その仕種を、リオンは間違いなく目にしていた。警戒させないようゆっくりと彼に腕を伸ばす。拒まない。緩く腕に抱いた。ほっと息をつきたくて、けれどそうはできないカロルを腕の中に感じていた。
「愛してます、カロル」
 囁いた言葉は睦言よりも幼子に安堵を与える言葉めいていた。カロルはうなずくでもなく聞いている。リオンはそれを許してくれるはずだった。痛切に思った。今ほどこの男を信じたいと思ったことはなかった。誰かを信じたいと、心から願ったことなどなかったカロルが。
 リオンは腕の中、身じろぎを感じた。カロルが隠したがっている心の揺らぎをリオンはほぼ正確に知っている。もしかしたら本人以上に。ためらい、戸惑い。焦慮、嫌悪。それらをカロル自身が明確に知るより先に、だからリオンは腕を離して微笑った。
「さ、行きましょうか」
 にっこりと笑ってリオンが言う。茫洋とした目に仄かな切望をカロルは見た。優しい黒い目の中、自分の翠が映っている。それが無性に苦しい。
「……いいのかよ」
「え?」
「いま、ちょっとだけしてもいいと思った」
 苦しさの原因が不意にわかった。カロルは自分の心の中を見つめる。たとえわずかな間だけでもいい。離れていってしまうまでの束の間でいい。彼を信じたい。それは切なさだった。
「もう、カロルってば」
 けれどそのカロルの耳に届いたのは場違いなほど明るい笑い声だった。一瞬にしてカロルの熱が冷める。しかし不愉快ではなかった。
「なんだよ」
 ふい、とあらぬ方を見やってカロルは言う。自分の示した感情にこそ、羞恥が沸いたとでも言うようカロルの耳は赤らんでいた。
「あなたってば、本当に可愛い」
「うっせェ!」
「そうそう」
 したりとばかりリオンがうなずく。なにが言いたいのだ、と怒気を含んだ目をしてカロルが彼に向き直れば柔らかい笑みが待っていた。
「そのほうがあなたらしいですよ」
「どういう意味だコラ」
「無理やり頑張らなくっていいです」
「あん?」
「待ってますよ、カロル」
「意味がわかんねェ」
 突如として理解不能な言語で語りだしたように思えてしまうリオンの言葉にカロルは頭を抱える。
「ねぇ、カロル」
 血で強張ってしまったカロルの髪に手を伸ばし、リオンは丹念に指先で血を揉み解し落としていく。そのようなことをしても完全に綺麗にすることはできなかったけれど。
「あなた言いましたよね」
「なにをだよ」
「ついて行くと、俗世に帰れなくなるって言ったじゃないですか」
「おう」
 カロルがまだ迷っていることを、リオンはあっさりと言う。信じたいと思った男だからこそ、カロルはいっそう彼を連れて行きたくはない。
「ちなみに俗世に出られない、と言うのはどういう状況でしょう?」
 カロルはぐっと言葉に詰まった。それをあらかじめ予想していたと言うよう、答えられる範囲でいい、とリオンが続ける。わずかのあいだ逡巡し、カロルは言った。
「王宮から出られない、と思ってくれていい」
「えーと、それは地下牢に放り込まれるとか、そういう?」
「そこまではしねェと思う」
「なるほどね」
 うなずいたリオンがにんまりとした。いったいなにが嬉しいのかカロルには少しもわからない。ぎょっとして下がりかけた。
「あなた、宮廷魔導師ですよねぇ。カロル?」
「お……おう」
「と言うことは、王宮にいるわけですよね?」
「そりゃ、まぁ、な」
「だったらずっと一緒ですねぇ、私たち」
 やっと、言いたいことが飲み込めた。呆気にとられてカロルはリオンを見た。監禁に近い状態になる、と言っているにもかかわらず、リオンは喜んでいる。自分の側にいられる、そう言って。馬鹿みたいに嬉しかった。
「だから、時間はいくらでもありますし。待ってますよ」
「なにをだよ」
 わかっていて問い返した。リオンは黙って微笑んでいる。カロルは一度、目を閉じる。
 すぐに、離れていくはずの男だった。カロルはそれが当たり前だと思う。いっそ今すぐ己の過去を語ってしまえばいい。悩むことなど何もなくなる。そっと伸びてきた手が頬を包んだ。とても、言えなかった。
「行くか」
「はい」
 思いを振り切るようにしてカロルは言う。それでいいとリオンがうなずく。何もわかっていないはずなのに、何もかもわかっているような顔をする。心騒いで、たまらなかった。
 ちらりと階段を見やる。危険はなさそうではあった。今までぼんやりと話している間も、何者かが降りてくる様子はなかったし、待ち伏せをしている気配も感じない。
「後ろですよ、カロル」
 言わずもがなのことを言って先に立つリオンにカロルは苦笑し、彼の背中だけを見て進む。緩く握ったハルバードが魔法の明りに白銀に輝く。
 階段は、湿って滑りやすかった。足元を確かめる。そしてカロルは驚いた。湿っている、などと言うものではない。滴るように濡れていた。
「なんでしょうねぇ、これ」
 カロルが気づいた事に気づいたのだろう、リオンが不思議そうに首をひねる。そのやり方が不快になるどころか反って楽しい。
「わかんねェ」
 そのように思いはじめた自分が面白かった。人生とは、不思議なものだとつくづく思う。決して他人を信じない、そう決めることもなく当然だと思っていた自分が痛切に一人を信じたいと思う日が来る不思議。
 フェリクスに、それを教えてやりたいとカロルは思う。周囲はすべて敵だと思っていたフェリクスも、少なくとも今は自分やメロールたちを信用している。いつか、彼の世界も広がっていくだろう。それを知ることなく、こんな場所で朽ち果てさせたくはない。
 そしてカロルはひっそりと誰にも知られないようにして微笑った。自分やフェリクスが、メロールたちを信じることができた理由を思って。笑みよりも、その理由をリオンには知られたくなかった。
「上の階が濡れてるんですかねぇ」
 ぼんやりと呟くリオンの声に正気に返った。慌ててカロルは瞬きをし、戦いへと意識を引き戻す。待ち伏せがないからと言って、油断は出来なかった。
「かもしれねェな」
「足場が不安定だと、怖いですねぇ」
「ぬかせ」
 カロルが上げた笑い声にリオンは強張っていた肩から力を抜いた。なにを思い悩んでいるのかはさすがにわからない。問いただしたいとも思っていない。けれどいつか彼がしてくれたよう、沈んでしまった心を引き上げる手助けだけはしたいと思う。
「だって怖いですよ?」
「ほざけ、テメェが?」
「あ。酷いなぁ。私だって不安に思うことくらいあるんですよ」
「へー、そりゃ知らなかった」
 あからさまに不審を滲ませたカロルの声にリオンは肩をすくめる。それからそっと首だけ振り向けて笑みを浮かべる。
「なんだよ、気色わりィな」
「うーん、こんな人だと思わなかったなぁ、と思って。可愛い、カロル」
「うっせェ、コラ。どういう意味だ」
「噂なんかあてにならないな、と思ってただけですよ」
 リオンの体が突然止まった。背後から、カロルが彼の肩を掴んで引き戻す。
「なに知ってやがる、テメェ」
 低い声だった。脅しつけるような、恐怖に震えるのをこらえるような。リオンは目を見開いてカロルを見つめた。
「ラクルーサの黒衣の魔導師、メロール・カロリナは、性別も種族も誰も知らないって。その程度のことですよ」
「本当かよ?」
「嘘ついてどうするんですか、そんなことで。あなたに嘘はつかないって言ったでしょうに」
 呆れ顔で言うリオンの目をカロルは貫き通すよう見つめ続けた。その中に一片の嘘でも見つけてしまえば楽になれるとでも言うよう。
「おいコラ」
「なんですか」
「テメェ、幾つだ」
「三十超えたって言ったでしょ」
「正確に」
「三十二ですよ」
 カロルはその間もリオンから目を離さなかった。正確さなどどうでもよかった。カロルにとって、二三年など意味を成さない。特にこの場合は。ただ、考える時間が欲しい、それだけだった。決して彼が知るはずのない己の過去に思いを馳せる。
「私の年がなんです?」
「別に」
「気になるなぁ。言ってくださいよ。ね、カロル?」
「俺が修行はじめたときにゃ、まだテメェは生まれてもいなかったんだな、と思っただけだ」
 その言葉に、突如としてリオンが体の力を失った。なにが起こったのかと唖然とするカロルの前、階段に半ば座り込んだリオンが恨めしげに見上げている。
「なんだよ?」
「あなたのほうがだいぶ年上だって言うのは、理解はしてますけどね」
「だから?」
 鼻で笑ってカロルは言う。人間の間では二十歳も年齢差があれば普通親子ほどの差、と言う。それをどう取ったのかリオンは溜息をついて立ち上がり、わざとらしく膝の辺りを払って見せる。濡れていない所を見れば座り込んではいなかったのだろう。それを思えば肩を落として見せたのも大袈裟な演技かもしれない。そう思っても、嫌な気分にはならないカロルだった。
「あんまり年下扱いすると」
 そう言ってリオンはあからさまに言葉を切った。あとを続けようともせず前に向き直る。そのまま階段を上ろうとするリオンの髪に手を伸ばし、カロルが引っ張った。
「痛いじゃないですか」
「だったら続けろ。気持ちわりィだろ」
「うーん、いじめちゃおうかな、と思っただけです」
「なにがだけだよ!」
 悲鳴じみた笑い声にリオンは口許を緩め振り返る。その目のあまりの優しさに、カロルはすべてを話したくなる。破壊衝動にそれは似ていた。
「カロル」
 息を吸った瞬間だった。唇にリオンの指先があった。かすかに触れているだけ。特別な意図は何もない、と指先が言っていた。
「言わなくていい」
 はっとした。ゆっくりと息を吐き出す。それを確かめてリオンは再び前に向き直る。カロルも黙ってその背を追った。知らず我が胸を押さえながら。




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