離されたばかりの体をリオンは再び寄せた。嫌がるようカロルが一歩、下がる。逃げる彼の肩に手をかけて、それ以上はしないと言葉にはしない明言を。それに納得したのだろう、カロルがうなずく。その彼の翠の目を覗き込んでリオンは言った。
「ついて行きますよ、カロル」
「おい」
「ここまできていまさら帰れはないでしょ」
「あのな」
「それにね、カロル」
 にやりと笑う。そしてリオンは階段へと視線を向けた。そのまま言葉を繋ぐ。
「エイシャの神官の目を舐めないほうがいい」
 ゆっくりと振り向いた。ひたと視線をあてられたカロルは目をそらせない。互いに理由もなく睨みあっていた。
「……なに?」
 低いカロルの声がしたのは、しばらく後のこと。意味を問いただすような、それ以上を言って欲しくはないような、そんな声だった。
「私の眼は、あなたが何を隠そうとしているのか、たぶん正解を見ています」
「テメェ……」
「連れて行ったほうがお得ですよ、カロル」
 にっこり笑ってはぐらかす。神官を連れて行け、とリオンは言う。そのほうが危険を回避できる可能性が高くなるのだから、と。
 だがその口調の裏側でリオンははぐらかしている。自分がなにを感じ取っているか。なにを悟ったか。口にせずカロルに知らせつつ、何も知らないふりをする。
「ま、とりあえず何か少し食べませんか?」
 決断しかねるカロルを慮った言葉。カロルは苦笑して肩をすくめた。
「よく返り血だらけでメシ食う気になれるよな」
 呆れ声で言って階段に腰を下ろせばすぐ隣にリオンも腰掛ける。
「血だらけなのは私じゃなくてあなたです」
 荷袋の中から少ない糧食を取り出してはリオンが言った。
「……だな」
 言われてみて初めて気づいたよう、カロルは己の体を見下ろしてうなずく。先程の戦闘で盛大に血を浴びてしまった体を。
 あの男が、言葉通りダムドの身近にいたものならば、リオンが知らなくていいことを嫌と言うほど知っているはずだった。
 リオンはフェリクスの情報が欲しいとは言った。が、この上の階にいることがわかればカロルにはそれで充分だった。
 もう少し。あと少しで終わる。知らず唇をきゅっと噛む。
「カロル」
 肩先にリオンの指が触れた、と気づくより先カロルは飛び上がる。それにリオンが目を丸くした。
「わりィ。驚いた」
「疲れました?」
「ちっとはな」
「休憩――」
「しねェ」
「カロル!」
 わかっている、とばかりカロルはリオンの肩を叩く。その唇にわずかな笑みの影に似たもの。リオンは黙ってそれを見た。
「ここまで来た。あと少しだ」
「一気に行ってしまおう、と?」
「そのほうが楽だろ」
「そうですか?」
 あからさまに不審を滲ませてリオンは言う。あまりにも大袈裟な素振りにカロルは笑いをこらえきれなかった。
「カロルってば」
 抗議に軽く片手を上げた。リオンが彼らしくもなく鼻を鳴らして荷袋に手を乱暴に突っ込んだ。
 カロルは視界の片隅でそんな彼を見ていた。あと少し。フェリクスをつれて帰るまであと少し。リオンとおそらく別れるのも、あと少し。
「さっさと行っちまえば、さっさと休めんだろ」
「それはそうですけどね」
「なんだよ? 言いたいことでもあんのかよ?」
「無茶はしないでくださいって、いつだったか言ったような気がするんですけどねぇ、私」
「うるせェなぁ。してねェよ」
「ほんとに?」
 子供のように無邪気を装った口調。まじまじと見つめてくる黒い目の中をカロルはじっと覗き込む。それからゆっくりとうなずいて同じような声音で答えた。
「ほんとに」
「……信用していいものかどうか、悩みどころですねぇ」
「テメェ!」
 笑って肩を叩く。こんな風にしていられるのも、あと少し。カロルは胸のどこかが痛むのを抑えきれない。こんなことならば、信じたりするのではなかったといまさらながらに思う。
 信じたいと思った。信用すると決めた。だから離れがたくなってしまった。それでも根本的に信じきることができない。だから、あと少しで別れることになる。それだけは信じることができる、その皮肉にカロルは自らを嗤う。
「食べたくなくても、食べてくださいね」
「おう」
 残り少ない食料を分けあった。リオンももう少しで終わることをよくよく理解していた。ここで少しでも体力を回復させる。それが生還につながると信じて。
「飲んでください」
 あっという間に食べ終えてしまった食料。元々空腹ではなかったから不満はない。そこにリオンが差し出してきたのは蜂蜜酒だった。
「最後か?」
 皮袋を振ってみればわずかに水音がする。カロルが首を傾げてリオンを見れば彼はそうだと言うよううなずいた。
「テメェは?」
「私よりあなたのほうが必要でしょうから」
「……もらっとく」
 魔術師のくせに前に出るな、だから体力を必要以上に消耗した。それを責められている気がした。カロルはそれを謝罪する気はなかった。
 あの男がリオンになにを言うかがわからなかった以上、ああするのが最善だった。リオンが知らなくていいこと。知らせたくないこと。この先に待つもの。カロルは無言で蜂蜜酒を喉に流し込む。柔らかい暖かさが全身に広がる、そんな気がした。
「まだ、迷ってるんですか?」
 優しい声にはっとして顔を上げた。上げたことで伏せていたと知った。唇を噛んでリオンを見据えれば、荒れた指先がそこに触れてたしなめる。ゆっくりと開いて呼吸する。
「……なにをだよ」
 わかっていることをあえてカロルはリオンに問うた。彼がなにを尋ねたのかなど、とっくにわかっているのに。
「私を連れて行くかどうかに決まってるじゃないですか」
「あのなぁ」
「正直に言って、あなたが私を置いていくと決めたらついては行かれないと思います」
「どうしてだよ?」
「だってあなた、私を半死半生くらいにはするでしょ。そうでもしないとついていきますし、私」
 それが笑って言うことかとカロルは呆れる。内心を見抜かれている不快さより言い当てられた快さのほうがずっと大きかった。
「あなたは思ってる。もしかしたら塔が崩落するかもしれない、それに巻き込まれて死んだほうが私のためかもしれない。違いますか?」
 淡々とリオンは言う。そこまで悟っていたかと思えばあえて偽りを言う気にはなれなかった。カロルは黙ってうなずく。
「この先を目にすれば、それ以上に不愉快な目にあう可能性がある、と思ってるわけですね。でもカロル――」
「それだけじゃねェけどな」
「え?」
 問い返されてはじめてカロルは自分が言葉を口にしていたことに気づいた。思わず漏れ出す苦笑。おかげで自分がなにを考えたのかが明確になる。
「なんでもねェ」
 ここでリオンが死ねばいい。そうすれば自分から去っていくこともない。心のどこかでそう考えた自分がいることにカロルは慄然とする。
「カロル。覚えてますか?」
「なにをだよ」
「あなたに香をあげたでしょう? どうしても私を置いていくならここが使いどころですよ」
 意識を奪うというリオンの香。それを自分に使えと唆してリオンはカロルの顔色を窺う。一瞬のことだった。さっと彼の顔が青ざめる。
「使わねェ!」
 それくらいならばこの手で殺す。カロルは叫びかけ、唇を噛んだ。
「なら、連れて行くんですね?」
 畳み掛けるリオンの声。カロルは答えない。ふっとリオンが息を抜いた気がした。
「愛してますよ、カロル」
 場違いな、不似合いな言葉。カロルはゆるゆるとリオンを見上げた。
「愛してます。あなたの側にいさせてください」
 唇が、声にしない言葉を形作る。最後まで、と。カロルは一度目を閉じた。知らずうちに詰めていた息を吐き出す。
「手に負えねェ」
「なにをいまさら」
「ッたくな。なんでテメェみたいなのと知り合っちまったんだかよ」
「だから言ったでしょ」
「なにをだよ?」
「私の女神のお導きですって」
 微笑むリオンの頬を撫でるよう叩く。もしもそれが本当ならば、ずいぶんと酷い女神もいたものだとカロルは思う。この先が予想できてしまうカロルにとっては。
「さて、行きますかね」
 階段に腰掛けたままの姿勢でリオンは頭上に腕を上げて伸びをする。まるで気楽な散歩にでも行くような口調だった。そしてのんびりと立ち上がり、振り返り様に言った。
「ところでカロル」
「行くんじゃねェのかよ」
 あからさまに嫌そうな口調で言ったものの、リオンがにんまりとするに至ってカロルは失言したことを知る。それに知らぬ顔をしてカロルもまた立ち上がった。
「で?」
 照れ隠しのようなぶっきらぼうな口調。どこかあらぬ方を向いてしまったカロルの横顔をリオンは見ていた。
「ちょっとお願いがあるんですが、いいですか?」
「言うだけ言えば? 聞くだけは聞いてやる」
「では」
 嬉々とした声にカロルは嫌なものを感じて振り返る。リオンは嬉しげに微笑っていた。
「キスしていいですか、カロル?」
 そっとリオンの掌がカロルの頬に添えられた。逃げ出さないよう押さえつけるのではなく、包み込むように柔らかく。カロルは答えずただリオンの目を見ていた。その中に一片の嘘でも見つけられれば気が楽だとでも言うように。あるいは。彼の目に映る翠色の影をただ見つめていたのかもしれない。あと少しで失ってしまうはずのその情景を、惜しむように黙って見ていたのかもしれない。




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