腹に響く破壊音が聞こえた。塔のどこかが崩落したのだろう。時間はない。決断しなければならない。 為すべきことを為さねば。決意をするためのわずかな力が欲しい。 そうぎゅっと目を閉じていたリオンの隙をつくよう、フェリクスが立ち上がってカロルを覗き込んでいた。 その手に握られているのは、氷の剣の柄。まだカロルの腹に突き立ったままのそれをフェリクスは握っていた。冷たいはずのそれが、カロルの血を吸いでもしたよう脈動する様が忌々しい。 「なにを!」 無言で柄を握ったフェリクスをリオンは睨みつける。カロルを抱いたまま彼の手を掴んだ。 「苦しませたくない」 「馬鹿なことを!」 「どこが! このまま死ぬんだったら、楽に――」 フェリクスが、呆然とした。リオンは片手でカロルを抱いている。もう一方は自分の手を掴んでいる。それなのに、頬に衝撃を感じた。魔力による殴打だと、理解することができなかった。 「私は諦めない。カロルを死なせない。決して」 フェリクスに向かってリオンは言う。けれどそう言った彼自身、どうしたらよいのかがわからない。 カロルをここに置き去りにすれば、間違いなく塔の崩壊に巻き込まれる。かといって彼をつれて転移してもカロルの体は持たないだろう。カロルを神聖魔法で守護しつつ転移の首飾りを使うのは、いかなリオンといえども無理だった。 塔が、揺れた。基部から、壊れ始めている。はっとして辺りを見回す。これだけの規模のものが崩壊すれば、周囲の被害も生半なものでは済まないだろう。 「だから、跳べって」 浅い呼吸のカロルの声。まるでリオンのよう、彼の内心を見透かした言葉にぞっとする。 「カロル……」 「テメェは、神官だろうが。被害が、広がる」 「それは困りますねぇ」 「……わかってん、だったら、さっさと」 最後まで言うことができず、カロルは笑みを浮かべてその事実を誤魔化す。その程度でリオンを欺けるとは思ってもいなかったけれど。 轟音が響いた。壊れる壁などないというのに、砕けた岩が落ちてくる。何もできないリオンは空を見上げ、まだ天井の縁が残っているのを見つけた。 「あれか……」 だから、何だというのか。岩の正体が知れたからと言って、なにができるわけでもない。フェリクスの言うとおりなのだろうか。ここでカロルを楽にさせたほうが、いいのだろうか。 「……できません」 誰に言うでもなく、むしろ自分自身に向けてリオンはきっぱりと断言した。そう言うには、あまりにも苦渋の滲んだ声だった。 「壊れてく……」 フェリクスがいまだ頬を押さえたまま立ち尽くす。彼は何を思うのだろうか。彼が作り上げた魔術師の塔。その崩壊に彼の師が巻き込まれようとしている。彼の手による致命傷によって。 どん、と背筋に響く音。すぐそばの階が、落ちたのだろう。この階が崩れ果てるのも、もうすぐだった。 「あ」 気の抜けたフェリクスの声。リオンは見るともなしに彼を見る。いまここで役に立つ人間ではないとばかり、リオンは非情だった。 そのリオンの目が見開かれる。かっと開いた目が捉えたもの。光。目に見えるそれではない。神官であるリオンにも見て取れる強大な魔力の塊。 光が、塔の中に顕現する。その圧倒的な力ゆえだろうか、塔が激しく揺れた拍子に再び岩が落下をはじめた。 咄嗟に目許に腕を上げ、カロルを体の中に庇い込む。そのようなことでカロルの命を守ることができるのだろうか。ただ、ほんの少し彼の苦しみを伸ばしただけではないのか。 リオンは逡巡を押しのける。いまはただ、生きること。 「すげェ」 カロルが、頭を巡らせて何かを見ていた。こぼれだした声に恐怖はない。そのことが反って恐ろしかった。が、彼の声音にあったかすかなものにリオンは目を上げた。そして見た。 「さすが、師匠。狙ってた、みてェ」 にたり、カロルが青ざめた顔で微笑っていた。その彼を見下ろすように立つ隻腕の半エルフ。魔術師、サリム・メロール。 リオンはいまこのとき彼の姿こそ、神の顕現のように見えていた。知らず目が潤んだ。 「あんな派手な魔法を使っておいて、よく言う。王宮からも見えたよ。が、説教はあとだね」 辺りを見回しメロールが顔を顰めた。そして彼の目がフェリクスと、倒れ伏したまま意識のないダムドを捉える。カロルを見下ろし、うなずいた。 「貸しなさい」 ただそれだけを言う。師の言葉がカロルにはわかるのだろう。やはり親密な師弟と言うものがリオンにはよく理解できない。 「ボケ」 「はい」 「返せ」 「あ。はい」 けれど自分たちだとて、そうではないか。たったこれだけの言葉で意思の疎通が図れた。このような状況でありながらリオンは心が温まるのを覚える。それはメロールがここに来てくれた、と言う安堵もあったのかもしれない。 握らされた転移の首飾りをメロールに差し出せば、彼はどこか不思議そうな顔をした。それからフェリクスを呼び寄せる。 「……いや」 しかしフェリクスは逆らった。片腕で、自らの体を抱いてメロールの言葉を拒んでいる。折れた腕が力なく垂れ下がる。 「僕が。カロルを」 「その話しはあとでカロルとしなさい」 「でも!」 「うるさい子だね。カロルが死ぬよ」 ぎゅっとフェリクスが手で肩を握り締めた。まるでそのまま小さくなって消えてしまいたいとでも言うように。 淡々と言うメロールの言葉に、一度は温まったリオンの心が冷えていく。カロルが死ぬかもしれない。それを彼の師であっても他人に言われるのは受け入れがたかった。 「フェリクス」 冷たいとも聞こえるメロールの声。はっとしてフェリクスが顔を上げた。 その体にめり込むような重い蹴りが飛ぶ。愕然としているリオンの目の前で、フェリクスが体を折った。 「叱られたいなら、いまはカロルを生かすことを考えなさい」 なんということを。思うリオンは再び驚愕に落とし込まれた。床に伏せたまま、フェリクスがうなずいたのだった。ずるり、その床が揺らぐ。 「急げ。時間がない」 「……はい」 いやいやとフェリクスがダムドをさらに引きずり寄せては襟首を掴んだ。 「神官だね?」 突然、声をかけられたリオンは目を瞬く。なにを考えることもなくうなずいていた。半エルフの、深い目に見つめられて唖然としていたのかもしれない。 「追尾は、できる?」 「できません」 「だろうとは思ったけれどね」 とりあえず聞いてみただけだとでも言わんばかりの言葉にリオンは呆然とした。そのような時間的余裕など、どこを探してもない。 カロルはなにを思うのだろうか。その師を信頼してすべてを任せているのだろうか。そっとリオンが覗き込んだカロルは、目を閉じていた。 「……カロル?」 背筋に冷たいものが滑り落ちた。はっとしてフェリクスが顔を上げた、その視線を感じる。 そちらを見ることもなく、リオンはカロルの体に耳をあてる。それだけではたまらなくて、口許にも耳を寄せた。 「まだ生きてるね。急ごうか」 呼吸を確かめたリオンが体の力を抜くのを見てはメロールが言う。 「なにを、すれば」 声が掠れていた。カロルを助けることが、できるのかもしれない。思った瞬間から緊張が高まっていた。 「その子を抱いてて。王宮まで転移する。首飾りがあるから、なんとかなるだろう」 首を傾げて言うメロールを信じるしかない。けれどそれにしては心許ない言葉だった。 「私だってこれほどの人数を一度に転移させたことなどないから」 メロールの口許に浮かんだのは、苦笑の影だろうか。だが彼がわずかながらであっても笑みを浮かべたことでリオンの覚悟が定まった。 「手伝いなさい。フェリクス」 それだけの言葉がまるで威力あるもののようフェリクスを飛び上がらせる。襟首を持ってダムドを引きずり、メロールの側に寄った。それはすなわち全員が固まることでもあった。 メロールがフェリクスを見やる。咄嗟にフェリクスが目を伏せた。その顎先にメロールの指がかかる。 「過ちは過ち。認めて前に進め。顔を伏せるな。――我が友ならばそう言ったことだろう」 メロールの言葉が、なぜかはわからない、フェリクスに染みとおったのだけをリオンは感じた。一度ぎゅっと唇を噛み、フェリクスは目を閉じる。 「その体では、お前もつらいだろうと思う。けれど――」 「大丈夫です。命じてください」 言葉を奪うように言うリオンにメロールが微笑んだ。そのとき体が縮み上がるような音を立て、床の半分ほどが崩落する。 「カロルを守ってやって。神官なら、できるね?」 「できます」 「無謀な愚か者だけれど、それでも可愛い弟子だ。頼む」 無言でリオンはうなずいた。それならば、できる。カロルの全身を神聖魔法の守護の壁で包み上げる。これ以上、命が逃げ出さないように。 それを確かめたのだろう、メロールが低く詠唱をはじめた。リオンは、半エルフの声と言うものを間近で聞いたのは初めてだった。とろりと魅惑的な声をしていた。それは魔法を行使しているせいなのかもしれない。 フェリクスはある意味では生きた魔力の貯蔵庫と化している。高まる魔力が揺らぐ炎のよう、目に見えていた。 リオンは知らなかった。けれどその行為そのものが、フェリクスにとっては償いだった。 フェリクスから立ち上る魔力に目を奪われていたリオンははっとしてメロールを見た。彼の唇から流れ出すもの。聞き取ることのできない言葉。 「真言葉魔法……」 呟きを目に留めたのだろう、薄く閉じていた目を開いたメロールがにやりとする。そのまま呪文を再開した。何もなかったかのように。 不意にわけも知らずカロルがその師に寄せる信頼も尊敬もが理解された。なにがどうとは言えない。彼ならば、大丈夫だ。理由などわからないまま、リオンの心にもすとんとその思いが落ち着いていた。 |