カロルが決断した瞬間を、リオンは見逃さなかった。うっとりと笑って翠の目を覗き込む。そらされはしない彼の目。決然とした色をしていた。
「あなたもわかってるでしょ」
 試すよう問うてみれば、かすかに口許が引き締まる。それでリオンは彼が漠然とであっても察していることを確信する。
「もう一つはこれですよ」
 言ってカロルの眼前に、先程の拳のよう突き出した物。銀珠。リオンの指先に絡まった鎖に連れてゆらゆらと動いた。
「眠ってもらいます」
「……だと思った」
「私の提案はここまで。選ぶのはあなたですよ、カロル」
 言われていることの意味はわかる。どちらもリオンができ得ることならば取りたくない手段だというのも、カロルはわかっている。
 ゆっくりと目を閉じた。拒絶ではない。ただ外界を遮断しただけ。リオンはきっと仕種の意味を過ちはしないだろう。それほどの確信を持てるのに、やはりこの男を信じきることができない。
 開かれた翠の目は、リオンを捉えなかった。黙ってじっと橋を、その向こうを見ている。カロルの中、焦燥ではない何かが湧き上がっては意思の力で消していく。
「しょうがねェな」
 誰に言うともなしに言ったカロルの声。リオンは黙然と待っていた。そのことがどうしてこれほどまでにありがたいのだろう。カロルは閉じそうになる目をリオンに向けかけ、あえてそらした。
「……受け入れてやるよ」
 ぽつりと、呟きほどの大きさだった。言葉より、それは溜息にも似た。リオンの目許に悲哀が浮かんでは溶けた。
「カロル」
「うっせェな。さっさとやれよ」
「なにか香りのご希望があったらどうぞ。お好みで調整しますよ」
 リオンの戯れめいた言葉にカロルは一瞬の半分ほど、笑った。それから体ごと彼からそむけ、ゆっくりと息を吸う。
「あれがいい……何階だったっけな。暗闇で分断されたとき、目印にテメェが作ったやつあっただろ。あれ。嫌いじゃない」
 リオンは愕然と目を見開いた。咄嗟に彼がなにを言っているのか、理解できなかった。花の香りでも果物の香りでもいい。何かその程度のことを言ってくれれば充分だ、そう思っていた。
 リオンの目許が歪み、代わって口許に笑みが広がっていく。きつく掌を握り込めば冷たい銀珠の手触りがした。
「ありがとう、カロル」
 礼を言うしか出来なかった。カロルは答えず、黙って佇むだけ。それでよかった。リオンは思念を凝らし、エイシャに祈りを捧げる。静かに銀珠から煙がたなびきはじめた。
「カロル」
 それは予告だった。理解したというようカロルがうなずく。動かない彼を背後からそっと腕に抱けば、わずかな抵抗。それを自らの意思で封じ込めたカロルの目の前で銀珠を揺らした。
「危険ですから、こっち向いて」
 振り返り様カロルの目が瞬かれ、眠りの魔法が発動する。ふらりと傾いだ彼の体を抱きとめたリオンの腕。その先の掌は、爪が皮膚を破るほど、きつく握り締められていた。
「ごめんなさい、カロル」
 すでに聞こえはしない彼に向かってリオンは謝る。自らの意思を放棄することをなによりも嫌がるカロルにこれを強いたことは、わかっていた。
「意思、じゃないかな」
 呟いて肩に担ぎ上げる。緊張しきった掌を何度か握ったり開いたりしてほぐし、ハルバードをゆったりと握りなおす。それでリオンの呼吸が整った。
 頬にカロルの体が触れている。温かくて胸が苦しくなる。不意にリオンは思った。意思を放棄するのではなく、自らの精神、あるいは肉体を他者に委ねることを嫌悪しているのではないか、と。それならば彼の魔法抵抗の異常な強さもうなずける。
「カロル」
 謝罪は、もう口から出はしなかった。代わりに感謝の念が浮かぶ。それほど嫌なことを、受け入れてくれた。
 辺りを確かめるよう目を走らせ、リオンが足を踏み出した。あれほどカロルの目には淡々とした幻であった橋が、リオンが踏み出した途端に現実となる。
 足取りの確かさに、橋が実在感を増していくようにさえ見えた。堅牢極まりない橋だった。石造りで、建造されてから百年はここにかかっていたように見える。今エイシャの神官が魔法で作り出したものとはとても信じがたかった。
 肩にかかるカロルの重みをリオンは感じ続けている。橋を維持するのはつらくはなかった。それほどエイシャ女神に寄せるリオンの信仰は強い。
 今は意識を失ったカロルの体を感じているほうがよほど、つらかった。早く眠りから返したい。そればかりを思う。
「黙ってるあなたは、らしくないですしねぇ」
 答えが返るはずもないことを知っていながらリオンは呟いて微笑んだ。しっかりと彼の体を担いでいる。万が一にも落としたりしないように。だがそれ以上の意図はまるでない腕だった。
「信じてくれますかねぇ」
 茫洋と呟いた声には信じさせようとの努力は欠片も窺えない。リオンはただ彼が歩きはじめるのを待っていた。
 なにが彼にあったのかは知らないし興味もない。ただ彼がどこかで立ち止まってしまったことだけは、感じている。だからリオンはじっと待っていた。それだけだった。
「おっと」
 決してぼんやりしたわけではなかったけれど、わずかに足が揺らいだ。
「怒られますねぇ」
 吹き上げる魔法の風に足元を取られたなどとカロルが知れば、それこそ心尽くしの罵詈雑言が飛んでくることだろう。
「それも悪くないですけどね」
 橋の半ばまで来ていた。まだ対岸は遠い。彼の声がないことが、彼に意識を放棄させていることが寂しくてならなかった。
 絶え間なく吐き出される罵声に怒声。それはもしかしたらカロルの魔法防御にも似た何かなのかもしれない。自らの体と心を鎧う、何か。
 いつか話して欲しいと思う。それで彼の気持ちが楽になるならば。反面、聞きたくないとも思う。彼が言いたくないのならば。いずれにせよ、リオンにとってばどちらでもいいことだった。カロルがカロルとしてここにいる。そのカロルの側にいたい、それだけだった。
 着実な足取りが、少し速さを増した。辺りへの警戒を強めたわけではなく、カロルが重たくなったわけでもない。
 それはカロルへの配慮だった。できる限り、早く眠りから覚ましてあげたい。それをどれほど厭うているのか理解したリオンはそればかりを思っていた。
「よし」
 対岸が近くなる。あと数歩だった。カロルが意識を失っても彼の作った魔法の明りは効果を失ってはいない。対岸の足場をぼんやりとではあったがくまなく照らしている。
 どうやら敵対的な何者も存在しないようだった。そのことにリオンはまずほっと息をつく。この状態で戦うのは、さすがにリオンにとっても多少は不安がある。
 橋はあと一歩を残すまでになった。そっとリオンは一度だけカロルの体に頬を寄せた。わずかな温もりだけが名残だと。そしてその場に立ち止まる。まだ橋の上。カロルにかけた魔法を解いた。
「なん……おい!」
 突如として覚まされた眠りにカロルが声を上げたわけではなかった。彼の目は、リオンの肩から背後を見ていた。そして足元を。カロルが目にした瞬間から薄れはじめる橋を。
「はい、到着です」
 茶化すよう言ってぽん、と最後の一歩を飛んだ。堅い足場にカロルが息をつくのが耳許で聞こえる。それにリオンはわずかな苦さと共に肩からカロルを下ろした。
「テメェ……」
 なにを言うつもりだったのかは、ついにわからずじまいだった。カロルは思い切り顔をそむけ、それだけでは飽き足らないというよう背中を向けた。
「危ねェだろうが!」
 そうして振り返ったのは、しばらく経ってのこと。リオンは彼のおそらくは怒りに震える背中を見つめていただけに驚いて瞬きをする。
「なにが、ですか?」
 真剣に彼の言っている意味がわからなかった。取り立てて危険なことはしていないつもりのリオンだ。頬に血を上らせるまで叱られる理由がわからない。
「なんであんなに早く解くんだよ、あん?」
「あぁ……」
「俺が見たら橋が消えるって言ったなァ、テメェだろ」
 凄まじい剣幕で言い募る彼にリオンは体が震える思いでいた。彼のそれとは違う、歓喜に。
「カロル」
「答えろ、ボケ」
「不埒なことはしてませんよ、と無言のうちに証明したつもりだったんですけどねぇ」
「……あん?」
 問いかけは、すぐさまに理解に代わる。怒りが引いていく、その代わり湧き上がる羞恥に耐えかねたよう、カロルが目をそらした。
「なに言ってんだ、ボケ」
 意味のない言葉だと、カロル自身が誰よりも知っていた。そこまで自分の不快を悟ってくれたリオン。自分が何を嫌がっているのか、理解して行動で示してくれたリオン。カロルは口をつぐむ。自分が悲しかった。
「キス。してもいい」
 ふい、と顔をそむけたままカロルが言った。彼なりの感謝と謝罪。リオンの唇に笑みが浮かぶ。
「うーん、あなたにして欲しいなぁ、私」
「あん?」
「それってお礼のつもりでしょ、カロル? だったらあなたからしてください」
 そう言ってリオンはカロルの前にかがんで見せる。目を閉じて、うっとりと。わざとらしいほどくちづけを待つ顔をして。
 そしてリオンは目を閉じながらもカロルの気配を充分に察していた。彼の表情が強張ったことも、わずかに身を引きかけたことも。そしてカロルが口を開くより先に目を開けたリオンがにたりと笑った。
 ぎょっとしてカロルがためらいを捨てるよう唇を引き締めるのが見えた。その彼の額、リオンは音を立てて軽いくちづけをしていた。
「おいコラ」
 なにをされたのかわずかの間、わからなかった。呆然と目の前の男を見上げる。
「忘れたんですか、カロル?」
「なにをだよ」
「あなたの意思を無視はしません。約束しましたよ、私」
 にっこりとリオンが笑っていた。ふいにカロルはすがりつきたくなる。腕が上がりかけ、そして止まった。




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