突然のことだった。すっと明りが差し込んできたのは。不自然さに示し合わせたわけでもないのに二人の足が止まる。視線を落とせば階段が煌いていた。
「氷ですねぇ」
 やれやれと言いたげにリオンが足元を指し示す。いつの間に変わったものだろうか、階段は氷になっていた。氷が張っているのではない。氷を削りだしでもしたよう、柔らかい半透明の輝きを宿していた。
「溶けてんな」
「怖いですねぇ」
「ほんとかよ?」
 半ば冗談めいた声音でカロルは聞く。が、意外と真剣な顔をしてリオンはうなずいていた。
「足場も不安ですが、さっきあなたが言ったことのほうがもっと怖いです」
 塔に供給されている魔力が不安定になっていること、それをリオンは言っていた。
「まったくだな」
 それを覚えているならばいい、とカロルはうなずく。ここまできて塔の崩壊につき合わされるのだけは、ごめんだった。
「では」
「おう。さっさと行くぜ」
「そうしましょう」
 にっこり笑ってリオンは足を進めた。程なく階段が尽きる。そこは冷たい色をしていた。
「これはまた……」
 なにを言おうとしたのだろうか。リオンの言葉はそこで止まる。あたり一面透明だった。視覚が惑わされそうな広い空間に一条の赤。北に向かってまっすぐと色が伸びている。
「絨毯、ですか……」
 視線を深紅の絨毯にそって動かす。どこまでも伸びているような気がしてならなかった。リオンは一つ深い呼吸をし、見定める。
「なんかあるか」
「はい」
 そして指差した。そのとき涼やかな音がした。リオンが幻覚を破った音なのか、それとも何者かがあえて姿を現す気になったのかはわからない。
「玉座、か……」
 皮肉にカロルは笑った。絨毯の最先端、華麗と言うには装飾が過ぎる玉座があった。どこまでも透明な氷の空間に、毒々しいほどの金色が存在するのはいっそ忌まわしい情景だった。
「人がいますよ、カロル」
「わかってらァ」
「おや、それは気づきませんでしたねぇ」
「なんだとコラ」
 馬鹿馬鹿しい軽口を叩きあうのは、紛れもない緊張ゆえだった。間違いなく、これが決戦になるだろうという予感がひしひしとリオンの肩に圧し掛かってくる。
 二人の声を聞きつけたからではないだろう。だが玉座からゆらりと人影が立ち上がる。思いのほかに、長身だった。
「ちっ」
 まるで王に伺候するようだ、とカロルは不快に思う。だがそれを抑えて慎重に玉座の元へと歩を進めた。
「ようやく、か……。黒衣の魔導師よ」
 よく響く声だった。玉座の男が言う。老齢と言うにはまだ早い。が、壮年とは言えない。若かりしころはさぞ美貌を誇っただろうと思しい容貌も、いまは欲望からくるものだろうか、年齢には似つかわしくない皺と染みに覆われてみる影もない。
「ラクルーサの元大臣、アデル・ダムドに間違いないですね?」
 静かな声が氷の間に響く。リオンがいつ構えたとも知れずハルバードを構えて問うていた。
「いかにも。黒衣の魔導師よ」
 リオンに返答しつつ、ダムドはカロルに視線を向けた。カロルは無言で立ち尽くす。フードに覆われた顔からは表情を窺うことは出来なかった。
「弟子が、心配ではないのかね」
 ねっとりとダムドは言う。カロルの顔を覗き込もうとするよう、かがみこんでは言うその顔になぜとは知れない歓喜があった。
「フェリクスを、返してもらおうか」
 低い声でカロルは言った。どこか面白そうな声にリオンはふと眉を顰める。何か自分には理解できないことが進行しているのを感じる。神官として感じた違和感を思う。
「どこに、いると思うのだね?」
「知るかよ」
「探してみるかね?」
 興味深げに言い、ダムドは玉座から下りた。静かにリオンの前に立ちはだかる。その手には抜き身の剣がある。
 いまさら言うも愚かではあったが、敵対の意思を見せた。そのことがリオンの気力を充実させる。深い呼吸をし、間合いを計る。
 ダムドは、とても剣の鍛錬を積んでいるようには見えなかった。それなのにその場に立ったままじっと動かない。
 そこはリオンの攻撃範囲から、一歩離れた場所だった。リオンが飛び掛るための一歩。それが足りない場所。踏み出した瞬間に、ダムドは跳び退って逃れるだろう。そのぎりぎりの間合いにダムドがいることこそ、不思議だった。
「おかしなもんだぜ」
 不意にカロルの声がする。緊張する二人の間に一石を投じようと言うのだろうか。ふっとダムドの気配が揺らいだ。けれどリオンは足を踏み出すことができない。カロルが声もなくとめているのを感じ取っていた。
「なにが、かね? 黒衣の魔導師よ」
 絡み付くような声でカロルに問う。その声だけでリオンは彼を嫌うのに充分だ、そう思う。決して神官の目で視ることはしない、と決めていた。
 それはカロルが再三意を尽くしたよう、リオンが知るべきではないことを知ってしまうかもしれないというよりも、間違いなく見るも忌まわしいダムドの本質を目にするに違いないことを本能的に感じていたせいだった。
「あんたは俺の声を知らない。あんたは俺が男だとも知らない。あんたは俺のことは何も知らない。なのに……驚いてないな、ダムド?」
 ふっとカロルが笑った。柔らかい唇がこの上もない笑みを作ったのがフードの陰からわずかに見えた。フードさえなければ彼の極上の笑みを見ることが出来たのに、そんな場違いなことをリオンは残念に思う。
「それほど、不思議かね?」
「あぁ、不思議だな」
「弟子に聞いたとは、考えないのかね?」
「言い訳めいてるぜ、ダムド」
「ほう……?」
 ダムドが笑った。冷たい表情が、一瞬ではあったが崩れたのをリオンは目にする。神官の目が見通した真実に間違いはない、と確信した。
「わかったか?」
 カロルの声はリオンに向けたものだった。諦めたような、それでいてどこか楽しげな声。
「えぇ。なるほどね、そういうことでしたか」
 ダムドが、ダムド自身として反逆したわけではないことを、いまリオンは確かに知った。
「だからテメェを連れてきたくなかったんだ」
「お心遣いには感謝しましょう」
「けっ」
 にやついて言うリオンにカロルは舌打ちをし、そしてダムドに向き直る。
「それは、君にとってずいぶん大切な人間のようだね?」
 粘りついた声。ダムドの問いにカロルは答えない。答える必要はない、そう思っているのだろうか。それとも答える無駄を悟っているのだろうか。
「だったら?」
 じっと睨みあっていた視線を外すことなくカロルが言った。が、リオンはそれがダムドに言ったものだとは感じなかった。まして自分に言ったものだとも。カロルはどちらにでもなく言っていた。あるいはどこかにいるはずの塔を作り上げた魔術師に向けて。
「遊びはここまでにしとくか、ダムド」
「ほう。どこが遊びだと?」
「けっ。いまさらなに言ってやがる。馬鹿にするにもほどがあらァ」
 すっとカロルが前に出た。リオンは止められない。はっと気づいたときにはカロルと位置が入れ替わっている。
「決着を、つけとくか。我が手に灼熱の炎――」
 ふわり、自然な動作でカロルが手を上げた。ダムドに魔法の素養はない、と言う。けれど彼の視線が確かに動いたのをリオンは見た。カロルの手に凝っていく魔力を見たのをリオンは確認した。
「イクス<蒼炎刀>――!」
 青い炎が出現する。まるで予期していたよう、ダムドが飛び退く。するりと青い剣が追う。
「カロル!」
 いつの間に動いたのだろうか。ダムドが愕然とした顔をした。それににんまりとリオンは笑う。二人で挟み撃ちにするよう、ダムドを追い詰める。
「おいコラ!」
 カロルの剣がダムドの剣に当たって弾かれる。硬質な澄んだ音がした。
「わかってますよ!」
「ほんとかよ、ボケ」
「殺しはしません」
 ハルバードの一閃。それすらダムドは凌ぐ。あり得ることではなかった。ダムドは将軍ではない。大臣だ。武術の鍛錬を欠かさなかったとしても、年齢がある。戦うことこそを本分とするエイシャの神官の攻撃を、かわすことができるほど武術に優れているはずなどあるわけがない。
「言ってくれるわ!」
 風鳴りがした。はっとしてカロルが跳び退る。一瞬前までカロルの頭があった場所をダムドの剣が薙いでいた。
「殺してくれる」
 粘つく声が笑った。わずかに過去をとどめている端正な顔が、狂気に彩られる。
「ダムド!」
 剣を合わせる。重たい音。無骨な鋼の剣。かたや魔法の剣。音の激しさにもかかわらず、火花は散らなかった。
「いまさら命乞いか、黒衣の魔導師よ!」
「誰が!」
「ならば……なにを言うか!」
 再び剣の音。今度は青い剣ではなく、ハルバードと鋼が噛合う。剣の間合いとは違う、遠い距離からの攻撃にもダムドは惑わされることはなかった。
「あんたの目的は、なんだ。ダムド!」
 剣にもハルバードにも怯まなかったダムドの顔色が一瞬にして変化する。そこにリオンのハルバードが叩き込まれた。その石突が。うっと呻いて腹を押さえ、わずかに遠のく。
「自分が何してっか、わかってねェんだろ、ダムド?」
 かすかな嘲笑を滲ませてカロルが歩み寄る。どこまでも無造作な足取りだった。それをリオンが危ぶむ。なにがあっても対応できるよう、ハルバードを構えなおす。
 けれど彼に危険はなかった。突如としてダムドは己の存在理由も失ったよう立ち尽くす。カロルが剣を掲げた。
「黒衣の魔導師――!」
 それが合図であったよう、再びダムドの目に生気が蘇る。あるいは、狂気か。カロルは意に介することもなく剣を打ち下ろす。弾かれた剣。再び激しい剣戟の音が響いた。




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