温かいリオンの手をカロルは感じていた。おかげでどれほど冷え切っていたかを知る羽目になる。体ではなく、心が冷たかった。湧き上がる怒りからきたそれは、決してリオンのせいとばかりは言えない。 カロル自身の問題だった。だがそれを口にするつもりはカロルにはなかった。自分のことをあからさまに語るほど、信頼してはいない。 「離せよ」 ぶっきらぼうに言えば、少しばかり哀しそうな顔をしていた。それを振り切るようカロルは顔をそむけ、伸ばした手でリオンの頬を軽く叩く。 「カロル……」 「うっせェ。黙ってろ」 「はい」 声に歓喜が滲み出す。リオンのその響きを聞いているのは、好きだった。だからいっそう、信じたくない。 リオンに、エイシャの神官にはその心の機微がわかってしまうのかもしれない。カロルは視線を合わせないまま目を閉じた。 「行くぞ、ボケ」 その目を開いたとき、そこにいるのはいつものカロルだった。揺らいでいた翠の目が、強い輝きを取り戻すのをリオンは見て取る。 「そのことですが」 「なんだよ?」 「ちょっと困ったことが起きまして」 「あん?」 嫌な予感がカロルを苛んだ。よもやここまで来て道がない、行き止まりだとは思いたくない。睨みつけても仕方ないリオンを睨みカロルは続きを促した。 「先がね、ないんですよ」 カロルは予感が当たってしまったことを知る。どうして悪い予想と言うものは当たるのだろう。けれど信じたくなくてカロルは魔法の明りを飛ばした。 そしてその目が見たものに愕然とする。ちょうど広い部屋程度の場所だろうか、二人が立っているのは。硬い確かな床だった。 だがカロルが見たもの。そしてリオンが溜息と共に視線を移した場所。それは深い闇だった。なにもない。空間が裂けてでもいるような漆黒が足場の先にあった。 「どうなってんだ、これ」 呆気にとられて呟いたカロルに向かい、リオンは再び困り顔をしてみせる。 「塔の中でなければ深い谷だと思うところなんですけどねぇ」 リオンは答え、肩を落とした。確かにもしもここが外であったならば、崖とでも思えたことだろう。そのことにふとリオンは思いつき、短剣の柄で床石を叩き割ってはこじりだす。 「なにやってんだよ?」 「ちょっと実験です」 生返事を返すリオンにカロルはむっつりと口をつぐむ。なにをするつもりなのかわからない、それが不安で仕方なかった。不意打ちは、望ましいことではない。たとえそれが味方であっても。 そのようなカロルの態度に気づいているはずなのにリオンは意に介さずこじりだした小石を手に取る。ちらり、カロルを見やっては小石を手の中で弄ぶ。 「おいボケ」 「たぶん、面白くない結果になります」 「どういうことだよ」 「説明するより見てもらったほうが早いでしょ」 言ってリオンは無造作に小石を前方へと放り投げた。闇の上に達すると同時に小石が激しく揺れた。そして吸い込まれるよう落ちていく。 「おいコラ」 「黙って」 耳を澄ますリオンにカロルは従い、同じよう耳を傾けた。それからしばらく経っても、音は聞こえなかった。 「あの小石がどこまで落ちたかわかったものじゃないですねぇ」 「ほんとに落ちたかどーかも怪しいな」 「ですね」 当然のようリオンはうなずいている。やはり彼には鍵語魔法の適性があるような気がしてならなかった。冷静さを取り戻したカロルの魔術師の目には、そこに強い魔力が働いているのが視えていた。 正にそれは空間の裂け目だった。仮に落ちたとしても七階には永遠に着かないだろう。あるいは人の世に落下することがあるのかどうかもわからない。 「下は無限のどこか。闇の上は上で何かが働いてるようですねぇ。困ったな」 「上空に物がきたら吸い込むようになってるみてェだな」 「なんて厄介な」 「まったくだ」 行き場がなかった。ここまでほぼ虱潰しにまわってきている。場所はあっているはずなのだ。だが進めない。これほど苛立たしいことはなかった。カロルは思いついて明りをさらに遠くに飛ばした。 「正解」 にんまりとしてカロルは呟く。重さも実体もない魔法の明かりは空間の裂け目には影響を受けないらしい。遠くへ、カロルが求める物を見つけるまで飛んでいく。 「あった」 リオンに聞かせるために言ったものではない。だがリオンは身を乗り出すようにして明りのほうを見つめた。それがどこか嬉しかった。 「あ、階段ですね」 嬉々として言うリオンにカロルはうなずき返す。ちょうど二人が立っている場所の対角線上、同じような足場がある。そしてその隅に上階への階段があった。 「問題はどうやってあそこまで行くか、だな」 カロルは頭を悩ませる。物体を吸い込む以上、魔法で飛んでいくのは論外だ。どこへ落ちるとわかっているならば落ちるのもひとつの手だが、時の終わりまで落下を続けるようでは意味がない。 「提案があります。でも気に入らないだろうなぁ」 「とっとと吐けや」 「うん、でもきっと怒るだろうなぁ」 「言ってみなきゃわかんねェ」 「それもそうですねぇ」 そうリオンはいかにも楽しげに笑った。このような場所で、先が見えないからこそ。そしてカロルは思う。彼はここで諦めてしまっても構わないのだ。それなのに自分についてくると、助けると言ってくれる。カロルの体のどこかが痛んだ。 「早く言えよ、ボケ」 唇を噛みしめて言うカロルの心の動きに、気づかないリオンではなかった。フェリクスを救いたい、早く辿り着きたいとの思い。それがもたらす焦燥だけではない揺らぎを感じてはいる。だがそれがなにに由来するものなのかはさすがにわからなかった。だからリオンは笑って見せる。少しでも彼の気持ちが明るくなるように、と。 「言いますけど。でも、先に約束してください」 「なんだよ」 「怒らないって」 「わかんねェ」 あっさりと言ったカロルに、リオンは演技ではない笑い声を上げた。言われてみればその通り、聞いてみるまでわからないと言うカロルはある意味では誠実だと言えた。 「早く吐けよ、ボケ坊主」 「仕方ないなぁ」 きっと怒るに決まっている。だからリオンは卑怯と知りつつも約束を取りつけようとしたのだ。内心で甘かったか、呟いてリオンは言った。 「あなた、私を信用できますか?」 カロルが何度か瞬きをした。その頬が青く怒りを宿すだろう時間をリオンは静かに待っている。罵声も拳も、甘受するつもりだった。 「なに言ってやがる」 しかしカロルはそう淡々と言って目をそむけただけ。いっそ怒り狂われたほうがまだ楽だった、リオンは思う。そのように言われては、全身で拒絶されたも同然だった。 「で。なにするつもりなんだよ」 カロルが先を促した。目はじっと裂け目を見つめている。リオンなど眼中にないと言いたげに。だが彼の気持ちが自分を向いているのを、リオンはかすかに感じた。 「さっきの階段、覚えてます?」 「幻覚のか? 今じゃねェかよ。忘れるか、ボケ」 「あの要領で向こうまで橋をかけます」 「おいコラ」 「ですが、あなたは渡れませんね」 「だな」 続きを、リオンは言いたくはなかった。だが先があるのをカロルは察してしまった。翠の目が、感情を映さずリオンを見る。 「この魔法で作る物は、現実にあるんです」 「どういう意味だ」 「私がそこに在ると言ったらあるんです。でもあなたは私を信じられない。だからあなたには幻に見えるんです」 「……なるほどな」 どこか詭弁めいてはいたが、魔法の説明などそのようなものだった。実際に体得するより他にない。だからリオンの言葉をカロルは信じる。そして顔を上げた。 「そう、私の言うことくらいは信じてくれるんですよ、あなたはね」 「でもテメェは――」 「信用してないんです。私という人間はね」 カロルの口で言われるよりは自分で言ってしまったほうがまだしも楽だった。リオンは彼の言葉を先取りして口にする。それを苦々しげに舌打ちをしたカロルの目の中、あったものは同じほどに苦い色。 「まぁ、信用できるとも思ってませんけどね」 「おいコラ、どういう意味だ。クソ坊主!」 彼の気持ちを軽くするために言った何気ない言葉だった。だがカロルは激発した。咄嗟に何の対応もできないリオンの胸倉をカロルは掴みあげ、睨みつける。 「カロル」 殴られるものだとばかり思っていた。魔法が飛んできてもおかしくはないとも思っていた。だがカロルはぎりぎりと歯を食いしばって睨むだけ。 そしてリオンは悟った。カロルが何か言葉を取り違えたのだ、と。そして自分の勘違いに気づきながらも沸騰してしまった怒りを収められないのだ、と。 「カロル」 「うっせェ」 「私はあなたの信用を勝ち得るに値する態度を取っていませんよ」 「黙れ、ボケ坊主」 「ではこれだけ。愛してますよ、カロル」 わざと言った言葉。カロルは乗った。歯を食いしばる羽目になったのは今度はリオンのほう。思い切りよく叩きつけられた拳が、鳩尾に決まっていた。呻き声を上げるリオンを、カロルは勝利に勝ち誇るでもなく、詫びるでもなく黙って見下ろしていた。 「で?」 戯言の言い訳くらいは聞いてやろう、そんな態度をカロルが作ったのはそれからしばらくしてからのこと。リオンは腹をさすって苦笑いをしている。 「そんなに怒らなくってもいいじゃないですか」 「そんなんだからテメェが信用できねェって言ってんだ!」 「一理ありますねぇ」 だから信用できないのはカロルのせいではない。言外の意味を持たせれば、はっとしたようカロルが目を伏せた。 |