそこだけが荒地となっているのは、カロルの心胆を寒からしめるのに充分だった。
「あん? 結界か」
 ふと心づく。魔力の暴走が、あれだけの場所で済んでいるはずがない。間違いなく結界によって封じ込められた結果だった。
 おかげで結界の内部は酷いものだった。あれでは地の底に至るまで、荒れ果ててしまっているだろう。今後、いかなる木々も草も生えることはないはずだ。永遠に、ではないにしても相当に長い年月を経てもなお。
「地下牢で済んでっかな」
 苦く笑う。すでに王も重臣たちもフェリクスが元凶の一人だと知ってはいるだろう。彼がなにを思ってあのようなことを為したのかは、知らないにしても。
 いずれにせよ、王宮の至近にこのような場を作ってしまったフェリクスの安否が気遣われた。
「ちっ」
 考えても仕方ないことばかりが脳裏をよぎる。自分ひとりで何とかできるものならば、弟子をつれて逃げてやってもいい。そう思えどもそれで済むはずもない。
 カロルにしては深い溜息をつき、窓の側から離れた。見れば着替えが用意してある。自分の体を見下ろせば、簡素な施療着だった。
 それが急に煩わしくなったのは、やはり体が回復したせいだろう。いつまでも病人をしているのは、いやだった。
 着替えを手に取れば、メロールが用意したものだと知れてカロルは微笑む。それは普段カロルが身につけているフード付きのローブだった。
 特別こだわりがあるわけではなかったのだけれど、いつしか黒衣の魔導師、と呼ばれるようになっていた。そのような評判は巧く使うに限るとばかりカロルは以来、黒いローブだけを身につけている。
 体に馴染んだローブに着替えれば、ほっとした。カロルの白い肌に黒はあまり似合っているとは言いがたい。強い色が顔に映って青ざめて見えるのだ。
 だが、それでよかった。黒をまとうのは人前に出るときだけの事。ならば、それでいい。どころかそのほうが効果があるとも言える。深くフードを引き下ろした口許だけが見えるのだから。
 青白い肌に、ほんのりと赤い唇。言葉を発することも稀な黒衣の魔導師。それが性別さえも定かではない、と言わせるカロルの宮廷魔導師としての顔だった。
 ゆっくりと深い呼吸をする。いまからカロルはカロルでなくなる。メロール・カロリナの顔をする。ふっとリオンの言葉がよぎった。
「あなただって宮廷魔導師の顔は持ってるでしょうに」
 真面目とは思えない顔をしながら、真摯に言った彼の声が蘇る。知らずローブの胸元をカロルは握り締めていた。
「おう、持ってるぜ」
 過去の声にカロルは答える。自分でも、好きな顔ではない。できることならばあと数十年は人前に出たくない。だからこそまとったこの姿。フェリクスには、ついに理解できなかった。
「だから面倒なことになんだ、あの馬鹿弟子が」
 吐き出すように言ったわりに、カロルの口調は温かい。カロルなりの、弟子に寄せる愛情だった。
 面倒は、山積みだった。宮廷政治を考えれば、フェリクス一人が犠牲にされることも考え得る。それだけはなんとしても避けなくてはならない。
 他人がどう取るかは別の問題だった。だがカロルにとっては、原因はダムドにこそある。そしてフェリクスが憎んだよう、この世界そのものにも。
「ッたく、面倒くせェ」
 フェリクスを殺して終わりにさせるわけにだけは、行かない。そのような上辺を取り繕うやり方だけは、させない。
 だが、真実を明らかにしてしまえばフェリクスの苦痛はいや増すことだろう。
「一緒に歩いてやるよ」
 聞こえない弟子にカロルは言う。すべてを明らかにし、できれば少しでもこの世を住み易く。なによりそれがフェリクスを前に進ませることになると信じる。
「けっ」
 自分が前に進めもしないカロルは自らを嗤う。フェリクスの苦痛は、彼の苦痛だった。
「ボケ……」
 口にしてぎょっとする。誰もいないというのに唖然として瞬きをした。
 カロルは自分を疑った。フェリクスを呼んだのだろうか。それとも。自らに問い、そして答える。答えるまでもないことだった。
 きゅっと唇を噛んだ。助けてくれたのはありがたいと思う。フェリクスの師として、カロルはまだこの先も未熟な弟子を導いていきたい、それはそれで真実の思いだ。
 だが、カロルはカロルとして思う。願わくば、あのときに息が絶えてしまいたかった、と。この先に待つものをカロルは恐怖する。
 すっと瞼の裏が冷えるような心地がしてカロルはそっと目を閉じた。荒れるでもなく感情が渦巻く。規則正しい呼吸を意識して繰り返す。魔術師ともあろうものが取り乱すのは恥とばかりに。
 ふっとカロルが顔を上げた。扉を見つめつつフードを被る。深く顔の前に下ろされたとき、扉が開いた。
 入ってきたのは老人だった。どこかで見覚えが、とカロルは思考を凝らし記憶を探る。やっとのことで思い出したつもりが、実際はたいした時間ではなかったらしい。まだ老侍従長はそこに立ったままだった。
 侍従長はカロルが立っているのを目にして、はたと立ち止まる。まさか、とその顔が語っていた。
「お目覚めとは聞いていたが……」
 カロルは黙ってうなずいた。知らせたのは間違いなくメロールだろう。半エルフの鋭い感覚も一因ではあるが、魔術師同士である。彼はカロルの精神に触れることなど造作もない。ならば快癒を告げたのも当然と言えた。
「気分はいかがか?」
 内心の動揺を押し殺して言うのはさすがだった。侍従長は微笑を浮かべながら扉を閉めては優しげにカロルに問う。
「完治したかと。メロール師がそう仰ったのでは?」
「そう聞いてきたのですが、あまりにも回復がお早い。感服しましたな」
 老侍従長はカロルの声を聞いても少しも驚かなかった。人事不省の間に顔でも見られたか、とカロルは不審に思う。
 だが老人は宮廷に長く仕えた者であった。感情を隠すことなど児戯にも等しい。たとえ心の中で激しい驚きを感じていたとしても。
「お元気になられて良かった。早速だが」
 一度、言葉を切ってカロルの顔色を伺うよう、侍従長はフードの中を探る。そしてそのような自分を恥じるよう視線を戻した。




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