リオンの反対にもかかわらず、カロルはじっと頭上の上げ蓋を睨んだままだった。何かよい方法を思いつかないかと考えはするのだが、リオンが先行する以上によい方法は浮かばなかった。
「納得しました、カロル?」
 カロルが決心したのを感じ取ったのだろう、そっとリオンが言う。それをじろりと睨みつけてカロルは口を開いた。
「納得させられるかどうかやってみろよ」
 上手に丸め込んで欲しかった。彼が先に行き、自分が待つ。それが嫌でたまらなかった。リオンは単に同行しているだけだ。フェリクスを連れて帰るのは自分の責任、カロルはそう思っている。
「うーん、困りましたねぇ」
「だったら……」
「ちょっと待ってくださいってば」
 性急に言おうとするカロルを苦笑で制しリオンは上を見上げた。ここから見るとずいぶん遠くに見えた。二階分。そうは言っても通常の建物より天井が高いのだろう。暗闇の中を進んでいるとその圧迫感のせいだろう、天井は圧し掛かってくるよう低く思えていた。
「テメェ、どうやってあそこまで行くんだよ」
「そういえば説明してませんでしたねぇ」
「さっさと吐け」
「うん、魔法使うんですよ」
「んなこたァわかってらァ!」
 はぐらかされたようで不快でならないとばかりカロルはリオンを再び睨む。それにリオンはひっそりと笑って見せ、彼の髪に手を伸ばした。
「触んな」
 苛立たしげに首を振って手を払う。いつついたものか乾いた血が金髪にこびりついていた。それを指先で揉み込むようにして落とせばカロルが唇を軽く噛む。礼を言いかねている仕種にリオンは微笑んで天井を見上げた。
「階段をね、作るんです」
「あん?」
「エイシャの神官の特殊魔法と思ってもらえればいいです」
「だったら俺だって」
「まぁ、見ててくださいよ。カロル」
 言いにくそうに言うリオンをそれ以上問い詰めることはできなかった。けれどカロルは内心で階段ならば共に上ればいい、そうすれば分断の危険を冒す必要などなくなる、そうは思っている。
 けれどリオンはエイシャの神官の特殊魔法、そう言った。幻覚と真実を司るエイシャ女神の魔法と言うことは、何か神官以外には不都合があるのかもしれない。
「しょうがねェ、待っててやるよ」
 渋々とうなずいたカロルの耳許にかがみ込み、リオンはすばやく囁く。
「ありがとう」
 拳が飛んでくるより先に離れた。罵り声が響く中、リオンは低い声で詠唱を始める。その声を聞きつけたのだろう、カロルも黙った。
 リオンの声が緩く柔らかく流れる。カロルは思わず聞き耳を立てていた。そのことに気づいては何度か目を瞬く。詠唱する呪文を聞き取りたいと、ただの魔術師の習性だ、そう思おうとするものの自分自身すら納得させられない。
 と、カロルの困惑を破るものが出現した。薄く透き通る階段が、そこにあった。頭上遥か、上げ蓋まできちんと届く階段。だがあまりにも実在感がなさすぎた。
「幻覚、か……?」
 思わず呟いたカロルに向かってリオンがうなずいた。それでカロルは心から理解した。この階段を自分が上ることはできない、と。
「それじゃ、ちょっと待っててくださいね。カロル」
「おう」
「行ってきます」
 まるでちょっとそこまで出かけるとでも言いたげな口調にカロルは苦笑する。階上にはどんな危険があるかわからない、と言うのに。
 そしてはっとした。自分が共に行くことができないこと。それに神経質になっているのをリオンがなだめようとしてくれている。思わず唇を噛みしめたカロルにリオンは困ったような笑みを浮かべハルバードを握りなおした。
 一度ちらりと振り返りリオンが階段を上っていく。カロルの目には何もない場所を踏んでいるようにしか見えなかった。あまりにも幻が淡すぎて、現実とは思えない。少しずつリオンの体が宙を進んでいくのは何か悪夢めいてさえいた。
 けれどリオンの足取りは確かなものだった。信仰、と言うものだろう。彼がエイシャに寄せる崇拝の念が彼にとってははそこに確実な物として階段を出現させる。だからリオン自身に関してだけは、その階段は実在だった。
 程なく上げ蓋に手が届く所まで上り詰める。下から詰めていた息をほっと吐く音がする。リオンは下を見ないようにして微笑んだ。
「嬉しいですねぇ」
 カロルが自分の身を案じてくれる。守られることに非常な不快感を示す彼だけれど、リオンはあまり気にしたことはなかった。カロルに心配され、守られるのは心地良い。もっとも自分の感覚をカロルに押しつける気もなかったが。
 慎重に気配を窺い上げ蓋に手をかける。金属の冷たい感触がした。どうやらなにもいはしないらしい。そのことが反って不安を呼び覚ますけれど、今はとにかくここを脱出することが先だった。
「固いなぁ、もう」
 しっかりと嵌め込まれているのか、それとも錆でも浮いているのか、上げ蓋は少しも動かなかった。少しばかり考えるふりをしたあと、リオンは魔法を紡ぎあげ蓋を外した。強固に動かなかった蓋は、まるでそれが嘘であったかのようあっさりと外れる。
「よし」
 にんまりと笑いリオンは階上へと上り詰めた。背後からカロルの明りが追ってくる。今は姿の見えない彼にリオンは礼代わりの笑みを浮かべる。
「……参ったな」
 その笑みが凍りつき、愕然とした声が漏れた。そしてひとつ首を振り、荷物の中からロープを出しては下ろす。
「カロル、腰に巻いてください。引っ張り上げますから」
 下に向かって叫べば返ってきたのは罵り声。どうやら自分でロープを上る、と言っているらしいのだが反響が酷くて聞き取れなかった。
「巻きましたか?」
 だからリオンはまったく聞こえないふりをして叫び返した。再び罵声が聞こえ、けれど今度はロープが動く。
 しっかり巻いた、との合図だろう。一度強く引っ張られたのを感じリオンはロープを手繰り始める。さすがに重たかった。いかに細身の魔術師とは言え相手は男だ。それほど軽いわけもない。
 徐々に階上にわだかまるロープの量が増え始める。そのころにはリオンの額に薄く汗が浮かんでいた。ようやくカロルの腕が上げ蓋の縁にかかる。突然に軽くなったロープにリオンが体勢を崩しかけたのを、顔を出したばかりのカロルが笑った。
「なにやってやがる」
 それが礼代わり。リオンは残りのロープを手繰り寄せ、完全にカロルを引き上げた。
「意外と重いですねぇ、カロル」
「悪かったな」
「まぁ、か弱い女性ではあるまいし、あんなもんですかね」
 まるで悪いと思ってもいないカロルの口調に合わせるようリオンもまた軽口を叩く。女性扱いを殊の外嫌がるカロルは、そのような言い方をすれば喜ぶことを知っていた。たとえ顔には出さなくともリオンの心には響く。しかしそうして機嫌を取る自分と言うものをリオンはわずかに嫌悪した。
「なに言ってやがんだ、ボケ坊主」
 まじまじとカロルを見てしまった。彼になにがわかったと言うのだろうか。そこには紛れもない言葉以上の呆れ顔があった。
「テメェは宮廷にごろごろしてる阿呆な廷臣か? 媚売ってんじゃねェよ、ボケ」
 そっぽを向いてカロルは言った。その言葉にリオンは胸が締めつけられる思いだった。知らず我と我が胸を掴んで苦しみに堪え、大きく息を吸う。
 カロルはまだ向こうを向いたままだった。リオンは黙って彼の背後に立つ。カロルは動かない。その背を後ろから抱きしめても何も言わなかった。
 カロルの淡い金髪に顔を埋める。それには少しばかり嫌そうに身じろいだ。けれどリオンはそのまま動きはしなかった。
「よせよ」
「ちょっとだけです」
「……風呂入ってねェんだ。あんまりくっつくんじゃねェ」
 その可愛らしい言い振りに、いつしかリオンの顔に生気が戻る。そして彼は自ら知った。どれほど心が萎えていたのかを。
「カロルの匂いがします」
 わざとらしく耳許で囁いた。すぐに来るはずの反発を予測して。自分から腕を離すことはできそうになかった。
「この腐れ外道! 言い方がオッサンくせェんだよ!」
 振り返って殴りつけようと上げた腕をリオンはあっさりと掴み取り、魔術師らしい綺麗な指に軽くくちづける。
「本当にカロルってば可愛い」
 意図的に音を立てて唇を離す。さっとカロルの顔が紅潮した。照れたというよりはむしろ怒りだろう。それでよかった。安心してリオンは彼の手を離す。激発したあまりに威力の半減した拳が肩の辺りを殴ったのなど、気にも留めなかった。
「オッサンってねぇ、カロル」
「なんだよ、オッサンじゃねェかよ、あん?」
「私がオッサンならあなただってそうでしょ」
「年はな。でもテメェは態度がオッサンくせェ」
 あまりにもきっぱりと言われてしまってリオンは返す言葉がなかった。確かに年齢よりは年寄りじみていると言われたことは多々あれど、そのような言い方で断言されたことはない。
「そんなにオッサンかなぁ」
 思わずぼやいたリオンにカロルは、そういうところが爺臭いと笑う。それにいっそう情けない顔をするリオンだった。
「そもそもテメェは態度がやらしいんだよ。だからオッサン」
 鼻で笑ってカロルは言った。が、少しばかり顔が強張ってはいなかっただろうか。リオンは表情を変えないまま神官の目に切り替える。彼の本質である燃え盛る炎は苦い色に翳っていた。
「やらしいですかねぇ、私」
「おうよ」
「あんまりあなたが好きなんで、見境なくなっちゃったみたいです」
 カロルは気づかなかっただろう。リオンの言葉が彼の反応を見るために作られた物だとは。一瞬のうちにカロルは血の気を失い、手には青い炎を持っていた。
「二度と言うんじゃねェ」
 首筋にあたる冷たい剣の感触を感じながらリオンはうなずく。睨むというよりは苦悩する目をしたカロルがそこにいる。静かに剣を退けさせても何も言わない。
「二度と言いません。約束します」
 溶けるよう剣が消えた。そのことにカロルが驚いた顔をしたところを見れば彼の意思ではなかったらしい。無論リオンはなにもしていなかった。剣のなくなった手を両手で挟む。包み込んで冷たい手を温めた。




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