それは振り払うと言うには、あまりにも優しい仕種だった。そっとカロルの手が外される。リオンは彼の手をじっと見つめていた。ふ、とカロルが目をそらす。まるで自分の行為に照れたように。
「行くぞ、ボケ」
「はい」
 何もなかったような顔はいつものものだった。ほっとして息をつくカロルを、リオンが面白そうに見ている。
「おいコラ、ボケ」
「はいはい、行きますってば」
「わかってんだったら――」
「とっとと行きますよ、カロル」
 カロルの乱暴な口調を真似てにやりとし、リオンは再び向き直って進みはじめた。思わずむっつりとし、次いでカロルは彼の背中に笑みを向ける。どこか寂しい顔だった。
「あ、なんだ……」
 気の抜けた声に正気に返ったカロルをリオンが振り向いたのは、彼が常の表情を取り戻した直後のことだった。
「なんだよ?」
「やっと見つかったんです」
「あん?」
「たぶん、これが次です」
 言ってリオンが指差したのは、見間違えようもない氷柱だった。おそらくこれが先程見えていた彫刻だろう、とカロルは見当をつける。
「困りましたねぇ」
 腕を組んでしみじみと呟いているリオンを呆れ顔でカロルは見やる。
「テメェな、もしかして」
「これが何かくらいはわかってますよ?」
「だったら」
 言ってカロルは言葉を切った。そしてにんまりと笑う。
 氷柱には、転移の魔法がこめられてた。触れるとどこかに跳ぶのだろう。それがこの部屋に扉がない理由だった。あまりにも強力な魔力が漏れ出しているせいで、魔術師ではないリオンにも確実に感じ取ることができるはずだった。
「そういやテメェ、転移苦手だったな」
 してやったりとばかりうなずいたカロルにリオンは渋い顔をしてみせる。リオンだけではないのだ。普通、転移の得意な人間などいない、魔術師でもない限りは。
「平衡感覚が揺さぶられるから嫌なんですよ」
「普通に気持ちわりィって言やいいだろ」
「その辺はまぁ、あれです」
「どれだよ!」
 笑って唇を歪めたカロルにリオンはいかにも情けない顔をしては眉を下げた。常に自らの位置を知るエイシャの神官にとって、一瞬といえどもどこにいるのかわからなくなる、と言うのは非常に気分の悪いことなのだ、と言ってもきっとカロルは笑って取り合わないだろう。どうすることもできないことに対しての、それがカロルなりの優しさだった。
「まぁ、ここに立ってても仕方ないですし。行きますかね」
 諦めて肩を落とし、それから毅然と顔を上げる。いくら転移が嫌だからといって気を落としたまま進んでは命までも落とすことになりかねない。
「おう」
 嬉々としてカロルはうなずく。それは魔術師の本領とも言えるものを扱う歓びであったし、リオンが気力を漲らせたことへの安堵でもあった。
「カロル」
「なんだよ?」
 差し出された手を訝しい思いでカロルは見た。ハルバードを握っていないほうの手が、柔らかくカロルを招いていた。
「念のためです」
「……それだけか?」
「疑いますねぇ」
「ッたりまえだ!」
 転移の途中、まかり間違っても別の場所に跳ばされたりしないように。リオンの言っていることは理解できる、が彼の場合それだけとも思いがたい。けれど罵声を飛ばしただけでカロルはあっさりとリオンの手に自らのそれを重ねた。
「では」
 嬉しげに言い、リオンが器用にハルバードを握ったままの手で氷柱に触れた。途端に聞こえる呻き声。あまりにも速い転移にカロルも目をむく。さすがにリオンのように気分が悪くなったりはしなかったものの、驚いたことは確かだった。
「おいボケ。生きてるか」
「……なんとか」
「ちょっとくらいなら許す」
 返事もなくリオンが肩に額を預けてきた。よほどつらいのだろう、とカロルは思う。軽く腕をまわせばすがりついてくる。
 リオンには見せない、困ったような顔でカロルは口許を緩め、それから改めて引き締める。彼が立ち直るまでの間に周囲を確認しておきたかった。
 魔法の明りはいまだについている。それをゆっくりと壁沿いに飛ばした。この部屋もやはり壁は氷だった。部屋の隅にいることはカロルにもわかるのだが、ここが塔のどの辺りか、と言う段になるとさっぱりわからない。
「さっきんとこの半分くらいか?」
 思わず呟く。同じようどこからともなく光が射しているおかげで広さがわかりにくかった。
「北西の隅ですね」
「あぁ。なるほどな」
 階段は、南東の隅にあった。と言うことはちょうど対角線に飛ばされたのだろう。最も遠い距離を、あれほど瞬時に跳ばして見せた技量にカロルは舌を巻く。そして気づいた。
「おいコラ、クソ坊主!」
「あ、ばれましたか?」
「治ってんだったらとっとと離れやがれ、ボケ!」
 まだゆったりと体を沿わせているリオンを睨みつければ艶然と笑っていた。呆れて声も出ない。だからカロルは彼の腹を殴りつけた。
「痛いなぁ、もう」
 苦情を言われる筋合いではない、とばかりにカロルは返答もせず辺りを見回していた。その目が一つの物を捉えた。
「扉、だな?」
「そのようですねぇ」
 リオンはすぐさまうなずいたけれど、それは扉には見えなかった。輝く氷の壁に入った亀裂。透明でありながら向こう側の窺えない物体。うっすらと裂け目のような筋が入っていなかったならばとてもそこに何かがある、とは思わなかっただろう。扉だと気づいてしまえば、確かに扉の形をした筋だった。
「おいボケ」
「なんですか」
「推測しろ」
 短い言葉にリオンが首をかしげる。問い返されるものと思っていたカロルは呆気にとられて瞬きをした。
「想像ですが。おそらくこの階は四つの部屋で構成されているのでは? 先程の階段の部屋が一つ。ここが二つ目、としてここと同じ構成の部屋があと二つはある、と見ていいでしょう」
 どこか遠い目をしたままリオンはそう言ったのだった。それから不思議そうにカロル見る。
「どうしました?」
「別に」
「カロルってば褒めてもくれないんだから」
「うっせェ、ボケ!」
 わざとらしく言っては大袈裟に溜息をついて見せたリオンにカロルは遊び半分の拳を見舞う。やはり大仰に痛がった。緊張が、解けていく。
「困りましたねぇ」
「なにが……あぁ……」
 問い返しながら気づいた。同じような構成、と言うことは最低でもあと二回は転移があるだろう、とリオンは想像していることになる。
「ま、そのときはそのときですね」
 あっさり言ってリオンは視線を扉に向けた。考えても仕方のないことを考える無駄をしない男が好ましい、カロルは彼の視線を追いながら思う。
「とりあえず、開けますかね。氷柱もないですし」
「お出迎え付だろうがな」
「どうせだったら綺麗なお姉さんがいいですねぇ」
 ずいぶん前に誰かが言ったようなことをリオンは嘯き、ハルバードを握った。呆れてカロルは吹き出し、それから自らの武装を整える。
「我が手に灼熱の炎――イクス<蒼炎刀>」
 揺らめき上がる青い炎。リオンが美しいものでも見るような目で見ているのを心地良くカロルは感じる。魔法を評価されるのは、悪い気分ではなかった。
「行くぞ、ボケ」
 炎の剣を引っさげてカロルが言う。冴え渡る微笑が、まるで彼の剣のようだった。
「はい」
 うっとりとうなずいてリオンは口許を引き締めた。何が出てくるか、いっそ楽しみになってくる。戦いに高揚する心を抑えつけ、リオンはカロルを背後に庇って扉を開けた。
「ボケ」
 小さなカロルの声。咄嗟に体をひねれば、彼の明りが先行する。はっとした。何かが、いる。あるいは、ある。
「おいコラ……」
 カロルの声もまた止まる。それはまるで彼らの声や息遣いに反応したかのよう、うっそりと立ち上がった。
「でかい……!」
 カロルの感嘆の声だった。知らずリオンの口許には笑みが浮かんでいる。
「行きますよ!」
「おう!」
 同時に、飛び出した。後ろに下がっていろ、と言っても聞く気がないことはいまの声でリオンにはわかっている。ならば速戦即決で始末をつけるまで。
 そして何者かが吼えた。びりびりと氷の壁が震える。巨大だった。それでいてわずかに見えづらい。
「アイスゴーレム!」
 カロルの声が叫ぶ。二人を待ち受けていたのは、氷でできた魔法生物、ゴーレムだった。揺らぐカロルの明りがゴーレムにまとわりつき、その輪郭を鮮明にする。
「ボケ!」
 一瞬のうちにリオンのハルバードが魔法をまとう。カロルの速すぎる詠唱にリオンは彼もまた戦いの高ぶりを感じているのだと知った。
 ハルバードの一閃。カロルの赤い炎をまとったそれがゴーレムの胴にめり込む。わずかによじった、と見るまでもなく刃が離れ、そして瞬きの間に修復がなされた。
「ちっ」
 リオンの舌打ちに、今度はカロルが攻撃をした。だが結果は見るまでもない。同じことだった。何度攻撃しようとも瞬時に為されてしまう修復に為す術もない、そう二人の間に焦りが見えはじめたとき、カロルの目が決定的なものを捉えた。
「ボケ、援護しろ!」
 返事もなかった。それでいいとばかりカロルはうなずき、わずかに一歩、下がる。その間にリオンのハルバードが閃いては猛攻を重ねた。
 あたり一面、ゴーレムから削り取った氷の破片で煌いていた。またリオンが薙ぎ払う。カロルの明りにそれが華麗な細工のよう、きらきらと輝いた。




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