突如として凄まじい吐き気がリオンを襲った。思わずかしいだ体を制御しきれず床に膝をつく。ひんやりと冷たかった。そのおかげで正気に返る。
 無理やり目を上げれば、メロールが何かを掌に乗せていた。妙に目が惹きつけられてそれを見定めれば、あの転移の首飾りだと知れる。
「リィ・サイファ……」
 懐かしそうな顔をしたメロールが不意に呟いた名にリオンははっとする。
「あなたのおかげだ」
 リオンは我が目を疑った。メロールの掌の上で首飾りが形を失っていく。まるで砂に還るよう、さらさらと崩れていった。
「愛しい者たちを失わずに済んだ。ありがとう……」
 遥か昔にこの世から姿を消した半エルフの魔術師。もしかしたらあの首飾りは、伝説の魔術師が作った物なのかもしれない、そうリオンは思う。
 そのリオンが見ている目の前で、魔力を使い果たした首飾りは大気に蕩けるよう消えていった。幻想的で美しく、どこか切ないものだった。
 完全に首飾りが消え果て、メロールがきっぱりと思いを振り切るよう顔を上げた。リオンはその彼にようやく声をかけた。
「ここは……」
 力を失ったカロルの体を抱いたままリオンは辺りを見回す。今はただ、清潔な室内だということしかわからなかった。
「王宮」
 一言だけメロールは答え、フェリクスとダムドがそこにいるのを確かめたあと扉を振り向いた。
 転移は、成功したのだとようやくリオンに理解された。慌ててカロルの息を確認する。浅い。
「生きてる……」
 しかしカロルはまだ生きていた。転移の衝撃だろうか、突き刺さったままの剣に、滴るよう血潮があふれ出す。それを目にしたフェリクスの血の気を失った顔がいっそう青ざめた。
「メロール師!」
 激しい音を立てて扉が開く。そちらに踏み出していたメロールの足が止まった。
「トランザム」
 相手を見たメロールがひとつうなずく。どうやら旧知の人物らしいと察したリオンが緊張を解いた。彼が扉を開いたのは、それほどまでの勢いだった。
「いったいなにが。例の塔が――」
「崩壊をはじめた。魔導師団を派遣して結界を張るように命じたが……いささか荷が重い。近衛騎士団の出動を要請しようと思っていたところだ。ちょうどいい」
「だが、我が騎士団も崩れ落ちるものに対してはどうもできん」
「そちらは魔導師団が対処する。問題は中から逃げ出してくるかもしれない魔物だ」
「……魔物が、やはり!」
「神官殿」
 トランザム、と呼ばれたのはおそらく近衛騎士団長なのだろう。見ればそれらしいものを身にまとっている。今は一刻も早くカロルを、とそればかりを考えていたリオンは突然メロールに言葉をかけられ戸惑う。
「はい」
「もっとも強敵だった魔物は、なにかな」
 それはもちろんフェリクスだ、と言いたかったけれどそうも行かない。リオンは騎士団が派遣されることを前提に思考を凝らす。
「ドラゴンがいましたが、そう何頭もいるとは思えません。手こずるとしたら獣人と氷系の魔物でしょう。松明を大量に用意したほうがいいかもしれません」
「なるほど。感謝する」
 答えたのはトランザムだった。そちらに向かってリオンはうなずき、促すようメロールを見た。腕に抱いたカロルの体から、ぬくもりが失せていくような気がしてたまらなかった。
 一言二言、メロールと会話をかわしトランザムが駆け戻っていく。出来る限り早く騎士団を出動させるのだろう。付近への被害が、そう言ったカロルの言葉が思い出されてやりきれなかった。
「フェリクス」
 名を呼んだだけだった。けれど彼はメロールを見たまま体を強張らせる。そのまま動きを止めた。魔法で拘束されたのだろう。だがまったく詠唱が聞こえなかった。このような状況でなかったならば、詳しく話を聞きたいもの、エイシャ女神へ話して差し上げることができる、そう楽しみなはずの現象なのにリオンはまったく心が踊らない。
「なに……」
 声だけは出せるのだろう。恐怖に硬直したままのフェリクスの声がした。
「私は忙しい。その間に悪さをしないようにね。あとでアルディアを来させる。しばらくそうしていなさい」
 きゅっと唇を噛んだフェリクスに背を向け、メロールが歩いてきたのを、リオンはいやにゆっくりしていると感じた。もっと焦って欲しい。カロルの命が失われようとしているのに。
「神官殿。休まれるといい」
「ですが!」
「その体では、無理だろう?」
 そっとリオンの手に触れた。魔術師のしなやかな手にカロルを思う。黙ってリオンは首を振る。
「大丈夫です。やらせてください」
「だが」
「必ずカロルを助けて見せます。――私の命に代えても」
 カロルを抱きしめた。抵抗もしない、罵り声も上げない。そのような彼など恐ろしかった。喚き散らして嫌がって欲しい。こんな彼よりそのほうがずっと、ずっと良かった。
「それはいけない」
「メロール師!」
「治癒はお前に任せよう。他に神官はつけるけれどね。だが、命をかけてはいけない。そんなことをしたらカロルが泣くよ」
 その言葉にこそ、リオンは胸が詰まる。泣き笑いの顔でメロールを見上げれば視界が歪む。慌てて顔を拭えば汚く血に汚れていた。
「さぁ、急ごうか」
 どこかのんびりと言うメロールに従い、リオンは立ち上がる。重たいカロルを抱き上げて行く先は静謐の間。神聖な魔力に満たされたそこでカロルの生死が決まる。複数の神官による致命傷の治療が始まろうとしていた。

 見上げたのは、見知らぬ天井だった。白いのかと思って目を凝らせば、淡く色がついている。目を疲れさせないための色だ、と思った。
「ここは……」
 まるで体が動かなかった。拘束されているのかと思って頭を上げようとしたけれど、持ち上がりもしない。せめて視線を動かす。
 どうやら縛りつけられているわけではないらしい。つまるところ、酷く疲れているだけらしかった。それにしてもここはどこで自分はなぜここにいるのだろう。ぼんやりと頭の中が混乱している。
「気がついたね」
 覗き込んでくる顔に目を瞬いた。やっと記憶が戻ってきた。
「師匠!」
「起きるんじゃないよ、カロリナ」
 ベッドの上に押さえつけながら、起きられはしないだろうけれど、そうメロールは言い足す。
「ここは。なんで、俺。それよりボケは!」
「まったく。ここは施療院。お前は死にかけてたのを引きずり戻したおかげで眠ってた。ボケって、なんのことだ?」
 一つずつ律儀に答えたメロールが首をかしげる。細く編んだ両側の髪がはらりと動いて、そんな他愛なく見慣れたものにカロルは帰ってきたのだ、と思う。
「一緒にいたでしょう。ボケは……ボケですよ」
「可愛い弟子の事は聞かないんだね」
「あれが生きてたのは知ってますよ」
 ふいとそむけようとした頭が動かない。苛立たしくて唇を噛む。最後まで自分の体を抱いていたリオン。そこまでは生きていたのを知っている。
 だが、不自然だった。生きているならば、なぜここにいない。よもやすでに地下牢かどこかに拘束されているのだろうか。あるいは。
「師匠!」
 己の想像にぞっとした。冷たく強張る精神の中を探りまわす。確かにそこにリオンの魔法が息づいていた。
 リオンが死の縁から戻してくれたのだと、言われるまでもなくカロルは知っていた気がする。それは彼の魔法が体に満ちていたせいかもしれない。
「あぁ、それからダムドも生きてるよ」
「そんなこたァどうでもいいんです。ボケは――師匠! なんで。どうして死なせたんです! そんなこと俺は望んでない!」
 リオンの命と引き換えに。ここに生きている。そう思えばどうしていいのかわからなくなりそうだった。いっそあの場でリオンの腕の中、死んでしまえばよかったとまで思う。噛みしめた唇。口の中に血の味がした。
「あのー。生きてます……」
 はっとした。聞こえてくる声。動かないはずの体が飛び上がりそちらを見た。
「クソ坊主! テメェなんで生きてやがる! とっとと果てやがれ。ボケ!」
「私もカロルが生きてて嬉しいですよ」
「んなこたァ言ってねェ!」
 にこにこと笑ったリオンが別の寝台に横たわっていた。がさついた唇、血の気のない顔。再びカロルは唇を噛んでいた。
「彼のおかげで生きているのに、なんて言い様だ、カロリナ」
 冷たいメロールの声がたしなめる。が、カロルはその声の中にわずかな笑いを聞き取っていた。だから、従わない。思う存分罵りたかった。再会を、今だけは祝したい。
「いいんです、メロール師。カロルは照れてるだけですから」
「誰がだ! うっせェぞ、ボケ」
「うーん、やっぱりあなたはそのほうがいいなぁ」
 満足そうな呟きに、カロルはほっと息をつく。目を閉じて横たわったリオンの顔を横目で窺えば、やはり憔悴している。もしかしたら自分よりもなお。
「ひでェ面」
 吐き出すように言えばリオンが目を開く。そっと笑った。胸が痛くなりそうだった。
「ちょっと制御を誤りましてね」
「あん?」
「うっかり生命力を流し込みすぎちゃって、死にかけました。私」
 呆気に取られて物も言えない。体が自由に動くのならば蹴り飛ばした挙句に魔法を叩き込みたいところだ。こらえてカロルはぐっと腹に力を入れ、入らない。諦めて枕に体をもたらせかけた。
「馬鹿かテメェは」
「まったくですねぇ」
「ボケが」
「はい」
 うっとりと返事をするリオン。見ているだけでこちらまで心が温まりそうだ。知らずカロルの口許にも笑みが浮かんだ。




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