不意にカロルが剣を掲げる。フェリクスが、牢獄の中で恐怖した。リオンはただ黙ってじっと佇むばかり。
「――とでも言うと思ったか、クソガキが!」
 振り下ろした剣。リオンは行く末を見つめる。水晶にあたった炎の剣が立てる音はどのようなものだろうか。
 けれど音はしなかった。とろけるよう、水晶は消え。そこに立つのはフェリクス。だがフェリクスでいてフェリクスではない何者かだった。
「カロル」
 確かめるよう、フェリクスはその師を呼んだ。実用的な衣服は形もなく、ぽってりと重たい白いローブをまとっていた。袖口にも裾にも施された金の刺繍までもが重たげだ。喉元にかかった短い首飾り、浅黒い肌にそれはなぜか痛々しげだった。
「フェリクス」
 つ、とカロルが剣を上げた。まるでフェリクスの喉に突き立てようとでもするように。その切先を、フェリクスは感情のない目で見ている。
「あれは、なんだ?」
 カロルの視線が動いた。彼の邪魔をしないように、とリオンは体を開く。向こう側に魔法の眠りに陥ったダムドの体があった。
「あれは……」
 リオンの背筋が冷えた。ダムドに向けたフェリクスの目。人のものであって人のものではない、無表情な目だった。そのくせ、口許には薄い笑みを刻んでいる。
「死んでいい男」
 そっと甘い言葉でも囁くようなフェリクスの声。カロルは答えず、己が弟子を凝視していた。
「簡単だった」
 リオンは愚か、カロルでさえフェリクスの視界には入っていないのかもしれない。切先にかまうことなくフェリクスは歩を進めた。
「意思を奪って――」
 その彼の前、リオンが立ちはだかる。やっとそこに何者かがいることに気づいたよう、フェリクスが目を上げては微笑んだ。
「操って――」
 淡々と語るフェリクスの声に、リオンは惑わされたのかもしれない。咄嗟に何が起こったのかわからなかった。ただ、手で押されただけだった。そのはずだった。か細い魔術師の腕にリオンは突き飛ばされ、度を失う。
「反逆者にした。それでも――」
 突き進むフェリクスのローブを、リオンが掴む。煩わしげに払う手を、今度は離さなかった。
「気が済んだとは、思えないけど」
 身を振りほどくこともなく、フェリクスがリオンを振り向いては笑った。ぞっとして手を離しかける。が、寸前で留まる。それをフェリクスが興味深げに見ていた。
「邪魔だよ。誰? 凍え震え凝れ大気――」
 緩やかな声。それなのに冷たい音の連なり。
「ボケ! よけろ!」
 カロルの声が飛ぶ。言われるまでもなかった。すでに不穏を感じ取っていたリオンは手を離し飛び退く。
「――リゼー<血氷剣>」
 冷ややかな声。それと共にフェリクスの手に剣が出現した。カロルの炎の剣と似て非なるもの。彼の手にあるのはどこまでも透明な氷の剣だった。それを目にしたリオンは喉元に込み上げてくるものを抑えきれない。
 氷の剣には、血が通っていた。文字通り、透き通った剣身に徐々に深紅の血が流れていく。フェリクスのものではない。剣それ自体が鼓動していた。フェリクスが、これほどまでに無表情でなかったならば、あるいはそれは美しいと言い得る剣であったかもしれない。
「心配なんだ、カロル」
 ちらりとリオンを見てフェリクスが笑った。なにを考えるまでもない、リオンはハルバードを構える。その瞬間氷の剣が叩きつけられてきた。重い衝撃に、手が痛む。
 手の痛みよりなおリオンを驚愕させていたもの。フェリクスの変貌だった。もとより彼を知りはしない。だがこれが本来の彼であるとは決して言えはしないだろうとリオンは思う。もしもそうならば、カロルはここまで来なかったはずだ。
「カロル、どうしたらいいですか……!」
 武器を打ち合わせる合間にカロルに声を飛ばした。リオンが遅れをとるとは思ってはいないのだろう、カロルはじっと観戦している。あるいは自分が前に出て邪魔になることを懸念しているのかもしれない。
「おいクソガキ」
 けれどカロルはリオンには答えなかった。ただ静かにフェリクスに目を向ける。
「テメェはなにがしたかった」
「なにって?」
「馬鹿大臣とっ捕まえてなにするつもりだったかって聞いてんだよ!」
「あぁ……あの馬鹿か。殺すよ。考えられる限りの不名誉を与えてやる。その上で無駄死にすればいい。最期に教えてやるんだ。全部、僕の復讐だったって」
 この上なく楽しいことを語るよう、フェリクスは語った。疎かになった剣にハルバードが打ち込まれ、白いローブを切り裂いた。
「ガキがなにほざいてやがる!」
 カロルの剣がはじめてフェリクスを襲った。顔をそらすだけでかわしもしない。が、剣圧で頬がぴしりと切れた。
「ガキが復讐だとか言ってんじゃねェよ!」
 炎の一閃。黒髪がはらりと散った。それに気づきもしないよう、フェリクスはじっと自らの師を見つめ、そして眦を吊り上げた。
「知らないくせに! なんにも知らないくせに!」
「おう、知らねェよ。テメェは俺に何か言ったか、言ってねェだろうがよ!」
「気づいてもくれなかった――!」
「理解して欲しけりゃ言え、クソガキ!」
「うるさい! カロルは気づいてくれなかった。ダムドみたいな男が平然と生きている。こんな世界――」
 氷の剣がすらりとカロルの体を薙ぐ。寸前で半身になっては避ける。それでいてさえ剣からあふれ出す凍気を感じた。
「滅べばいい――!」
 避けられた剣の動きを殺すことなくフェリクスが再度カロルの体に剣を叩きつける。火花が上がった。氷と炎が互いを食い破ろうとするように。
「ふざけたことぬかしやがって……!」
 跳ね上げたカロルの剣につれ、フェリクスの剣が頭上に上る。一瞬、彼の表情に歓喜が、その目に苦悩が宿る。振り下ろされた氷の剣。阻んだのはハルバードだった。
「誰、邪魔」
 フェリクスが、リオンに視線を向けもせず剣を叩きつける。かわした、と思ったはずの剣が眼前にあった。瞬間、氷に戻る。顔に襲い掛かる冷気を腕を掲げてかわした。
「守護せよ――オムサ<焔盾>!」
 ふっと体が暖かくなる。リオンの視線がカロルを捉えた。彼の魔法の盾。感謝に代えてハルバードを握りなおす。
「酷いね、カロル……」
 呟きほどの大きさ。けれどその声はリオンの胸を打った。知らず指先が緩む。
「ほだされてんじゃねェ、ボケ!」
 カロルの叱咤に愕然とした。慌てて握りなおしたハルバードがかろうじて間に合った。
 閃く氷の剣がどこからともなく差し込む光に輝いて、妙に美しい。血が通う剣など、禍々しいだけのはずが幻惑されているのかもしれない。
「すみません」
「殺すなよ」
「わかってますよ!」
「けっ」
 苦い声をカロルはしていた。リオンはその声にカロルの不本意を知る。戦いたくなどないのだ、と。
「カロル」
「師匠に手ェ上げてんじゃねェ、クソガキ」
「酷いよ」
「なにがだ、コラ」
「どうして。こんな誰だか知らない人、庇うの」
「テメェが口出す問題じゃねェ」
 さも嫌そうに言うカロルに、こんな場合だと言うのにリオンは笑みをこぼした。それを目に留めたのだろう、フェリクスの剣がリオンを切りつける。
「テメェの相手は俺だろうがよ」
 リオンの肩の辺りを薙ぐかに見えた氷が止まる。リオンの目の前に青い炎があった。冷たい高温の色をしているのに、どこか優しいぬくもりのカロルの炎。彼自身に似て。
「カロルは僕の味方をしてくれなかった」
「あん?」
「だから、世界を滅ぼすその前に――」
 阻まれた剣をフェリクスが両手で構えた。
「カロルの大事にしてるものも、壊してあげる」
 あどけない子供の笑みだった。戦いの最中だというのに、リオンは呆然としそうになる。けれどカロルの顔に引き戻された。彼はぎりぎりと歯を食いしばっていた。
「世界が、なんだ……!」
 頂点に達したカロルの怒りが容赦を忘れさせる。炎の剣が、確実にフェリクスを仕留めようと動く。
「テメェのちっぽけな世界で他人を巻き添えにしてんじゃねェ!」
「カロル――!」
「死にたきゃ勝手に死ね! 他人を巻き込むんじゃねェ、クソガキが。そんなこともわかんねェうちに――」
「うるさいよ、カロル!」
「死ぬの殺すのほざくんじゃねェ! 生きて、生きて、生き抜いて、それから死にやがれ――!」
 血飛沫が散った。唖然とするフェリクスの目が、自らの肩を見る。ざくりと割られた肩。致命傷ではない。だが血は止まることなく滴った。
 咄嗟の判断だった。リオンは考えることもなく魔法を飛ばしていた。フェリクスに。治癒魔法を。温まっていく肩を、フェリクスが見た。そしてリオンを見た。
「出てこい、フェリクス。テメェのちっぽけな世界から」
 リオンに視線を少しだけ向けたカロルが口許に笑みを刻んだ。フェリクスが知るだけが世界ではない。もっと広い、もっと大きなものがあると。言葉にせず証明するよう。
「――ない」
 わずかにうつむいたフェリクス。リオンはカロルのために願う。このまま終わって欲しい、と。けれどリオンの耳に届いた呟きは。
「なんだと?」
「そんなこと、知らない! もういや……こんな世界、生きていたくない……!」
 決然と顔を上げたフェリクスの頬に伝うもの。彼が手にする剣のよう、澄んだ涙。食いしばった歯から歯軋りが聞こえる。
「知りもしねェくせによ!」
 カロルの手が、フェリクスの剣を弾き飛ばす。突然のことに対応しかねたのだろう、飛ばされたままの剣をフェリクスは見もせず消した。
「カロルだって、なんにも知らないくせに!」
「はっ。平行線だな」
 鼻で笑ってカロルもまた剣を溶かした。フェリクスが一つうなずく。どこかで澄んだ音がした。南側の壁が蕩けて消えた。びょう、と風が吹き込む。




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