カロルはじっと目を伏せたまま何も考えてはいなかった。彼の言うとおりだった。自分はリオンと言う男を信用できはしない。リオンだけではない。人間を信用できない。信じたいとは思う。が、それは嫌悪を伴った願望だった。
「クソ坊主」
 絞り出したカロルの声は、苦い。意識せずに出た声にカロルは愕然とし、けれどそれを面に表すまいとあえて無表情を取り繕った。
「どうしました?」
 淡々としたリオンの声。何も求めずにいてくれる。それがカロルを切ないような気持ちにさせた。
「橋って言ったな」
「はい」
「造れよ」
「いま、ですか?」
「あぁ」
 虚ろなカロルの声にリオンは黙ってうなずく。そして足場の端まで歩いていった。背中に、カロルの視線を感じる。貫くような願うような視線だった。
 リオンは正面を向いたまま一度目を閉じた。全身にカロルを感じる。手も届かない背後にいるというのに。
 そして彼の口許に浮かんだ笑みは仄かなものだった。寂しげな、と言うにはあまりにも悲痛な。ゆっくりとリオンがその口許を引き締める。
 ハルバードを握り締めた。何の意味もない行動。どこか祈りにも似ている。エイシャへの祈願に先立つ、リオンの儀式のようなものだった。
 彼の口から、ゆるゆると呪文が流れ出す。そっと両手で握ったハルバードを横にしては前に差し出す。無意識に頭上を仰いだ。
 と、闇が晴れていく。否、そうではない。薄く淡く輝く橋が闇の向こうへと延びていく。リオンが目を開いたとき、橋は現実になっていた。同時に淡い輝きが消え去る。橋の実在感が増した。
「できましたよ」
 できるだけ当たり前の口調を保ってリオンが振り返る。カロルは唇を引き結んで彼のほうを見ていた。リオンを見ているわけでも、橋を見ているわけでもない。彼とその作り出されたものを見ていた。
「たいしたもんだ」
「お褒めにあずかって恐縮ですねぇ」
「けっ、言ってろ」
 カロルが足を踏み出す。その一歩をリオンは笑みを浮かべて見ている。だからはっきりと知覚された。彼の足がわずかに震えたことも、きつく手を握り込んだことも。その手を背後に隠したことも。
「カロル」
「なんだよ」
「危ないですよ」
 すぐ横に歩いてきたカロルが、闇の深淵を見ていた。覗き込む姿はまるで落ちることを望んででもいるようで危うい。
「自殺願望はねェよ」
 はっとしてリオンは彼を見た。カロルの視線は動いてはいない。黙って深淵の縁に立っている。その姿を目に焼付けでもするよう、リオンもまたカロルを見つめ続けた。
「カロル!」
 彼が、足を踏み出していた、闇に向かって。慌てて止めようとした手を無造作に払われる。
「黙ってろ」
 その声にリオンは悟る。彼は試してみたいのだ、と。だが動悸がしてならなかった。カロルは橋の上に足を出してはいる。決して彼が渡ることのできない橋に。
「橋だな」
 言わずもがなのことをカロルは言った。意味のない言葉こそがいまと言う時間に相応しいとばかりに。慎重に足先で橋を探っていた。そこには何もなかった。
 リオンが言うような現実がそこにあるとはどうしても思えない。カロルは苦く笑う。それこそが彼と言う人間を信じられない証として、橋はカロルの前にある。
 なにもない空間を足先でつつきまわす。やはり、なにもない。橋が見えてはいるのだ、カロルにも。だが幻めいた透明な橋だった。なにも感じない。まるで虹の中に踏み込んだよう、不思議な感覚があるだけだった。
「無理ですよ、カロル」
 染みとおるような声がした。どうしてこんなときにそのような声が出せるのだろうか。咄嗟に見上げてしまったカロルの目に仄かな感情を滲ませたリオンが映る。その感情が何かは、わからなかった。あるいはわかりたくなかったのかもしれない。
「わかってらァ」
 無愛想に言った。無理に。同じほどに無理をしてカロルは笑う。それから一度、深い呼吸をした。決然と目を上げる。
「キスして」
 すぐ側に立つ男に向けてカロルは言った。リオンがわずかに目を見開く。カロルの目にあるものをリオンは正確に読み取った。挑戦と、誘惑と。挑みかかる目が、翠に揺れた。意図的に作られた甘やかな声とは似ても似つかないものがそこにある。
「目を閉じてくださいよ、照れます」
 わざと言ったリオンの言葉にもカロルは目をそらさない。そして彼の言葉に従うふりをして目を閉じた。わずかに開いた唇。誘われているのをリオンはひしひしと感じる。鼓動が弾む。そっと彼の髪の中、指を差し入れ仰のかせ。
 リオンは軽くカロルの頬にくちづけた。
「ボケ」
 小さな声だった。罵倒ではなく、ただ呼んだだけのよう。
「なにしてやがる」
 カロルが目を開く。その目の中にあったのは不満と同程度の満足。だからリオンは嘯いてみせる。
「私たちの距離感は、いまのところこの程度かな、と」
 そして手櫛で髪を梳いては離した。まだこびりついたままの血が金髪を絡ませていた。
「ほざけ、ボケ」
 視線を先にそらしたのはカロルだった。リオンは見た、その口許がかすかに笑みを浮かべているのを。背中を向けてしまったカロルの肩に手をかける。
「で。俺はどーすりゃいいんだよ」
 肩にある手の重みと温かさ。それがこんなにも胸を痛ませる。歯を食いしばるでもなく、カロルは耐えるだけ。
「提案が一つ。聞きます?」
「おう」
「あなたが橋を渡ることはできない」
「わかってらァ」
「でも階段は向こうにある」
「一々うるせェよ」
「まぁ、もうちょっとですから。あちら側に行くためには、なんとかしてここを渡らなきゃならない。それはわかってもらえますよね?」
「……おう」
 返事が返ってくるのにわずかな間があった。それにリオンはカロルの逡巡を知る。恐怖かもしれない、ふと思いなおした。リオンがなにを言い出すかわからない、カロルは決して認めはしないだろうけれど、それを恐れているのかもしれない。
「私があなたを担いでいきます」
 きっぱりと言ったリオンの声にカロルは振り返る。片手を塞がれては危険だとか、不安定な姿勢で大丈夫なのかとか、言いたいことはいくらでもあった。けれど彼は自分を助けて先に進むと言う。
 カロルは逆らえなかった。リオンにとってこれは義務でもなんでもない。カロルの義務だった。それにもかかわらず、リオンはまだ共に進むと言ってくれる。かすかに唇を噛み、そしてリオンを黙って見た。
「それで、いいのかよ?」
「あなたひとり担ぐぐらいたいしたことじゃないんですけどね。問題がひとつあるんです」
「あん?」
 リオンの言い振りからすれば、面白くないことが待ち受けていることは確実だった。だがカロルはせめて提案くらいは聞きたいと思い始めていた。その言葉くらいには従ってみたい、と。
「うーん、あなたが橋を見てたら一緒なんですよ」
「どういう意味だ、コラ」
「一緒に奈落に向かって永遠の落下ですねぇ。まぁ、それはそれで悪くはないですが」
「そう言うこと聞いてんじゃねェだろ!」
「あ、違いました? うん、あなたが見ていたらね、橋の実在を信じないでしょ? あなたの不信と私の現実とどちらが強いかと言う問題なんですが、どう考えてもあなたの不信のほうが強いんです」
「悪かったな!」
「あ、いや。そういう意味ではなくってですね。あなた、魔法抵抗すごく強いから、そういう意味です」
 おろおろと言い募るリオンを見ているうち、カロルの口許が緩みだす。ほんのわずかなものではあったが、気持ちが楽になった。
「で。俺にどうしろって?」
 解決策があるはずなのだ。だがリオンはまだそれを口にしていない。よほど不愉快なものなのだろうと想像するカロルに向かって、その事実を肯定するようリオンが困った顔をして見せた。
「意識を、失ってください」
 リオンの言葉を認識した瞬間、カロルが表情を失う。リオンは黙ってカロルの決断を待った。カロルは何度も自分の足元と橋の向こう、今も魔法の明りが照らし出している階段を見ている。
「どうすりゃいいんだ」
 カロルが言いたくないことを口にするよう言葉を絞り出したのは、それからずいぶん経ってからのことだった。
「二つ、手段があります」
「聞かせろ」
「一つは簡単ですが、あとで気分が悪くなるかもしれません」
「言えよ、さっさと」
「これですよ、これ」
 にんまりと笑ってリオンはカロルの目の前に拳を突き出して見せた。唖然としてカロルが何度も瞬きをする。次第に笑いが広がっていった。
「殴るってか?」
「えぇ。後頭部を思いっきり」
「そりゃ痛そうだな」
「一発で気絶させてみせますよ」
 神官らしからぬことを自信ありげに言われてカロルの気持ちはさらにほぐれていった。いまならば、もう一つを聞く気になれる。後に残した提案は、さらに不快なものに違いないのだから。
「もう一つは?」
 問えば言葉を選ぶ間が欲しいのだろうか、リオンがわずかに目をそらした。それを許さないとばかりカロルはリオンの顎先を掴む。指先でされたその仕種にリオンが目を和ませ、照れたよう笑った。
「照れんな、ボケ」
「だって、恥ずかしいじゃないですか」
「気色わりィことぬかすな!」
「えー、だってー」
 わざとらしく照れて騒いで見せるリオンに、カロルの心が揺らいだ。これほどまでに得がたい男なのに、信じきれない自分がいる。
「とっとと吐きやがれ、クソ坊主!」
 リオンがそうするならば、自分も同じ態度を取ろう。カロルは内心で苦く笑ってリオンの顎を掴んだ指先に力を入れた。そして痛いと文句を言う彼をじっと見ていた。




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