舌打ちをしかけた唇の端、氷の粒が当たってはぴしりと切れた。カロルははっとして辺りを見回す。すでに、吹雪ではなくなっていた。小さな氷が乱舞している。 「ボケ!」 あの程度の炎の盾の守護では、あってもなくても同じほどにしか効果を発揮していないだろう。そう思えばぞくりとする。 さして広大でもない部屋のはずなのに、なぜか遠くから聞こえるようなリオンの鬨の声。カロルはそちらに向かって走った。 乱れ飛ぶ氷の影、きらりと冷たい輝きが走る。リオンのハルバード。それを目にした瞬間、カロルは詠唱し、そしてためらう。 「クソ坊主!」 呪文を待機させたまま、彼を呼んだ。 「ください!」 答えは即座に返ってくる。リオンの声を聞くと同時にカロルは魔法を放った。リオンのハルバードが再び炎をまとう。 その明りに、敵が見えた。それは純白の獣。カロルは目を見開く。彼の目は、確かに獣が宙を踏むのを見た。 「フェンリルです。厄介な!」 リオンがハルバードを振りながらカロルに注意を払うよう呼びかけ、その言葉に正気づいたようカロルは詠唱に入る。 冷たい遠吠えを吐き、獣が飛び掛る。まるで魔法の気配を察しているようだった。それをリオンのハルバードが阻む。 「ちっ」 しかし白い狼に似た獣は決してただの獣ではなかった。三頭のそれが、あり得ない方向からリオンを襲い、彼に傷を負わせていく。ほんの一瞬の間に。 「爆流となり吹き荒れよ炎――」 カロルの高速詠唱が、間に合わない。そのことに愕然としそうになる。だが強いてそのことを思考から追い払い、カロルは詠唱を続け。 「――ズムサルド<火炎>!」 業火がフェンリルを襲う。炎の奔流が雪も氷も焼き尽くし、溶かし尽くす。雪狼もまた、崩れるよう床に流れた。 「な……」 リオンの呆然とした声。それでカロルは反って冷静さを保つことができた。いかに驚異的な回復力を持つ雪狼とは言えあの火力ならば、と安堵したのも束の間だった。 雪狼が、また立ち上がってきた。次第次第に凍りつき、体に体毛のよう、雪をまとう。遠吠えは、殺戮への期待に満ちていた。 「ボケ!」 はっとしたよう、リオンがハルバードを握りなおす。それからちらりと視線だけを向けて詫びてきた。その唇の青さがカロルに速戦を決心させた。 ゆらりと手を掲げる。危険かもしれない真言葉魔法の準備動作。その瞬間、リオンの鬨の声。集中が破られる。 「カロル。叩くのは、本体です」 リオンは、一歩も動いていなかった。ただひたすらに前を睨み据えている。吸い寄せられるよう、カロルの視線が動いた。 「カロル」 「なんだ」 「預かってください」 無造作に、ハルバードが投げ渡された。ぎょっとして掴み取る。途端に膝が崩れそうになった。このように重い物を平然と振っていたのか、彼は。 「おいコラ」 何をしようと言うのか。大事な武器まで預けて。そこまで思ったカロルの頬に血が上る。わざとやっているのか、無意識なのかは判然としない。が、リオンは自分に『武器を預けた』のだ。戦う者にとって、命を預けるに等しい行為。極上の愛の告白をこの状況でやってのけるリオンの背中にカロルは視線を向けた。ハルバードを両手で抱けば、重さだけではない、ずきりとしたもの。痛みだけでもない、胸の疼き。 リオンはじっと前を見据えたまま動かない。すでに吹雪も元に戻っている。猛り狂うそれに長時間さらされれば、彼の体力は徐々に削られていくだろう。 その手が上がった。一点を指し示す。言葉などない。だがカロルは考えることもなく従う。火球を叩き込む。連続で、何度も。 そして魂を凍らせる悲鳴が聞こえた。同時に吹雪がやみ、何かが破壊される音。雪狼が低いうなりを上げた。 飛び掛ってくる半瞬前、カロルがハルバードを投げ返す。受け取った動作のままに薙ぎ払われたハルバードに一匹の雪狼が壁へと激突し、動かなくなる。血は、流れなかった。 カロルの目に、何者かが映った。新手か、と緊張しそうになる体を思考が制御する。リオンは叩くならば本体を、と言った。ならばあれが本体。 リオンの目が視たことで、何らかの幻覚が破られたのだろう。そこに襲い掛かった火球が撃ったのは、本体か、それとも幻覚だったのか。カロルにはわからない。ただ新たな魔法をいつでも放てるよう、心するだけだった。 冷たい大気。ならば最も高い効果を発揮するのは当然、炎。無駄に持っていた炎の剣を消し去り、カロルは掌に火球を灯す。ちろちろと燃える炎は彼の手を焼くことはなく、それどころか少しずつ大きさを増していった。 再び、悲鳴。影が姿を現す。カロルの目がそれを捉えると同時に炎を放つ。直撃。が、影は歩みを止めず進んでくる。美しい女だった。白い衣装を吹いてもいない風にたなびかせ、雪のような長い白髪も舞っている。何気なく垂らした手のその指先から滴るのは、氷の破片だった。 「なんでこんなとこにフロストメイデンがいんだよ!」 思わずカロルの唇から悲鳴めいた声が漏れる。また一頭、リオンのハルバードにフェンリルが倒れた。 若い雪女だった。冷たい美貌が時に雪山で旅人を惑わす、と言う。若いだけにいっそう雪女より危険、少女の冷酷さを持っている、と話にだけはカロルも聞いてはいたが、実見するのは初めてだ。 「いるものは仕方ないでしょ!」 正確に状況を認識しろ、そんなリオンの声にカロルは唇を噛み締め息を吸う。最後の一頭が倒れた。リオンが合流を果たす。それだけでどうしようもないほどの安堵に襲われそうになった。 「もうちょっとですよ、カロル」 「うっせェ!」 にたりと笑ったリオン。カロルに冷静さが返ってくる。リオンがハルバードを眼前で構えた。 と。フロストメイデンが手を上げた。何をするという意思も見えないその動作。訝しい思いが油断だったとは言わないまでも、わずかな隙となる。 「ちっ――!」 カロルが、リオンの肩を引いては後方へ跳び退る。女の指先から、吹雪が暴れ狂っては二人を襲った。カロルはリオンにかけたままの炎の盾の効力が続いているのを確認し、さらに厚くする。容易に氷の粒が抜けないように、と。 「突っ込め、ボケ!」 単純な指示。リオンはうなずいてハルバードを構えなおし、突進していく。女が笑った気がした。またゆらりと手を掲げる。 今度にたりとするのは、カロルだった。彼の目にはそれが魔法の産物、と視えている。リオンが幻を看破するように。 リオンの雄叫びは、これから襲い掛かるはずの苦痛をこらえようとする声だったのかもしれない。 「鎮まれ大気、汝閉ざされたり。ツゥム<呪封>――!」 だが、痛みはリオンを襲いはしなかった。はっとして顔を上げる。呼吸を求めるよう、女が口を開け閉めしていた。カロルの魔法によって制限されたのは、呼吸ではない。魔法そのものを、封じられた。 リオンは目を細め、攻勢に転じる。無防備な女の体がそこにある。ハルバードの一閃。飛び退いた。追う。反対から薙ぐ。予期していたよう体をひねったフロストメイデンの目が見開かれた。 「終わりだ――」 あるはずの場所に刃はなく、あり得ない場所からするりと出現した刃が女の胴を払い、両断した。部屋の別の隅へと転がっていく体は、やはり雪狼と同じよう、血を零しはしなかった。 「さっさと行きませんか、カロル」 血膏もついていないのにリオンは習慣になってしまっているのだろう、ハルバードを振った。その横顔をカロルは窺う。 「怪我治したらな」 連戦による疲労が見て取れた。細かいとは言え、傷もたくさん負っている。 「こんなのは……」 「軽症でもだめだ」 「怪我のうちに……」 「入らなくってもだめだって言ってんだ、ボケ!」 「……はい」 ふとリオンがようやくカロルを見た。その唇が青さを増している。けれどなんとも言えず嬉しげにリオンは微笑んでいた。 カロルはあらぬ方を見て、彼にかかっている盾を解除する。そして戯れめいた炎を作り上げた。 「カロル」 「なんだよ」 「魔法の無駄は――」 「してねェ」 「私なら」 「俺が寒いんだ、クソボケ!」 石の床で燃え上がる、なんとも不思議な炎。だがそれは暖かかった。冷え切った体に、熱が戻ってくる。 低いリオンの詠唱が聞こえていた。いつの間にかすっかり背を向けてしまっているから、見えはしない。けれどカロルには彼が体力の許す限り確実に完治させることがわかっている。 「カロル」 不意に背後に熱がある。緩くまわってきた腕に視線を落とせば傷はない。 「ボケ、何を」 「ちょっとだけ、こうしてていいですか」 「嫌に決まってんだろうがよ」 「もう、カロルってば」 くっと喉の奥で笑うような声がした。それでいて一向に腕は緩もうとはしない。いっそうきつく抱きしめられた。 「離せ、ボケ」 「だって寒いんですもん」 「あん?」 「寒いんですって」 「だったら――」 憤然として腕を振りほどく。何か無性にリオンの言葉が癇に障った。暖を取る手段ならばなんでもいいと言うのか。 「あっちであったまりやがれ、腐れ神官が!」 床で燃える炎に向かってリオンを叩き込み、彼は寸前で足踏みをして耐え切った。呆れ顔でそっぽを向く。拗ねたのかもしれない、思えばカロルの唇が少し、緩んだ。 「手ェ出せ、ボケ」 「はい?」 大股に歩み寄ったカロルはそれ以上何も言わずリオンの手をとった。まだ冷たい手。指先が凍えきっている。 「カロル!」 頬に、あてていた。ひんやりと妙に心地良い。戦いに高揚した心が静まっていく。悪い気分ではなかった。 |