階段の頂上でリオンが足を止めた。何か不安があるのだろうか、とカロルは訝しげに辺りを見回す。明かりを飛ばして確認すれば、そこは細長くも広い空間だった。 「なんか広くねェか?」 ぼそりと、リオンに聞かせるつもりではない声だった。まるで彼の不安が移ってしまったよう、カロルの背筋に冷たいものが走る。 「カロル」 緊張を隠し切れずリオンが振り返る。妙に強張った表情にカロルは目を見開いた。 「なんて顔してやがる」 「そんな酷い顔してますか?」 「すげェ変」 無理に笑って見せたリオンをカロルは笑い飛ばす。それは先程のリオンの態度のようだった。そのことに気づいたのだろう、リオンがそっと肩の力を抜く。 「六階のこと、覚えてます?」 「あん?」 「ほら、毒矢を受けた後。あなたを担いで運んだでしょ」 嫌なことを思い出させる、とカロルは渋面を作りうなずく。あまりにもあからさまに嫌がって見せるカロルにリオンは微笑む。 「あのとき水牢の部屋も入れればあそこは四つ部屋がありましたよね」 「おう」 「位置がおかしいんです」 「あん?」 「この下、七階もそうでした」 「どういうことだよ」 リオンが指差した先が見えるとでも言うようカロルは視線を床に向ける。なぜかぞっとした。どこかで激しい警告の鐘が鳴っているような気がしてならない。不安の源がわからないことがなお不安をあおった。 「あちら側」 そう言って今度は部屋の北側を指す。七階の階段は、壁際にあった。だかこの階の階段は部屋の中央部。ならば七階で見落としていた部屋があったのだろうか。カロルは唇を噛みしめる。 「七階で見つけられる扉は全部見つけました。ですが、六階のことも考え合わせると――」 リオンの言葉はそこで止まった。はっとして右手奥を見やる。南側の壁で音がしていた。 「おいコラ、クソ坊主」 「黙って」 「おい」 緊迫感が募る。リオンは今までに違和感に気づいていたらしい。それがカロルを苛立たせた。なぜ、自分に言わないのか。沈黙を通されたことが不信を掻き立てる。あるいはそれが階下で彼が何か悟ったことなのだろうか。彼の判断を信用したはずなのに、悔やまれてならなかった。 「やられた――!」 愕然としたリオンの声。慌ててカロルは彼の視線の先を見ようとし、けれどリオンに腕を掴まれ果たせない。思わず振りほどこうとした腕はきつく握りしめられ痛いほどだった。 「クソボケ!」 「あとで! 走って!」 「どこへだよ!」 「あっちにしか行きようがないでしょ!」 切羽詰った声にカロルの動悸が速まった。このような彼の声を聞くのは嫌だった。なにが起こっているのかわからないのはもっと嫌だった。 「カロル!」 まだぐずぐずとしているカロルの腕を強く引く。よろめくよう走り出した。南の壁から聞こえてくる音は今は確実に耳に届くようになっている。決して空耳ではなかった。そうであればどれほどよかったか、リオンは己の迂闊さに唇を噛んだ。 「おい!」 ごとり、重たい音が響いた。カロルは振り返り、あるはずのないものを見た。 「走れと言っている!」 リオンの口調が変わる。それほどまでの焦燥に駆られているのだとカロルは知る。命令された不快さよりも先に足が動いた。 二人の背後から、石が迫っていた。ただの石ではない、巨石だった。大きく削りだされた岩が、部屋いっぱいに転がってきている。侵入者を、押し潰しすり潰そうと。 「どうすんだよ!」 「とにかく――」 「走って向こうで潰されんのか?」 あえて無策を皮肉ったわけではなかった。だが北の壁に追い詰められては意味がない。カロルは走りながら明かりを飛ばす。 闇に頼りなくふわふわと明りが飛ぶ。なにもない。壁だけ。扉はない。壁に見つけた嫌な染み。侵入者の、成れの果て。ぞっとする間もなく岩が迫り来る。気づかぬうちに傾斜がついていたものか、岩は止まることなく転がる。次第に速度を増しながら。 「止まれ」 「カロル!」 「うっせェ」 明りが見つけた。床の裂け目。扉がないならばここから脱出するまで。カロルの唇が歪む。 「下、行け!」 いまだ掴まれたままだったリオンの腕を払い落とし裂け目を指す。リオンがようやく気づいたよう視線を落とした。 だが、遅すぎた。止まっては、いけなかった。岩は二人の背中に追いついていた。轟音を立てながら。 「カロル!」 はっとしてリオンが振り向くのと、カロルを突き落とすのが同時だった。咄嗟に防御もできなかったカロルは為す術もなく落ちていく。その体が淡く輝いた。リオンの魔法。 「ボケ!」 落下しながら叫ぶ。彼の体は落ちてはこなかった。ついに衝撃。床に叩きつけられたカロルはしばしの間息もできずにうずくまる。 ぜいぜいと荒い息を吐き、呼吸を整える。辺りを見回すまでもない、リオンが不安がっていた六階に落ちたのだろう。落ちた距離もその程度だった。 そのとき嫌な音がした。ごとりと巨石が何かにはまり込む音。はまり込むど所など一つしかない。あの裂け目。 「ボケ坊主!」 カロルの顔が青ざめる。よもや、リオンは。勢いのついていた岩ははまった場所を乗り越え突き進む。北の壁へと。そして激突の凄まじい音が聞こえたのは程なくのことだった。 カロルは愕然と立ち上がる。体が揺らいだ。思ったよりずっと痛みはない。リオンがあの瞬間にかけた魔法が功を奏しているのだろう。 「あのボケ……」 呟き声はいまだかつて口にしたことがないほど頼りなかった。ぎゅっと拳を握り締める。一人きり、闇の中だった。明りを灯す気にもなれない。なにも見たくなかった。明りがあれば、今ここに一人きりなのが嫌でも見えてしまう。 「馬鹿か、ボケ坊主」 握り締めた拳が開かなかった。なぜ自分を助けたりするのか。それで死んでしまっては、なんの意味もないではないか。けれどカロルは思う。もしも自分が彼だったならば、同じことをしたかもしれないと。今になっては無駄な思いだった。 「一人、か」 ぽつりと呟いた。思ったよりそれは弱々しく響き自嘲の思いを強くさせる。浮いてしまった額の汗を拭いたくて手を上げる。まだ拳は開かなかった。 「生きてます……」 声が、聞こえた。幻聴だろう、カロルは思う。信じたくなかった。だがその耳に確かに聞こえた呻き声。傷に苦しんでいるらしいリオンの。 「おいボケ!」 慌てて明りを灯す。裂け目の真下、リオンが倒れ伏していた。口から血を流したままかすかに笑った。すぐ側にいたのだ、カロルは愕然とした。落下したとき、カロルは多少飛ばされて転がったらしい。だが遠く離れているわけではなかった。それなのに気づかなかった。 「生きてますよ、カロル」 全身の力が抜けてしまったとでも言いたげに座り込んだカロルに向かってリオンは手を伸ばす。意図したほど手は上がらなかった。 その手がそっと掴まれた。何度か見えにくい目を瞬けば、カロルが手を取っている。思わず微笑めば呼吸が乱れ咳き込む。咳には血が混じっていた。 「信用、しろよ」 いつかどこかで言われた記憶のある言葉。リオンはほぼ無意識にうなずく。なにをしようと言うのかわからなかった。 カロルは彼の手を取ったままゆっくりと目を閉じる。そして自分の手の震えに気づいた。手だけではなかった。体中が小刻みに震えている。恐怖と安堵に。 リオンの手を取ろうとした途端に開いた拳を意識する。次第に冷たくなっていく彼の手を意識する。乱れがちだったカロルの呼吸がぴたりと鎮まった。 薄闇の中、カロルの言葉ならぬ言葉だけがわずか響く。リオンの耳にそれが真言葉だと聞こえただろうか。そうわかるほど彼の意識は明確だっただろうか。 青ざめたままカロルは詠唱を続けた。リオン自身が傷を治せる状態ではない。ならば誰がするのか。カロルしかいない。だが鍵語魔法に治癒の呪文はなかった。 カロルのした決心。それは不安定な真言葉魔法による治癒。いかに真言葉を操ることができるカロルとは言え、元々真言葉による治癒は神聖魔法のそれより不安定だった。一瞬でも制御を誤れば、リオンの命は消し飛ぶだろう。そして間違いなく自分自身も。 成功してもどこまで治せるかわからない。まして相手は神官。特定の神に仕える者は他の治癒を拒むものと言う。伝説の類かもしれないが、今のカロルに取れる手段はそれだけだった。 成功を祈ることしかできない。今ほど信仰がないことを悔やんだことはなかった。リオンの目がじっと信頼をたたえて自分を見つめているのを感じている。失敗しても恨みはしない、そう言ってでもいるようで耐え難かった。 カロルの体内に高まっていく魔法。全身から満ち溢れそうになるそれを練り上げる。生命力へと変えていく。それは自分自身の命を注ぐ行為にも似ている。 繋ぎ合わせた手から、カロルの命が流れ込む。握った手の仄かな温かさが、突如として激しい熱に変わったのを感じたリオンの体が跳ね上がる。 カロルは唇を噛みしめ、けれど手は離さなかった。今ここで中断することはできない。ここで手を離してしまえば、リオンを待っているのは確実な死。 彼の唇が漏らす呻きが途絶えた。傷を癒しているとは思えない苦痛に身を焼かれ、声さえ上がらなくなっていた。 振りほどこうとするリオンの手をカロルは握りしめる。両手で包んで離さない。今のリオンは何を見ているのだろうか、なぜかそんな取り留めもない考えばかりが浮かぶ。結果を見たくないのかもしれない。 あの炎を見ているのだろうか。カロルの本質だと言った炎を。そうであればいいと心から願う。リオンは慰められる、そう言った。ならばいまこそそれは必要であるはずだった。 「生きろよ、ボケ」 高まった魔力はすべて流し尽くした。リオンに削れるだけの命は移した。限界まで流し込んでしまった生命に、カロルの目の前が暗くなる。まだ、意識を失うわけにはいかない。最後の力をかき集め、カロルは結界を張る。そして彼の意識は途絶えた。 |