覚醒は、快適なものとは言えなかった。横たわっていてさえ激しい眩暈がしている。カロルは呻き半身を起こしかけ、そしてまだリオンの手を握っていたことに気づいた。
 ぎょっとして身をすくめそうになる。なにも感じたくない。もしそれが冷え切っていたならば。だが目覚めた体はすぐさまそれを察知した。温かい彼の手。
 深い吐息。カロルの唇からはそれだけしか漏れなかった。例えようもない安堵のせいでただでさえ力の抜けた体は起こすこともできなかった。
「気がつきました?」
 はっとして声のしたほうを見る。リオンが微笑んでいた。まだ彼も仰向けに横たわったままだった。乱暴に拭ったのだろう、口許に血の跡がある。
「テメェ……」
 なにを言うつもりだったのだろうか、カロル自身にもわからなかった。込み上げてくるものを抑えかね、黙って呼吸するよりなかった。
 その鼻先に漂う穏やかで優しい香り。思わずまじまじとリオンを見た。まだ魔法を使えるほど回復しているとは思いがたい。頭に血が上りそうになる。
「カロル、怒らないで」
「テメェ!」
「回復の香です。時間はかかるけど、それほど力を使わなくて済みますから」
 リオンの傍ら、銀珠が転がっている。そこから立ち上る淡い煙が彼の作り出したものだと知らせている。
「回復の香?」
「はい。時間のかかる治癒魔法と思ってもらえれば」
「なるほどな」
 うなずきかけ、頬が床にあたった。石の床は冷たくはない。どれほど長い時間倒れていたのだろう。体温ですっかり温まっていた。
「体調は」
 ぼそり、問いかける。この体勢では目をそらすことくらいしかできなかった。リオンの顔など見たくはないというのに。
「万全には程遠いですが、とりあえず生きてはいますよ」
「んなこたァ見りゃわかんだよ!」
「それもそうですねぇ」
 言ってリオンは笑い、次いで咳き込む。嫌な咳だった。何かが絡まったような湿った音。苦しげに喘ぐ彼を抱きすくめるようにして動かす。たったそれだけの動作がカロルの体を苦痛に苛む。けれど横向きになったリオンの呼吸が少し楽になった。
「ありがとう……」
「喋んな」
 こくりとうなずく。そして激しく咳き込んでリオンは血を吐いた。赤いものが床に広がる。カロルの背筋が冷えた。
「カロル」
 答えず口許を拭ってやる。カロルにしては優しい手つきだった。それでも血の跡がはっきりと残る。乾ききっていないそれが以前のものとまじり合い、赤茶けた色になる。カロルは唇を噛みしめた。先程見たものも、同じ色をしていた。自分が覚醒するより前に目覚めたのだろうリオンは何度そうして血を吐いたのだろう。
「腹の中に傷があるらしいです」
「おいコラ」
「でも大丈夫ですよ」
「どこがだよ!」
 そんな顔をしないで欲しかった。そんな優しい顔をしないで欲しかった。まるで遠くに行きかけているようなリオンの顔。
「傷は塞がってるんです。今は残った血を吐いている所だから」
 あっさりと言うリオンの言葉を信じられたらどれほどよかっただろう。その言葉を信じるには、あまりにも彼は近しすぎた。
「ボケたこと言ってんじゃねェよ、腐れ神官」
 覇気のないカロルの声にリオンが目を伏せる。自分の体調くらい、リオンにはわかっていた。嘘はついていない。
 あれほど自分を信じない、と全身で拒絶するカロルが、いまの言葉だけは信じたくないと普段とは同じでありながら裏腹な態度で語る。皮肉だった。
「あなたはどうなんです?」
「なにがだよ」
「体、つらいでしょうに。まだお礼も言ってませんでしたね」
「うっせェ」
「ありがとう、カロル」
 途端にそらされた目。翠の目がわずかに揺れていた気がする。リオンはまだ取られたままの手をそっと握り返しカロルを見つめていた。
 カロルはそれからずいぶんと黙ったままだった。何度か血を吐くリオンの手助けはする。だが言葉はない。
 彼が心を痛めていることなど、エイシャの神官でなくともわかりきったことだった。リオンは彼にあわせるよう無言でカロルを見つめ続ける。カロルもそれまで拒みはしなかった。
 傷が塞がっていく喜びより、リオンの心を温めたもの。カロルが癒してくれたと言う事実。不安定な真言葉魔法による治癒を行ってくれた。失敗すればリオンのみならずカロルの命もなかっただろう。それをリオンは知識として知っていた。
 どのような理由でもいい。少しでも失いたくないと彼が思ってくれたこと。彼自身の命をかけて救ってくれた。それが何よりリオンに喜びをもたらす。
 体内に、カロルの命が息づいている。魔術師の行使する魔法に詳しいわけではなかったが、少なくとも神聖魔法とは違う魔法の感覚が体の中にある。
 カロルの命そのものと言っていい燃え盛る炎にも似た生命力。リオンが何よりも美しいと感じる彼の本質。それが自らの体にある。そして癒しつつある。
 リオンは内心でそっと微笑んだ。決して誰にも言えはしない。エイシャの神官の特殊魔法である香よりも、リオンの体を温め回復させているのはカロルの炎だった。
「それ」
「はい?」
 カロルの掠れ声がした。ようやく搾り出したような彼の声にリオンは一瞬、戸惑う。そのことに苛立ったようカロルが手を振った。そして指差したのは銀珠。
「あぁ……これがどうかしました?」
 いまだ転がしたままの銀珠の鎖に指を絡めて持ち上げれば薄い煙がたなびいた。
「エイシャの神官は、同じなのか?」
 わかりにくい言葉だった。普段のリオンであったならば笑ってあえて尋ね返しただろう。だがリオンはそうはせずうっとりと微笑む。
「みな違いますよ。香りは自分で作り出すものですから。あなたの炎のようなものですね」
「ふうん」
「気に入りました?」
 冗談のようわざとらしくリオンは問う。途端にかっと頬に血を上らせたカロル。だからどれほど罵倒されてもリオンは気になどならなかった。
「少し、良くなったみたいですね」
 罵詈雑言が一段落した所を見計らって言えば、まだ続けるつもりであったらしいカロルが目を見開いた。そして皮肉に唇を尖らせる。
「それは俺の台詞だ」
「うーん、でもあなたも酷い顔してましたからねぇ」
「テメェのせいだろ」
「返す言葉もありませんね」
 至極簡単に言われてしまったカロルは言葉を失う。リオンのせいだとは思っていない。だが認められると罵りにくい。ちらりと見た彼はにたりと笑っていた。
「けっ」
 こんな単純な策略に嵌ってしまった。だが決して悪い気分ではなかった。リオンが笑った。先程のように消えていきそうに透明な笑みではなく、多少の無理はしているのだろうけれど健全な表情。そのことがどうしてこれほどの安堵を呼ぶのだろう。
「偽善だとしか思えねェな」
 言ってからカロルは臍を噛む。不思議そうな顔をしてリオンはこちらを見ていたけれど、だが彼にはなにを言おうとしたかわかっているはずだった。
「なんのことでしょうねぇ」
「うっせェ、ボケ」
「言ってください、カロル。気になって怪我が悪化しそうです、私」
「ふざけんじゃねェ!」
 よくもそんなことを言う、とカロルはリオンを睨みつけ、今になってようやく握りあった手に気づく。いまさら振りほどくのもおかしかった。
「それで、カロル? 私の香りがそんなに偽善めいていますか?」
「わかってんじゃねェかよ!」
「だってあなたの顔に書いてあるから」
 忍び笑いを漏らせば咳き込んだ。カロルの顔色が変わる。だがもう血を吐きはしない。カロルの体から力が抜けるのが見て取れる。
「炎が俺の本質だって言うんならよ、テメェの香はテメェの本質か?」
「まぁ、そのようなものでしょうねぇ」
「どこがだよ、あん?」
 鼻で笑ってカロルはそっぽを向いた。横になったままでするものだからどこか子供が拗ねているようでたまらなく可愛らしかった。
「その前にひとつ聞きますが。私の香をどんな風に感じてるんです?」
「うっせェ!」
「言って欲しいなぁ」
 にたりと笑うリオンにカロルは言葉もなかった。このような状況に相応しい罵倒語など、思いつけもしない。
「どんな風に偽善的だと?」
 どうしても聞きたかったリオンはカロルが少しでも言い易いように、と言葉を変えた。それに気づいたのだろうカロルが不満そうな顔をする。
「……優しい匂いがする」
 だが結局カロルはそう言った。ぽつりと呟くように。リオンは黙って彼の手を握り、ようやくもう一方の手も持ち上げて両手で包み込む。
「うん、それは確かに偽善的ですねぇ」
「自分で言うか、普通!」
「そんなに優しくないです、私」
 けれどその手は優しかった。温かく乾いた手をしている。自分の手を包み込む戦士のような神官にあるまじき手。カロルは拒みもせずじっとされるままになっていた。
「うーん、不思議だなぁ」
 何かに首をかしげ、リオンが片手を離した。急に寒さを感じカロルはいぶかしむ。抱きあっているわけでもないのに、この寒さはなんだと言うのか。まるで抱擁を解かれたようだった。
「なにがだよ」
「香りですけどね、そんな風に言われたことないんです」
 銀珠を持ち上げ、考え込むよう首をひねっている。深い記憶を呼び起こしてでもいるような顔だった。知らずカロルの表情が険を帯びる。
「……誰にだよ?」
「あ、やだなぁ。別に過去の誰かとかではなくってですね……そんなに妬かれるとどうにかなっちゃいそうです、私」
「とっとと果てろ、この腐れ外道が!」
 振りほどいた手、さらに寒くなった。そのことを見越していたよう再びリオンが手を握る。思わずほっとしそうになるのをカロルはこらえた。




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