いい加減、嫌になってくる。エイシャの神官は場所が移動していることを感覚で掴めたのだろうけれど、カロルは違う。惑わされて不快だった。そしてカロルははたと息を吸う。
「おいボケ」
「はい?」
「これ全部入る必要があんのかよ?」
 いまさらながら気づいた。なにもすべてに入って敵を殺す必要はないような気がする。心躍ることではなかったし、何より体力の無駄だ。
「そうは言いますけどねぇ」
「なんだよ?」
「階段。どこにあるのかわかんないので仕方ないです」
 そうリオンが溜息をついた。カロルは目を瞬き、そしてリオンに続く。戦いに倦んだわけではなかったが、まだ最低でもあと三つの部屋がある。
「行くか」
「そうしましょうか」
 互いに肩を落として進むのは危険だった。だが士気が落ちているのもまた確か。ぐっとカロルは唇を噛み、リオンの背中を殴りつける。
「痛いなぁ」
 ぼんやりとした苦情。カロルはにんまりと笑う。それにリオンが苦笑し、大きく息を吸った。
「行きましょう」
 空元気だと、わかってはいた。だが戦いはまだ続く。こんな所で倒れるわけにはいかなかった。

 カロルが憤然と声を荒らげた。リオンに向かってではなく、壁に向かって罵詈雑言の限りを尽くす。それをリオンはなだめるでもなくむしろ同調するよううなずいている。
「いったいなんだってんだよ、ここはよ!」
 そう言ったのは、あらかた罵倒語が無くなりそうになった頃のことだった。カロルの声はいささか嗄れはじめている。
「まったくですねぇ」
 リオンもげっそりとした顔をしてうなずいた。それは罵声に疲れたせいではなく、この場所のせい。
「蠍に熊に、鼠に鳥! 山羊と獅子にドラゴンつきの化けもん!」
「アンドロ・スコーピオンとワーベア。ジャイアント・ラットとハーピーにキマイラです」
「うっせェ! ここは動物園かってェの!」
「うーん、それは言いえて妙ですねぇ」
「感心してる場合かよ、ッたくよ」
「まぁ、とりあえずなんとかなりましたし」
「面倒くせェんだよ、わかってんのかテメェ」
 カロルが腹立ち紛れリオンの腹を殴りつける。痛そうに呻いて見せるのは思いやりと言うものだろうか。
 二人はその後すべての部屋を制覇していた。すべてが魔獣の類で、カロルの言葉はあながち間違ってもいなかった。
 溜息まじりリオンが肩をすくめる。傷は負っていなかった。獣の形をした魔物は、その姿形からは想像しにくいほど侮りがたい。ワーベアのよう、呪いを染すものもあればジャイアント・ラットのよう病気を感染させるものもある。
 そしてなにより獣の特性を持っていた。人間には対応しかねるほどの速度を持った攻撃。あるいは重い一撃が二人を襲った。が、すべてを撃退したのはやはり、彼らの技量と言うものだろうか。それにしても神官と魔術師だけだとはとても思えない二人だった。竜牙兵と言う魔法生物の助けを得ているとは言え。
「いい加減、面倒になってきましたよ、私も」
 まだ喚き散らすカロルをこのあたりでなだめないと余計な手間が増えそうだ、と気づいたリオンは呟くよう言い彼の肩に手をかけた。
「だろ?」
「えぇ」
「だったら」
「魔法で吹っ飛ばすのはなしです」
「ちっ」
 あからさまな舌打ちをして、けれどカロルはにやりと笑った。ずいぶん機嫌はよくなったらしい。そのことにリオンはほっとし、辺りを見回す。通路に敵が出てこないのは幸いだった。小部屋から小部屋を巡る間に相当数の敵を撃破していたから、あるいはこの階の敵兵は尽きてしまったのかもしれない。
 二人は今、七階の北の端にいる。ちょうど階段のあった部屋の西隣で、ぐるりと回っただけだと思えば体に疲労が澱のよう、たまりそうな気分だ。
「行きますよ、カロル」
 リオンはハルバードを構えなおす。魔法の明りにきらりと輝いたそれは血の汚れなどひとかけらも残っていなかった。竜牙兵もまた、血飛沫をさんざん浴びたはずなのに美しい白を保っている。
「おう」
 多少、カロルの足取りが疲れているのが気にかかる。無理はさせていないはずではあったが、それでも連戦だった。魔術師にしては体力があるほうであるカロルにとってもこれだけの戦いはつらいものかもしれない。
「カロル」
「うっせェ」
「人の話は聞いてくださいってば」
「うるせェよ、ボケ。テメェの言いたいことはわかってるってーの」
「おや、そうですか?」
 疑わしそうな口調を作ってリオンは問う。どこまでわかっているのか確かめたい、そんな気持ちになっていた。
「……疲れてねェし、まだいける。大丈夫だよ」
 ぼそりと呟かれた言葉。リオンに聞かせるためでしかないのに、けれど独り言めいた声音。それがリオンの胸をぎゅっと掴んだ。
「カロル」
「うっせェって」
「好きですよ、あなたが」
「うるせェ」
「どうしてこんなにあなたが好きなんだろう、私」
「知るか、ボケ!」
 背中に与えられた打撃にリオンは息を詰まらせる。思わず咳き込んだけれど、リオンの頬は緩んでいた。
 思いのほか、彼が自分のことを理解してくれている。それがこんなにも嬉しい。あるいは彼ら師弟の間に入り込むなど無理な望みなのかもしれないと思いだしていたリオンには、例えようもない歓喜だった。
「カロル」
「前向け、前!」
 立ち止まって振り返った途端、無理やりに顔を掴まれた。歪んだ顔を笑いにも歪ませてリオンはかがみこむ。そっとカロルの耳許に囁いた。
「好きです、あなたが」
 当然のよう、返答はなく返ってきたのは腹への拳。それさえも今のリオンには痛みすら与えなかった。
「大丈夫なのは理解しました。でももうちょっと行ったら休憩しましょうね、カロル」
「やだ」
「はい?」
 珍しい口調に思わず問い直し、そしてカロルの顔を覗き込む。はっとしたよう彼が目をそらしたのは、彼自身、自分の口調のおかしさに気づいたせいだろう。
「テメェ……!」
 言い様、炎の剣がリオンの頬に当てられた。いったいいつ出現したものか、見当もつかない速さだった。
「ちょっと待って、カロル! まだなにもしてないです、私」
「まだって言っただろうか!」
「せめてしてから怒ってください」
「絶対に嫌だ!」
 鼻を鳴らしてカロルが剣を収める。リオンは内心で物騒な照れ隠しもあったものだと密やかに笑った。そんな彼が可愛くてならなかった。
 他愛ない言い争いに決着をつけようとリオンは歩き出す。そうすればカロルがとにかく進みはじめてくれるのはわかっていた。
 薄暗い通路を歩いていく。触れれば湿っているわけでもないのに、壁はじっとりと湿気を帯びているように見えて不快だった。二人の足音と竜牙兵の足音が高く低く響いた。
「それで、いったいなにが嫌なんです?」
「休憩するのが嫌だ」
「カロル……」
 またあの議論を繰り返すのだろうか。リオンはわずかばかり落胆する。理解してくれたと思ったのはどうやら早計らしい。
「テメェが絶対になんにも変なことしねェって約束すんなら、休憩してやってもいい」
 だが、リオンの考えは間違ってなどいなかった。カロルは理解した上で言っている。それをリオンが理解するのにこそ若干の時間を要した。
「カロルってば可愛い……」
「このクソ坊主!」
「だって、可愛いです。あなた」
「ど腐れめ!」
「うーん、素敵だなぁ。あ、カロル」
「うっせェ! 黙れよ、ボケ坊主」
「うーん、だってねぇ」
「だってもクソもあるかよ!」
「扉、見つけたんですけど。黙っていいですか、カロル?」
 大きく息を吸う音が聞こえた。リオンはそっと身構える。心の中、せめて魔法を飛ばすのだけは勘弁して欲しいと願っていたのが叶ったのだろうか。思い切り脇腹を殴りつけられた。
「そういうことは、言え」
 あえてゆっくりと紡ぎだされた言葉が彼の感情を物語っている。他の誰かであったならば、それを怒りと取ったことだろう。だがリオンには照れているようにしか聞こえなかった。
「行くぞ、ボケ」
「はい、カロル」
 にっこり笑ってうなずいて見せる神官の丈夫さにカロルは呆れ、ついに笑い出す。心身ともに疲れていないはずがなかった。もう少しは大丈夫だと思っているから休息を拒否した。だが、決して疲れていないわけではなかったのだ。
 だからこの馬鹿らしい会話がどれほどありがたいことだったか。それを口にすることはないだろうけれど、心から感謝をしてはいる。リオンがいてくれてよかった、と。神官の魔法があるのが有利だと、思った。今は彼と言う男がいてくれることがありがたいと思っている。
 そう思えば思うほど、自分の意思を無視して欲しくはなかった。他者に対して幻滅を感じることに慣れすぎている。カロルは自嘲する。リオンにそれを感じたくはない、そう思いはじめたぶん、彼の仕種のひとつずつが恐ろしい。
「カロル?」
「なんでもねェよ」
「わかりました」
 それだけでリオンは引き下がる。自分がぼんやり物思いに沈んでいたことなど、エイシャの神官が気づかないはずはないというのに。ゆっくりとカロルは呼吸する。信じたい、思えば思うだけ信じられなかった。
 二人は南の端に立っていた。西側、扉がある。今まで抜けてきた扉と変わりはない。だが、北の端からここまでこちら側には扉はなかった。と言うことは細長い部屋である可能性は高い。
「気を……」
 言いかけたカロルの言葉が止まる。リオンは振り向かず待っていた。背中が期待するでもなく佇んでいる。
「抜くんじゃねェぞ、ボケ坊主」
 言葉を続けたくなってしまったのは、きっとその背中が遠くに見えたせいに違いない。すぐそこにあるのに、今は何よりも遠く見えた。
「はい、カロル」
 振り向いてかすかにリオンが笑った。手が、伸びてくる。一度髪を梳いて戻った彼の手をカロルは拒まなかった。




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