リオンもまた、カロルの翠の目をじっと見ていた。カロル自身がきっと気づいていないのであろう、どこか不安げなその色を。
 彼がなにを不安に思っているのか、リオンにはわからない。それでも表情に些細な変化があることだけは認めていた。
 できることならば、それを吐き出させてしまいたかった。おそらくは最後のものになるだろう戦いが近い。その前に。
 けれどカロルはそれを望まないのだろう。一人で堪えることをすでに彼は選んでしまったのだろう。ならばリオンはじっと待つことを選ぶ。カロルが堪えるならば、そのすぐ側で待っている。いつでも振り返ればそこにいる。その安堵だけは彼に知って欲しかった。
「カロル?」
 黙ったままいつまででも自分の目を覗き込んでいるカロルを呼べば、はっとしたよう正気づく。首をかしげて再度、無言の問いを発した。
「……いいよ」
 ぽつりとカロルは言った。自然と目をそらしはしていたけれど、嫌々ではなく。それどころかわずかに微笑んで。
 リオンは応えて少し笑み浮かべた。そっとカロルが目を閉じてはかすかに仰のく。それほど違わない身長。リオンの眼前に仄かに開いたカロルの唇。
 そっと重なってくるリオンの唇。貪るでもなく、求めるでもなく。たったそれだけで唇が離れていく。知らず漏れでそうになる吐息を抑えかね、カロルは息を飲む。それを察したよう、リオンは彼を胸の中に抱きすくめた。
「いいのかよ」
「はい?」
「あんだけでいいのかって聞いてんだよ」
 小さな罵り声が胸の中から聞こえる。愛しいそれを聞きつつリオンは思わず笑い声を漏らしていた。
「なんだよ」
 不満そうなカロルの声。リオンはなだめるよう片手で彼の背中を撫でていた。残る片手はしっかりとカロルの腰を抱いている。ほっそりとした外見から想像もできない硬い男の腰だった。それをいま確かめられたのが、なぜかリオンは嬉しかった。
「続きは無事に帰ってから、と言うことで」
 耳許でリオンの声が言うのをカロルは彼の胸に伏せたまま聞いていた。そのような機会はきっとないだろう、そう思えば寂しい。くちづけなど、許すのではなかった、そう唇を噛んだ。
「愛してますよ、カロル」
 何度リオンがそう言うのを聞いただろう。数えていればよかったと不意にカロルは思う。
「うっせェ」
 けれどカロルは邪険に彼の体を押し戻しただけだった。そしてじっと階段を見上げる。そこにすべてがある。
「カロル」
「なんだよ」
「愛してますよ」
「うっせェっての」
「私は真面目に――」
 リオンは言葉を切った。振り返ったカロルの顔が、あまりにも真剣だったから。彼自身もそれを悟ったのだろう、すっと視線をそらす。
「いまは、聞きたくない」
 やけにきっぱりとした言葉。普段とは違う口調。どこまでも静かで、声に色があるとするならば、透明なそれ。リオンは答える言葉を持たなかった。だから黙って側にいく。体には触れず、彼の側に立つ。
「行くぞ」
 カロルはそんなリオンに無表情のままうなずいた。表情こそ動かなかったけれど、リオンは感じる。カロルの満足を。ぎゅっとハルバードを握りなおす。それで出発の準備は終わりだった。
「はい」
 カロルがゆっくりと呼吸した。嫌なものを早く終わらせてしまおうとするように。それから背後に跳ね除けたままのフードを深く被った。
「カロル?」
 いまさらだった。いったいなぜカロルが顔を隠したがるのかがわからない。リオンは自分が拒絶されでもしたような気がしてしまう。その感情を嗅ぎ取ったのだろう、カロルがわずかに振り向く。フードの陰から見えている唇が、笑みを刻んでいた。
「俺の顔を知らなくていい野郎がいるんだよ、上にな」
「あぁ……なるほど」
「ダムドは俺の面ァ知らねェからな。わざわざ見せてやる気もねェし」
 鼻を鳴らして言うカロルをリオンは呆れて見ていた。いったいどういう宮廷生活を送っていたのだろうかと思ってしまう。そもそも一国の大臣が、その宮廷に伺候する魔術師の顔を知らないなど言うことがありえてよいものだろうかとも思う。そしてそれを許してきたラクルーサと言う国を思う。
「なんだよ?」
「いえ、別に」
「とっとと吐きやがれ」
 いつもどおりだった。そのことがリオンを少しばかり不安にさせた。あまりにも普通過ぎる、と。が、強いて彼はその考えを頭の隅に追いやって階段に足をかける。慎重に上りはじめれば、すぐ後ろからカロルが追いかけてくる気配。
「どういう生活をしていたのかな、と思っただけですよ」
 小声でぶつぶつと言っているカロルに向かい、リオンは前を向いたまま言えば、何だそんなことかとでも言うようカロルが息を抜いた気がした。
「宮廷魔導師って言っても四六時中宮廷にいたわけじゃねェし。つか、それは師匠の役目。俺は実務ばっかだな」
「なるほどねぇ」
「フェリクスの面倒みたり、蔵書の整理したり。あとは師匠手伝って魔法の研究な」
「けっこう普通ですね」
「テメェは俺をなんだと思ってやがる」
 わざとらしく鼻を鳴らすカロルにリオンは階段を上りながら手を出した。
「あん?」
 振り向きもしないリオンの手がそこにある不思議。知らずカロルはその手に触れていた。
「カロル」
「だから、なんだよ!」
「無事に、帰りましょうね」
「うっせェな」
「お弟子さん連れて帰って、それから一緒に遊びましょう」
「テメェはガキか!」
「いいじゃないですか。なにして遊びます?」
「とりあえず地下牢で囚人ごっこだな」
「……洒落になっていない気がするのは気のせいでしょうか」
「そうならないよう最善の努力はするけどな。保証はできねェ。だからついてくんなって言ってんじゃねェかよ」
「しつこいですよ、カロル」
「そりゃ俺の台詞だ!」
「まったくですねぇ」
 それを最後にリオンは笑って手を離した。互いの乾いた手が、こんなにも安心するものだとは思わなかった。
 そのために手を差し出したのだとカロルはわかっている。そのために、無駄な軽口を叩いたのだとわかっている。得がたい男。切実に、失いたくないと思った。彼の命も、彼が寄せてくれる思いも。
「さぁ、さっさと行って、さっさと帰りましょう。いい加減なにかあったかい物も食べたいですしねぇ」
「……そういう問題か?」
「細かいことを気にしてると胃に穴が開きますよ」
「テメェが気にさせてんだ!」
「それは失礼」
 喉の奥でリオンが笑う。つられてカロルも笑った。長い階段を、一歩ずつ上がっていく。この期に及んで、このような場所で不意打ちがあるとは思わなかった。
 けれど警戒は怠らない。馬鹿なことを言いながらでも、リオンの背中が緊張しているのをカロルは見て取っている。
 実際、リオンはカロルが思うほど緊張してはいなかった。それはカロル自身の警戒心が見せたものだった。
 階段は、九階に引き続き氷が張っている。おそらく最上階と思しき十階もまた、氷作りなのだろうとリオンは思う。
「足場がねぇ」
 不安定でなければいいと思う。幸いにして先程は不覚を取ることはなかったとは言え、次もまた大丈夫だという保証はどこにもない。
「なにか言ったか?」
 問われてやっとリオンは独り言を口にしていたのだと気づいた。知らず苦笑が口許をよぎる。自分で思っているよりは緊張しているらしい、と。
「この上も氷なんでしょうかねぇ」
「まぁ、そうだろうな」
「予想してました?」
「だいたいな」
 あっさりと言うカロルの言葉にリオンは疑問を差し挟まなかった。おそらく彼はなぜかとは聞かれたくないはずだから。言葉の端々にそれが滲んでいる。現にそれ以上問わないリオンにカロルはほっと息をついていた。
「滑らないといいんですけどねぇ」
「あぁ、それか。いま言ってたのは」
「はい」
「さっきは大丈夫だったじゃねェか」
「今度も平気とは限りませんよ」
「それもそうだな」
 急に不安になったのだろうか。それとも対策を考えているのだろうか。カロルが黙った。安心させたくとも、安易な言葉は彼を怒らせるだけだろう。リオンはその場にならないとわからないことを言うのではなかった、と臍を噛んでいた。
「なんとかなるだろ、とは言わねェが、なんとかしてくれとしか言いようがねェな」
 そんなリオンを感じ取ったよう、カロルは実にあっさりとそのようなことを言った。思わず愕然として振り向いてしまう。
「進めよ、コラ」
 邪魔そうに言ってカロルはリオンの体を押しやった。うなずいて向き直り足を進めてようやく自分が進んだことをリオンは知る。
「言いたいことがあんなら言っとけ、ボケ」
 それを確かめてからカロルがぽつりと言う。口調の荒さとは裏腹の、寂しげな声をしている、そうリオンは思う。
「うーん。ちょっと嬉しくって」
「なにがだよ、ボケ坊主」
「信用してくれてるんだな、と思って」
 するりと言う。そのリオンの言葉をカロルは胸に迫るものとして聞いた。一度ぎゅっと自分の拳を握り締め、無理やりに開く。
「テメェの武器の腕は、信用してる」
 やっとのことで口を開いた。わずかに掠れた声を、リオンはどう聞いたのだろうか。背中からは何も窺えなかった。
「それで充分ですよ、カロル」
 どこまでも優しい声だった。前を向いたままリオンが言う。それでいい、いまはそれでいいとリオンが言う。いつか次に進めばいいと彼は言外に言う。カロルは答えず、彼の背中を見ていた。




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