ひしひしと、圧迫感を感じている。カロルは一度、深く呼吸をしリオンを窺った。彼の背中もまた、緊張していた。 階段を上るにつれ、大気が冷たさを増していく。それが単純な戦いの気配なのか、それとも純粋な気温低下なのか、すぐさま区別することができない。リオンが立ち止まる。階段の頂上。辺りを見回す彼の肩越しにカロルもまたその場を見た。 「氷ですねぇ」 呆れたようなリオンの声。階段を上り詰めた場所は氷に囲まれていた。きらきらと壁面が輝く。それ以外には一見してなにもないように見える。 「だな」 うなずきカロルは魔法の明りを飛ばした。ふと違和感を覚えて明りを消す。 「カロル?」 部屋はどこからともなく仄かな明りに包まれていた。カロルの明りがない分、いっそう幻想的な色と輝きを宿した氷の壁。そっと手をあてれば当たり前に冷たい。紛れもない現実の氷だった。だが、その奥底に潜む魔法の気配をカロルは感じる。けれどそれをリオンに伝えはしなかった。 「テメェ、見えるだろ」 「なにがです?」 「周りに決まってんだろ、ボケ」 「あぁ。見えますねぇ、そういえば」 どこかとぼけた答えを返し改めてリオンが周囲を窺う。出現場所の定かではない漏れ出る光に照らされて空間の距離感が掴みにくい。だがエイシャの神官にはそのような幻惑が通用するはずもない。 「閉鎖されてますね」 「あん?」 「扉がないです」 「待ちやがれコラ」 「そう言われましてもねぇ。私がやったんじゃないですし」 「うっせェ、ボケ」 リオンの言葉を一蹴し、カロルは壁伝いに進み始める。気づけばリオンが前にいた。唖然としかけ、いつものことだと思いなおす。そしていつも、と言ってしまえるほどに馴染んでしまった男の背中を追った。 「冷たいですね」 「なにがだよ」 「壁ですよ、壁」 「氷だからな。あったかかったら気色わりィだろうがよ」 腹立ち紛れ、吐き出すカロルの言葉にもっともらしくリオンがうなずく。それにカロルは自分の苛立ちを知った。 「これって魔法ですかねぇ」 「こんな自然現象があったらお目にかかりてェもんだな」 「まったくです」 足を止めることなくリオンはうなずき、壁に手を滑らせる。体温にわずかばかり氷が解け、すぐに修復される。今も魔力が働いている証左だった。 「あぁ、これですね」 「だからなにがだよ!」 リオンの背中の中央を拳で打つ。わざとらしい悲鳴が上がる。ゆっくりと呼吸する。募る苛立ち。不安。緊張。焦燥。リオンが無駄なことをするなと体で語っている。カロルは受け入れる努力をする。難しいことではあったけれど。 「さっきの階段ですよ」 「あん?」 「濡れてたじゃないですか」 「あぁ……」 言われてはじめて理解する。どれほど自分が焦っているのか、まざまざと見せつけられた気分だった。皮肉に自らを笑いカロルは前の背中を睨んだ。 「この壁が溶けてたんだな、と思って」 「……急いだほうがいいな」 「え?」 独り言だった。その呟きを聞かれたことにも、自分が口にしてしまっていたことにもカロルは驚く。唇を噛みしめ振り返ったリオンを見つめた。 「こんなもん溶けるわけねェだろ」 静かに吐き出す。魔法で作り出された氷が構築する壁。ふんだんに供給される魔力。 「ですが」 「普通なら溶けねェんだ」 「……と言うと?」 「触ってんだからわかんだろ。魔力はまだ送り込まれたまんまだ」 「理解できます」 「それなのに、溶けてる」 真摯にうなずいたリオンの目を見つめ続けた。 「術者の箍が外れかかってるってことだ。暴走する前になんとかしねェと塔ごと崩壊するぜ」 濁した言葉。そらされた目。リオンは感じ取った。カロルが何かを隠したことを。だがリオンは何も言わずうなずいたのみ。彼が言いたくないことならば、聞かない。 リオンの胸のうちに満ちてくる哀しさと愛おしさ。カロルがどうしてこれほどまでに他者に対して不信感を露にするのか、リオンには理解できない。だからこそ、カロルの分まで彼を信じたいと思う。彼が他者を信じられないのならば、二人分自分がカロルを信じよう、とでも言うように。 「それはいささか剣呑ですねぇ。急ぎましょうか」 言って微笑んだリオンをカロルは呆然と見た。あのようなあからさまな言葉を放った自分をリオンはあっさりと受け入れた。言葉の意味がわからないほど愚かなはずはない。わかっていて信じたのだと、心の深い部分が納得している。喉が詰まった。 「まずはなんとかしてこの部屋を出ないといけませんねぇ」 カロルの異変を感じ取りもしなかった顔をしてリオンが前を向く。歩き出す。背中を追いはじめる前、カロルはゆっくりと息を吸った。 「カロル」 「……なんだよ」 滲み出す警戒。カロルの声に含まれた逡巡にリオンはそっとハルバードを握った。落ち着きたい、そう思ってしたことがあまりにも神官らしからぬ行為でリオンは内心で笑った。 「ちょっとお願いがあるんですが」 「さっさと言えよ、ボケ」 「念のため、あなたの明りが欲しいんです」 「おうよ」 なにを隠したのか問われるのだと、半ば覚悟していた。けれどリオンはそうはしなかった。まだ彼を信じきれない。これほど信じたいと思っているのに、習慣は簡単には変わらなかった。自嘲して呪文を呟く。 「カロル」 「なんだよ」 「疲れました?」 「別に」 問われるだろう、と魔法を放った瞬間にわかっていた。今までは鮮やかな色をしていたカロルの明り。今は沈んで濁った青だった。 「反射がすくねェほうが見やすいだろうがよ」 嘘だった。なにも意識などしていない。だからそれはカロルの後悔の色だった。 「あ。それもそうですね」 またもあっさり受け入れた。言いたいことなど山のようにあるはずなのだ。それなのにリオンは黙ってすべてを受け入れる。 包み込む優しさとは違う。支配まじりの包容力などではない。ただ、そこにいてくれる。カロルが足を踏み出すまで、待っていてくれるだけ。 「ボケ」 「なんです」 「なんでもねェよ」 迂闊に呼んでしまった自分に唇を噛み、カロルは明りを先行させた。 「あ、何かありますよ」 「なんだ、ありゃ?」 「彫刻ですかねぇ」 「ま、行ってみりゃわかんだろ」 肩をすくめたカロルの動きと連動するよう、前を向いたままのリオンの肩もすくめられた。見てもいないのに同じ仕種。たったそれだけのことがカロルの口許をほころばせる。 二人は慎重に歩を進めていく。階段から離れるにつれ、氷は壁だけではなくなってきていた。床もまた、氷に覆われている。意図的なものだろうか、床は半ば溶けて濡れていた。 「嫌な予感って当たるんですよねぇ」 「あん?」 「ほら、床」 言われて思い当たる。確かリオンは足元が不安定かもしれないと懸念していた。 「まぁ、なんとかなりますけどね」 「ほんとかよ?」 自信過剰をたしなめるよう浴びせたカロルの言葉は冷たい。それに首だけ振り向けたリオンが不敵に笑った。 「ならなくってもするんですよ、カロル」 「テメェなぁ」 カロルの声に滲んだもの。警戒とは程遠い弛緩した呆れ声。ついに立ち止まって体ごと振り向いてしまったリオンの目は、それほどまでに輝いていた。 「だめかもしれないと思いながら戦うほど敗北に繋がることはないですよ」 そう言っては一人うなずいている。まるで戦士の吐く箴言だった。 「ほんとに神官かよ、テメェ」 「どこもかしこも神官ですってば」 にたりと笑うリオンをカロルは軽く叩いて口許だけで笑った。それでいいと言うよう、リオンがうなずく。言葉にしない会話。何かが通じ合った気になる。カロルはそんな思いを振り払った。すぐに手放すことになるだろうものにしがみついていたくはなかった。 「たいていの場合、目標に向かって一直線に進もうと努力すれば、いつかは目標に着くんです。曲がりくねりながらでもね」 「なにいきなり神官面してやがる」 つい、吹き出したカロルに顰め面をリオンはして見せ、そっとカロルの髪を梳いた。 「重要なのは、目標を見失わないことですね」 「フェリクスか」 「おや、そんなこと言いましたっけ。私」 「あん?」 そんなことも何も、その話をしていたのではないのか、とカロルの顔が訝しげに顰められる。それにリオンは莞爾とし、言葉を続けた。 「いつかあなたに好きだって言ってもらえるよう最大限の努力をする、という宣言だったんですが」 飄々と、あまりにも場違いなことを言って笑うリオンの肩に拳を見舞いカロルは笑い出す。 そう言ってくれる彼が、ありがたかった。たとえ今だけだとしても。笑いを収め、わざとらしく再び顰められたカロルの顔。口許だけがにんまりとしていた。リオンもまた、殊勝げな顔を取り繕う。 「おいボケ」 「なんです?」 「そう言うの、なんていうか知ってるか?」 挑発するよう、カロルの手の甲がリオンの頬を撫でるよう打った。それに目を細めてリオンが微笑む。 「無駄な努力、とは言わないでくださいね。カロル」 ハルバードを脇に手挟み両手でカロルの手を包み込む。まるで祈りの仕種だ、不意にリオンはそのようなことを思う。 「わかってんじゃねェかよ!」 こぼれだした二人分の笑い声。氷の壁に反響してこだました。こんな場所で。こんな場所だからこそ。振り払われることのなかったカロルの手は、リオンの掌の中で温かかった。 |