冷気の波が凍った。白く冷たく凍った大気にカロルが包み込まれたように見え、リオンは腹の中に重たいものを抱えた気持ちだった。ぐっと歯を食いしばる。
 これで、終わりか。そう思ってしまった自分を叱咤し、リオンはフェリクスに視線を移した。思わず喉が凍りつく。
 フェリクスは、その魔法でカロルを仕留めようとはしていなかった。彼の手にあるもの。血の通った氷の剣。禍々しく脈動する血の色が、冷気の霧に薄く浮かび上がっていた。
「カロル……!」
 声の限りにリオンは叫ぶ。叫んで、聞こえるのだろうか。危険を知らせたかった。白い波はフェリクスが自らの体を隠すためのものだと。その影から、剣を持った彼が突進していく。冷気の波に自らも乗り、カロルの許へと迫上がる。
「死んじゃえ、カロル――!」
 突き出した剣の先、確実にカロルがいることをフェリクスは知っていた。そのように追い詰めた。間違いなく、カロルは罠にかかった。
 あの男の叫びが聞こえていようがいまいが、カロルによける術はない。そしてフェリクスの目が歓喜に濁った。
「クソガキが――!」
 最前と、なんら変わりのないカロルの声だった。いまだ罠に嵌った獣も同然だと言うことを知らない声、フェリクスの耳にはそう聞こえる。
 その彼の目の前にフェリクスが飛び出す。剣を掲げ、突き出す。彼によけられるはずはなかった。そしてフェリクスが外すはずもなかった。飛び掛るフェリクスの喉元で首飾りが震えた。
「カロル――!」
 確かな手ごたえ。フェリクスは氷の剣に生々しいカロルの肉と血を感じ取った。淡淡と白い冷気が晴れていく。
「な……」
 緩やかに、腕が伸びてきた。ありえないものを、フェリクスは見た。
 カロルは、何一つ身を守っていなかった。その身を弟子に貫かせ、わずかに笑みを浮かべた。伸びた腕が、ゆっくりとフェリクスを招き、抱き寄せる。
「カロル……」
 どくり、剣が拍動した。はっとしてフェリクスは知らず剣から手を放す。だが氷の剣はカロルの肉に深く突き刺さって落ちはしなかった。
「馬鹿弟子が」
 優しい囁き声。カロルの腕の中に抱き取られフェリクスは言葉もなかった。いったい、自分は何をしたと言うのだろうか。途端に制御を失った冷気が力をなくし、カロルの体を落下させる。フェリクスと共に。床の上、何者かの絶叫がしていたがフェリクスの耳には届かない。
 そのフェリクスの喉元にカロルの手が伸びた。縊り殺されるならば、それもいい。フェリクスは黙って師の手に自らを委ねる。嫌な、音がした。
「カロル……!」
 フェリクスの喉から、たとえようもない叫びが上がった。突如として頭の中から霧が去っていくかの心地。ばらばらになっていたものが、この瞬間に一つになったかの。
「受け取れ、ボケ!」
 床に落ちつつ、カロルが叫んだ。リオンの体にかっていた圧力が突如として消えた。カロルの魔法盾が解除される。リオンは彼が力の限りに放り投げたものを咄嗟に受け止める。思わず取り落としそうになった。
「これは……!」
 とてつもない魔力を秘めたものだった。怖気が立つほどの支配の魔法がこめられた、それはフェリクスの首飾りだった。リオンは衣服の端を引きちぎり、それをくるんでは封印を施しつつ、カロルの元へと走った。彼らが床に叩きつけられる瞬間に、かろうじて間に合う。受け止めた腕が衝撃に軋みを上げた。
「カロル!」
「だめです!」
「うるさいな、カロルが……、カロルが……」
 自らの為したことを知ったフェリクスが焦点を失った目をして唇をわななかせ、カロルの腹に突き刺さった剣を引き抜こうとする。それを止めたのはリオンだった。
「このままじゃ、カロルが!」
「抜いたら、死にます」
「そんな……」
 ゆっくりと、間違いようもないきっぱりとした口調で言うリオンにフェリクスが目を向ける。そしてぺたりと床に座り込んだ。
 フェリクスの目が、今度こそ光を失っていくのをリオンは見もしない。それような暇はなかった。一心に治癒魔法に入る。これほど真摯にエイシャ女神に祈ったことはいまだかつてないほどだった。
「カロル」
 治癒魔法が発動する。緩やかに出血が収まっていくが、剣を抜かなくては根本的な治療ができない。そしてここで剣を抜くことはできなかった。
 かろうじて、カロルの出血を抑えているものもまた、フェリクスの氷の剣だった。血の通う剣が、まるでカロルの生命を吸い取っているように見え、リオンは唇を噛みしめる。
「テメェと話してる暇はねェ」
 そっとカロルがリオンの手を押さえた。治癒は要らない。そう言っているようでリオンは再び唇を噛む。せめてもう一人神官がいれば。自分ひとりでは手に余る、致命傷だった。
「わかってますよ」
「どこがだよ、あん?」
 ふっとカロルの唇がほころんだ。何かいやなものを見てしまったよう、リオンはそっと目を伏せる。あまりにも超然としていた。
 そしてリオンは漸うにして悟った。フェリクスからこの首飾りを奪うために戦っていたことを。カロルの目には、彼が魔法を帯びた首飾りに操られていることなど、一目瞭然だったのだろう。
「おいコラ」
 カロルが体をよじるのを、止めることができなかった。彼のしたいままにさせることしか、リオンにはできなかった。
「受け取れ」
 ローブの中から取り出したものを、カロルはリオンに握らせた。
「これは……」
 先程の首飾りと同じよう、魔法を封じた首飾り。ありえないほどに強力な魔力を宿しているのは、神官である自分が感じられることで証明されているとリオンは思う。だが、美しかった。禍々しいところなど一点もない。カロルのように、美しかった。
「転移魔法がこめられてる。テメェでも使えるはずだ。フェリクスと、できりゃダムドもつれて王宮に跳べ。あとは……師匠がなんとかしてくれる」
「そんな。あなたを置いては行かれません」
「俺は無理。転移できるほど体力ねェよ」
 仄かにカロルが微笑った。そのような顔など、見たくない。けれど目をそらすこともできずリオンはじっとカロルを見つめる。
「テメェが行かなきゃどうすんだよ、あん?」
 首飾りを握ったリオンの手。その上からカロルが自分の手を重ね合わせては握る。冷たくなっていた。
「フェリクスに頼んでください。いやです、私」
「馬鹿弟子は人事不省。あの状態で魔法なんか使わせられるか」
「でも」
「頼む、な?」
 嫌になるほど透明な顔をしてカロルが微笑った。堪えられない、リオンは首を振る。けれどそれが拒絶ではないとカロルは知っているよう、リオンの腕に抱きしめられたままじっと彼を見つめていた。
「ボケ」
 促すよう、懇願の響きが混じる。唇を噛み続けるリオンのすぐ目の前でカロルがふっと顔を歪めた。咳き込む。途端に彼の唇からあふれ出す熱い血。呆然としたままのフェリクスが、それでも小さく悲鳴を上げた。
「カロル」
 再度、治癒魔法を施す。このようなことをしていても、きりはなかった。彼が言う手段をとるしか、ないのだろうか。
 迷うリオンの耳に響いた低い音。唖然として顔を上げた。塔が、地響きを立てていた。なにが、と思う間もなく床が軋みだす。
「フェリクス」
 師の声に答えて彼が視線を上げる。その目だけでリオンには見当がついてしまった。塔の崩壊が、始まったのだ。
「ボケ」
「いやです」
「おいコラ」
 言葉を発するたびに、カロルの唇が赤く染まっていく。リオンの唇がわななき、目が閉ざされる。瞼に薄く涙が滲んだ。
 轟音を立て、塔の壁が崩れていく。すでにこの階の壁はない。下部の壁だろう。ならば、いつまでもここにいるのは無駄死にと同じことだった。
「フェリクス、ダムドを連れてきてください」
 決然と、リオンが顔を上げた。それをカロルが見上げて微笑む。たとえようもない安堵だった。すべて決着がついた。自分はリオンが去るのを見ることもない。そっとリオンの胸に頭を預けて目を閉じた。
「ちょっと、幸せかも」
 呟き声にリオンが顔色を変えた。カロルが、なにを意図して言ったものかが知れない。意識が混濁しはじめているのかもしれない。急がなくては、焦る気持ちだけが募っていく。
「いやだ! 触りたくない!」
「カロルが死にます。いいんですか!」
「いやだ!」
 今度の返事は違った。フェリクスが唇を引き締め、ゆらりと立ち上がる。カロルを抱えたままのリオンはフェリクスから目を離さない。万が一にもダムドを殺されてはかなわなかった。
 そんなリオンの思いなど知ってか知らずか、フェリクスはリオンの言葉に唯々諾々としてダムドを引きずってきた。乱暴に蹴りつけている程度のことは目をつぶる。
「フェリクス」
「いやだから」
「まだ……何も言ってませんが」
「ダムドをつれて王宮に跳べって言うんでしょ。いやだから。いまの僕には……無理だから」
 一息に言って目をそらす。あながち嘘だとも思えない。平静に受け答えをしているように見え、フェリクスは動揺の極みにあるのだろう。
 そうであるならば、いくら魔法のこめられた品を使おうとも、この状態で行使させれば転移の途中で虚空に崩壊しないとも限らない。
「落ち着いてください」
「……無理」
「フェリクス!」
「無理に決まってるじゃないか! 僕が……カロルを。カロル……カロルを、刺し殺した……!」
「勝手に殺さない。まだ生きてます」
「時間の問題じゃ――」
「うるさいです。やる気がないなら、黙って」
 彼の戸惑いや心の揺らめきになど構っている暇はなかった。もうカロルは言葉を発する気力もないのだろう、黙って二人のやり取りを見ている。
 見つめれば、翠の目が今までになく柔らかく見つめ返してくる。死を覚悟するでもない。ただそこに死があることを知っているようで、リオンはカロルの目を見ていることが、できなかった。




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