リオンが静かに呼吸を整える。向こう側の気配を探っているのだろう、耳を澄ませるような仕種の後、彼は一息に扉を開けた。 カロルは息を飲む。はっとする間もなかった。扉の向こう側で待ち構えていた敵兵を、リオンはハルバードの一閃で切り飛ばしていた。竜牙兵がなにをする間もない。 知らず詰めていた息を吐く。まるでそれにあわせるよう、首のなくなった敵兵がぐらりと床に崩れ落ちた。噴出した血がとろとろと床に流れる。 「行きましょうか」 ゆるり、薄く笑みを浮かべたリオンが振り返った。返り血一つ浴びていない。ひっそりと血の中に立つ彼にカロルは胸のざわめきを抑えきれなかった。 「おう」 わずかにためらい、答えを返す。それにリオンは小首をかしげ、黙って部屋の奥へと向かった。 案の定、そこは細長い部屋だった。カロルの明りが部屋をくまなく探索し、それを二人に知らせる。この階のどの部屋とも同じよう、湿ったように見えて実態は違うが不潔であることに変わりはない壁をしている。 リオンはじっと目を凝らし、精神を研ぎ澄ます。確かに長い部屋だった。だが違和感がある。もう一度部屋の奥を確認し、そして内心でうなずいた。 奥行きが浅すぎた。エイシャの神官の感覚は、まだ向こうに部屋があると知らせている。最低限、この部屋と同じ程度の空間が突き当たりの向こうにあるはずだった。 だが、壁にはなにもない。扉が隠されている様子もなかった。そのことは覚えていたほうが良いだろう、と記憶に刻みつける。 「どうした?」 黙り込んだままのリオンをカロルは不審げに見やる。まさか敵兵のことを気にかけているわけでもないはずだった。どこまでも優しい男かと思いきや、自らに敵対する者に対して彼は容赦の欠片も見せない。 「あ。ちょっとぼんやりしちゃいました」 リオンはまだ自分の感じたものを彼に言うつもりはなかった。このような場所で確実ではないことに不安を感じさせたくはない。 「あん?」 カロルはリオンが何かを誤魔化したことに気づいた。一瞬の半分ほど、頭に血が上りかける。だがカロルはそれを抑えた。 「なにボケたこと言ってやがる、クソ坊主」 自分が悟ったことなど、リオンはすぐさま感じ取るだろう。だが互いに隠し事に気づいているならばそれはそれでいいのかもしれない。リオンが知らせるべきではない、あるいはまだ知らせてはならないと思うならば彼の判断を信用する。リオンと言う男を信用することはまだできそうになかったけれど、彼の判断は信用できる、カロルはそう思い定めた。 「まったくですねぇ」 そんなカロルをリオンは見やり、にっこりと笑う。それでその話は終わりになった。二人はゆっくりと周囲を確認し、そして足を進める。 「なんか気色わりィな」 何かが待ち受けている、そんな気がしてならなかった。危険を感じる。おそらくはリオンも同じだろう。 「えぇ、まったく」 うなずいた手がハルバードをしっかりと握りなおすのをカロルは見た。そのことが彼に緊張をもたらした。 「カロル。ちょっとお願いがあるんです」 「言うだけ言え」 「では遠慮なく」 わざとらしい言い振りにカロルは笑った。そもそもリオンが遠慮したことなど一度でもあったのだろうか。そんなことを思いながら。 「竜牙兵、片付けてもらえませんか」 「あん?」 「なんだか不安なんです」 「だったら手数があったほうがよくねェか?」 「この階のよう魔獣がいっぱいとかだったらいいんですけどね、そのほうが」 「気配が散ってやりにくいか?」 「はい」 リオンが莞爾とした。完全な魔法生物である竜牙兵が側にいるおかげで、他の魔法の気配が捉えにくい。そのことをリオンは若干、不安に思っていた。それを少ない言葉で理解してくれたカロルが嬉しかった。もっとも、魔術師である。カロルのほうがそれに関しては本職なのだから当然と言えば当然だろう。 「面倒くせェなぁ」 ひとつぼやいて見せ、カロルは手を振った。途端に竜牙兵が蕩けるように崩れる。そこにいたのが幻ででもあったようだった。 「あ」 するりと手の中に戻ってきた竜牙兵、今は竜の牙に戻ったそれにカロルは目を走らせ声を上げた。 「どうしました?」 あまりにも愕然とした声で案ぜられる。なにかとてつもない不都合でも起こった気になってしまう。あるいはカロルには竜牙兵があったほうがよかったのだろうか。 「傷……」 今にも泣き出しそうな、といえばきっとカロルは怒るのだろう。だがリオンにはそのように見えた。唇を噛みしめて竜の牙を見ている。 「傷、ですか?」 「もったいねェ……」 「それは」 言うべき言葉を探してリオンは言葉を切る。だが見つかるはずもなかった。カロルはじっと掌に目を落としたままだった。どうやら酷使しすぎて牙に傷が入ったらしい。それがどうしようもなくカロルを落胆させたようだった。 「うーん、カロル。また今度見つけてあげますから」 「どこでだよ」 「ドラゴンがいたら取ってあげますよ」 「いなかったらどうすんだよ」 「一緒に捜しに行くというのはいかがでしょ?」 冗談口を叩けば、それでもカロルの顔が明るくなる。これでは本気で竜退治に連れ出されそうだった。だがそれはそれで悪くはない、とリオンは内心で喜ぶ。 「絶対だな?」 「約束しますよ、カロル」 「けっ」 あからさまに信じがたい、そんな顔をしつつカロルはわずかに嬉しげだった。その顔を見られただけで充分、そうリオンは唇を緩め彼を見つめる。 「ほんと可愛い、カロル」 カロルに聞かせるつもりではなかった呟き声に彼がはっとしたよう反応する。そして思う様上げた罵り声だったが、どこかとってつけたような罵詈雑言になってしまったのは否めなかった。 階段は部屋の奥、北側にあった。壁とは違ってこちらは本当に湿った階段は滑りやすそうで危ぶまれる。そのことにリオンが注意を促しカロルが答えの代わりに罵声を飛ばす。 「ほんとカロルってば」 「まだ罵られ足りねェか、あん?」 「可愛いなぁ、そういうところ」 「けっ、腐れ神官が」 「そういうとこも素敵」 「いい加減にしろや、ボケ」 呆れ半分にカロルは言い、リオンの肩を小突いた。それがまるでじゃれてでもいるようで、リオンが笑うより先にカロルは目をそらす。耳が仄かに赤らんでいた。 「さ、行きますか」 そんな彼を微笑ましげに見やりリオンは背を返す。なにが待ち受けているかわからない。階段で襲われることだけは、避けたいと思う。 「ちょっと待て」 「カロル?」 「待てって言ってんだろ、ボケ」 言い捨ててカロルが身をひるがえした。なにをするつもりかと目を瞬く間に彼は戻ってくる。 「ずるい、カロル」 「あん?」 訝しげなというよりもむしろ嫌そうな顔をして苦情を聞くカロルに向かって、リオンはあからさまに体をかがめた。 「あなたの魔法、見たかったのに」 遠くてわずかしか見えなかった。カロルが危険を排除するため、扉を封印してきたその鮮やかな輝き。闇の中、それはリオンにとって希望のように見える。 「なに言ってやがる、ボケ」 あえて耳許で言われた言葉にカロルはふっと唇を緩めた。この姿勢では彼には見えない、そう思ったのかもしれない。 「とっても綺麗なのに」 「見飽きるほど見ただろうがよ」 「全然足りません」 妙にきっぱり言うリオンの声にカロルは笑い声を上げた。そして不意に思う。もしかしたらリオンはそうやって笑わせることで精神の疲労を軽くさせようとしているのかもしれない、と。 「行くぞ、ボケ」 そのことをありがたいと思う。魔術師にとって精神の疲労は何よりの強敵だ。だが胸が温まってしまう。それだけは知りたくない。カロルはぐっと唇を噛み平静を保つ。 「はい、行きましょう」 そんなカロルに気づいたリオンは何食わぬ顔をして彼の前に立った。カロルが今は見たくないものならば、いつか彼自身が自分の意思として眼前に見据えるまで待とうとばかりに。 静かに階段を上がった。緊張を解くことはできない。今は二人きりに戻った。竜牙兵の助けはない。そのことにカロルは多少の不安を感じてはいる。確実に戦力の低下のはずなのだ。 だがしかしリオンはそのほうがよいと言う。彼の感覚が惑わされるのだけは避けなければならない。それはカロルも認めた。けれど緊張は高まるばかりだった。 「カロル」 それをリオンが感じ取ったのだろう。かけてきた声が不愉快だ。今は前に集中していたい。 「なんだよ」 不機嫌な声を出し、それを知らせようとすれば彼の肩がすくめられる。思わずカロルはじっと見つめていた。 「そんなに力入れてると疲れますよ」 口に出されるまでもない、リオンは今それを態度で示した。緩やかに握っているハルバード。カロルはその手を見ているだけで知らず安堵している自分自身を見たくなくて目をそらす。けれど自らの心からは目をそらせはしない。 「わかってるよ、ボケ」 「まぁ、あなたに言ったんじゃないんですけどね」 「あん?」 「言い聞かせてないと不安なんです、私が」 そうリオンが笑った。どう考えても嘘だった。カロルの負担が軽くなるよう、そんな露骨な嘘に心慰められている自分がカロルはどうしても信じられなかった。 他者を信じられないのは今にはじまったことではない。メロールやアルディアを信用するまでにどれほどの時間がかかったことか。この上、自分自身まで信じられなくなってしまってはどうしたものか、そうカロルはわずかに伏せた目で自嘲していた。 |