リオンの指が、冷たさだけではないものに震えていた。頬でそれを感じたカロルは上げかけた目を伏せる。それから黙って離し、もう一方を手に取った。
「カロル……」
 戸惑うリオンの声が苛立たしい。これほど冷たい手をしていたら、ハルバードを握ることすらできないだろうに。
「大丈夫ですよ、カロル」
「うっせェ」
「嫌じゃ、ないんですか」
 同じよう、頬にあてた。反対の手も先程と劣らず冷たい。当たり前かもしれない。
「嫌に決まってんだろ」
 言いつつカロルは彼の手を離さなかった。リオンの手の冷たさが、染みとおっていく。
「ありがとう、カロル」
「うるせェって」
「はい」
 微笑の気配。思わず目を上げた。が、リオンは笑ってなどいなかった。知らずカロルはリオンの目をじっと見つめる。
 なぜこのような顔をするのだろう。不思議でならなかった。それほど痛々しい顔をしていた。
「カロル」
 不意にリオンがかがんでは耳許で囁く。はっとして体を引きかければ腰を抱かれる。
「愛してます」
 苦いほどの声がした。
「しつこい」
 撥ねつける。言葉の上でだけ。カロルはそんな自分に目を丸くした。拒絶の意思が、どこにあったのだろう。
「さぁ、次に行きましょうか」
 するりとリオンが身を引いた。なぜか、逃げられた。そんな気がしてならないカロルはまじまじとリオンを見ている。
「どうしました?」
「別に」
「そうですか?」
 少し、笑った。それがなんとも嘘くさくてならない。気づけば彼の腰に拳を叩き込んでいる。
「痛いなぁ、もう」
 困ったようにリオンが笑う。あまりにも普段どおり過ぎて、反って疑わしかった。
「おいコラ」
「なんです?」
「テメェは……」
 自分が何を言おうとしたのか知ってカロルは言いさした言葉を止めた。ふっと目をそらす。
「なんです、カロル?」
 わざとらしく問うて来る。尋ねられたいと言うのだろうか。たぶん、リオンはわかっているのだろうとカロルは思う。
「俺のどこがいい」
 だからカロルは決然と言った。見つめると言うより睨み据えながら。そんなカロルにリオンは今度こそ呆れ顔をしつつも艶然と笑う。
「全部」
 呆れるほど短い言葉にカロルは唖然とし、ついで笑った。何も知らない。だからリオンは。すぐに離れる。いまだけ。ならば。
 他愛もない思いばかりが脳裏を駆け巡り、そしてすぐさま忘れられていく。だから、どうだと言うのか。所詮はただの同行者。塔を出れば、それで終わりだ。
「あなたの全部が好きですよ」
 胸を掴まれるような優しい声だった。カロルは態度でも言葉でも返事をしなかった。できなかった。
 しばらくの間、ゆっくりと息だけをしていたような気がする。温まったはずのリオンの手がまた冷えてしまう。ぼんやりとそんなことをカロルは思う。
「テメェが、嫌いだ」
 ぽつり、カロルが言った。リオンは黙って微笑む。どこでもない場所を見て、誰にでもない言葉を吐くカロルを、黙って見ていた。
「行きましょうか、カロル」
 そっと手を差し伸べる。不思議と抗わずカロルがその手をとった。
「つめてェ」
 握られた手にリオンは視線を落とし、静かに指先を絡め合わせた。それでもカロルは抗わない。そこにいるのがリオンだと気づいてもいないように。
「カロル」
 すっと視線が上がる。見ているのに、見ていない。リオンは彼の翠の目を覗き込み、片手は彼に預けたまま、反対の手でその頬を打った。
「なにを……」
 呆然としたカロルの声。正気づいたのだろう、一瞬にして怒りが燃え上がるのをリオンは捉える。
「あなたが私をどう思うかはこの際どうでもいいことです」
「あん?」
「私はあなたが好きです。あなたが私をどう思っていようとも」
「テメェ」
「好きですよ、カロル。あなたが、好きです」
「なんにも知らないくせに!」
 リオンが驚くほどの激しさでカロルは身を振りほどこうとする。けれどそれが本心だとはリオンにはどうしても思えなかった。嫌がるカロルを抱きすくめ、離さない。
「だからなんです?」
「テメェは――」
「あなたのことなんかなんにも知りません。いまここにこうして一緒にいるってこと以外はね。あなただってそうでしょ」
「なに言ってやがる!」
「私のなにを知ってるんですか? 私のどこが嫌いなんですか? 私のすべてを知った上で、嫌いだって言ってるんですか? 人が人のすべてを知ることなんか、できると思ってるんですか、カロル?」
 畳み掛けられた言葉にカロルは声もない。黙って唇を噛み、リオンの肩に額を埋める。そっと髪を撫でられた気がした。なだめるように、愛撫ではなく。
「いまここにいるあなたが、好きですよ」
 肩口で、カロルがうなずく。かすかな、間違いのようなわずかな動作。それでリオンには充分だった。
「おいボケ」
「言わなくていいですからね」
「おい……」
「言いたくないことなら、言わなくていい。そう言いませんでしたっけ、私」
「……言ったっけな」
 呆れてカロルは体を離す。見上げた柔らかい黒い目。いつこれが、自分を拒絶することになるのだろう。そう遠いことではない。
「行くか」
 これ以上、心を寄せてしまうその前に。リオンが離れていくことは、わかっているのだから。
「はい」
 何もなかった顔をしてリオンが笑う。あと少しだけ、見ていたい。そう思う気持ちを強いてカロルは無視して目をそむけた。深く息を吸う。
「あ、カロル」
「なんだよ」
「ひとつだけ」
 にっこりと笑ってリオンが言葉を繋いだ。なにを言っているのか、カロルはわからなかった。何度も何度も目を瞬けば理解していないことを悟ったのだろう、リオンが同じ言葉を繰り返した。
「なにを言いたくないのかは知りませんが、それを超えてきたからいまのあなたです。そのあなたが、好きです」
 リオンの言葉が体に染みていく。横面を張り倒された気分だった。一瞬、彼の言葉のすべてを信じそうになる。信じたかった。けれど誰も信じずに過ごしてきた年月は、あまりにも長すぎた。カロルは皮肉に笑う。目をそらし、ぽつりと呟く。
「好き勝手言いやがって」
 リオンにその声が届かないはずはなかった。それなのにリオンは何も言わずに待っていた。
「行くぞ」
 だからカロルは拒絶する。何も知らない今、そのようなことを言おうとも先はどうなるかわからない。何も知らない今だからこそ言える言葉かもしれない。そうに、決まっている。
 憤然と氷柱に向かうカロルをリオンは遮り、手を伸ばす。カロルは一度唇を噛んでその手をとった。
 今までと同じよう、二人で跳ぶ。何度も繰り返してきた転移。慣れているはずのそれなのに、カロルはまるでリオンのような眩暈を覚えた。
 耳許で聞こえる呻き声は変わらない。だからそれは間違いなく、カロル自身の心がもたらすものだった。それを理解したことでいっそカロルは落ち着いた。
 辺りを警戒する。飽きるほど見てしまった、それほどまでに同じ景色だった。氷の壁、裂け目のような扉。間違いなく扉の向こうには敵がいて、氷柱があるはず。
「うん、どーなってんだ?」
 不意に疑問が頭をもたげる。リオンはこの階には四つの部屋がありそうだ、と言っていた。ここがその四つめ。ならばその先はどうなっているのだろう。氷柱の代わりに階段があれば何の問題もないのだが。
「なさそうだな……」
 塔の主の性格からして、そうもリオンは言っていた。カロルもその点はなんら異論がない。そう仮定するならば、あるのは階段ではなく氷柱だ。思い至れば肩も落ちるというもの。
 先のことを考える。将来ではなく、すぐ先のことを。そうすればいま肩にあるこの温かいものの事を考えずに済む。
「ボケ」
「はい、行きます」
「おいコラ」
 睨みつけるよう見上げた。リオンはすでに体を離している。慎重な呼吸を繰り返し、自分の体調を確かめているのだろう。首をひねって考え込む。
「慣れたみたいですねぇ。前よりは吐き気も少ないですし」
「適応が早えェな」
「そうですか?」
「けっこう魔術師向きかもな」
 戯れ以外の何物でもない言葉。だがそれをリオンは意外なほどに喜んだ。ぼそぼそと嬉しいを繰り返している。そこまで照れられるようなことは言っていないはずだとカロルは呆れた。
「いつまでボケてんだ、ボケ」
「だって、嬉しいじゃないですか」
「なにがだ、なにが。いい、言うなよ」
「……言いたかったのに」
「聞きたくない」
 きっぱり言ってカロルは口を閉ざす。不意に呼吸が苦しくなった気がしたせいだった。
「おいボケ」
「なんですか」
「この臭い、気づいたか」
「あなた、私が何者だかわかってます?」
 呆れ声にカロルはばつが悪くなる。香りを操るリオン。自分より先に気づいていたのだろう。
「だったらさっさと言えよな」
「まぁ、どうせ扉を開けたら見ることになりますし」
「そりゃそうだ」
 肩をすくめて同意する。氷の裂け目を通してさえ、濃密な血の臭いがしていた。
「行くぞ」
 背中に思い切り拳を叩き込む。衝撃にむせて涙目になったリオンにカロルは微笑む。あと少しだけ、こうしていられるならばそれでいい。
「はい」
 突然のカロルの微笑にわずかの間だけリオンは戸惑う。それからさも嬉しげに笑みを返し、扉に向き直っては蹴り開けた。まるで歓喜の爆発。呆気にとられたカロルが何を言う暇もない。いつの間にかハルバードは臨戦体勢に入っていた。
「このボケが! ――イクス<蒼炎刀>!」
 飛び込んで行ったリオンを追う。すでに人影を捉えていた。扉の向こうに松明。壁際に物体。滴るもの。血。死体の塊。立ちはだかるもの。厚い毛皮を着込んだ影。人間。




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