どろりと濁った血が床に流れていた。痙攣を繰り返すアンドロ・スコーピオンはすでに脅威ではない。血に汚れたハルバードを一振りし、リオンは戦いを収めた。
「おいコラ、クソ坊主」
 ゆっくりとカロルが歩いてくる。その声に険があった。リオンは振り返らず黙ってそこに立ち尽くす。
「なにボケっとしてんだ、腐れ神官」
 カロルが正面に立った。きつい翠の目が睨んでくる。リオンはそっと目を伏せ答えない。
「テメェなに考えてやがる」
 カロルに問い質されるのももっともだった。リオン自身、どうしてあのとき動けなかったのかなどわからない。
 眼前に迫ってきた毒針。久しぶりに死の恐怖を感じた。今まで戦いを繰り返してきた。神官になったその日からハルバードを片時も離したことはない。
 それでいながら死を間近に感じたことはさほどなかったのだ。だからこそ今日まで戦ってこれたのだ、と言うこともできるが。
「すみません」
「謝ってんじゃねェ!」
「ですが」
「謝罪が聞きてェって言ってんじゃねェんだよ、わかってんのか、このボケ!」
 はっとして顔を上げた。その瞬間だった。燃えるよう頬が痛んだのは。愕然として彼を見る。知らず自らの頬をリオンは押さえていた。
「気をつけろ、ボケ坊主」
 カロルに、殴られた。彼が、案じてくれた。リオンは何度か目を瞬き、そして静かに笑みが広がっていく。
「はい」
 満足そうな笑みを浮かべたリオンが手を伸ばしてきた。そっと髪を撫でられるのにカロルは逆らわない。黙ってされるままになっていた。
「怪我」
「はい?」
「怪我、してねェんだろーな」
 ぶっきらぼうに言ってカロルは目をそらした。他人を気遣う、ただそれだけのことに照れるカロル。それをリオンはこの上なく愛おしいものと思う。
「えぇ、大丈夫です。ちょっと油断しただけですから」
「気ィ抜いてんじゃねェよ、ボケ」
「まったくですねぇ。うーん、ほんとボケました」
 飄々と言うリオンをカロルは訝しげに見、それから案じたのが馬鹿らしいとばかり悪態をつく。それで元通り。互いにほっと息をついたのに気づいてしまっては苦笑いをし、そして顔を見合わせてはにたりと笑いあう。
「よし、次行くぞ、次」
「はい、そうしましょう」
「おう」
 リオンはちらりと竜牙兵を見やる。無生物は命令のない今、じっとそこに佇んでいるだけだった。それでもどこか見られている、そんな気がしてリオンを落ち着かない気持ちにさせた。
 何気ない動作でカロルが手を振った。と、命を吹き込まれたよう竜牙兵が動き出す。入ってきた真正面に扉がある。それを竜牙兵に開けさせようと言うのだろう。
 ただそれだけに見えた。だがリオンは見てしまった。カロルの耳が魔法の薄明かりにさえ冴え冴えと赤くなっていたことを。
「おいコラ」
「あ、すみません」
「だからボケんじゃねェって言ってんだろ、オッサン」
「年はあなたのほうが上でしょ」
「ボケ具合はテメェのほうが上だろ」
「まったくですねぇ。ま、それはそれとして?」
「だから行くって言ってんだろうがよ!」
 照れ隠しにだろうか、カロルが喚き散らしついでとばかり魔物の死体を蹴りつける。できれば物騒だからそれはやめて欲しいと思うリオンだったが、言って聞く相手でもないので自らが最適な行動を取る。
「行きますよ」
 まるで今までの会話などなかったような顔をして、竜牙兵が開いた扉に手をかけた。向こうに何もいないことを確認して扉を抜ける。そして振り返っては笑う。
「カロル」
「うっせェ!」
 罵声と共にカロルが追いかけてきた。唇を尖らせて睨みつける仕種を可愛いといえば怒るに決まっているからリオンは無言だ。
「またかよ」
 呆れた風、カロルが言った。彼の目は正面を見ている。扉を抜けた通路の向こう、同じ構造としか思えない小部屋があった。
「また何かいそうですねぇ」
「ボケ坊主」
「はい、気をつけます」
「まだなにも言ってねェだろ!」
「聞こえた気がしましたけどねぇ」
 うっとりと嘯いてリオンは背中に罵声を聞いた。扉の向こう側を窺う。どうやら生物がいるらしい気配。敵対的なものがいると見て間違いはないだろう。
「行きますよ」
 ぴたりと罵詈雑言がやんだ。思わずリオンは唇に笑みを刻み、ハルバードを握りなおす。竜牙兵が前に出て扉を開け、飛び込んでいった。
 続いてリオンも突進する。油断はしない。カロルに心配などさせない。握り締めたハルバードは、まだカロルの魔法に輝いていた。
「来たか!」
 久しぶりに耳にする、互い以外の人語に一瞬気をとられそうになった。小部屋にいたのは、体格のいい半裸の男だった。下卑た笑みを漏らし、侵入者を見やった。
「ボケ!」
 カロルの叱咤が飛ぶ。だがそれを男は自分に対する罵倒と取ったらしい。この状況では無理もない。歪んでいた唇がさらに歪む。
 そこに叩きつけられた竜牙兵の剣。男は咄嗟にかわし、けれど切先が肌を切り裂いた。たらりと血が流れる。それを男はあり得ないものでも見たよう、呆然と眺めていた。
「貴様ァ!」
 低い罵り声。頭に血の上った男の体がみしみしと音を立てるよう膨らんでいく。わずかに体を覆っていた服が裂けはじめ真実、膨張していると二人は知った。
 薄明かりの中、男の体が黒くなっていく。毛だった。濃い体毛が生えていく。再度、竜牙兵が切りつけるも今度は一蹴され、リオンも隙を見出せない。
「ワーベア!」
 カロルの怒声。それと共に変身が完了した。そこにいるのはすでに人間ではない。熊だった。獰猛な巨体をもてあますよう身震いし、熊が吼える。
 カロルの詠唱が聞こえた。そしてすぐさま魔法が飛ぶ。切り裂く風の刃が熊の足を鈍らせ、リオンに攻撃の隙を与えた。
「ありがとう!」
 ハルバードを構えリオンは突進する。幸いいまだ彼の魔法が効いている。魔法をまとったハルバードはワーベアに対して強力な効果を示すだろう。
 そしてそれは実証された。ハルバードの斧部分がもたらした痛打は魔物を悶絶させる。流れ出す血を止める術もない。
 獣に変化する人間に対して有効なのは魔法をまとった武器か銀製の武器のみ。それ以外の武器では傷を与えることもできない。傷を負わせたとしても瞬時に塞がってしまうほどの驚異的な回復力を持っていた。
「さっさと片付けろ!」
 呪文を維持するカロルの声がわずかに震えている。竜牙兵とリオンとを避けながら風の刃を操るのは生半な努力ではないらしい。
「噛まれんなよ!」
「わかってます!」
 言い返し様にハルバードを薙ぎ払う。狭い空間でする攻撃ではなかったが、リオンはその点に長けていた。このような場所であってもハルバードによる最大の攻撃力を発揮することができる。
 がつり、ワーベアの胴体に食い込み魔物が吼え声を上げた。苦し紛れに手を伸ばしてリオンを掴もうとする。
 カロルが案じていたのはこれだった。獣人は感染する。ワーベアに噛まれた者は、新しいワーベアとして生きるのだ。その呪いを解く術は今の世界にはまだなかった。新たな獣人を救うには、殺すよりない。少なくとも魂の安寧だけは得られる。
 魔物の手を振り払うよう攻撃したのはリオンではなく竜牙兵。そもそもが魔法生物である竜牙兵の剣は魔力を強くまとっている。食い込みもせず切れた。仰け反った熊の喉が絶叫する。そこにリオンがハルバードの先端を叩きつけるようのめり込ませた。
 ずるり、崩れ落ちていく。凶暴な熊であったものが、徐々に人間に戻っていく。吐き気を催すような情景だった。
 無情にリオンがハルバードをこじる。広がった傷口から血があふれ、半ば人間に戻った口からも血は流れた。最後の呼吸が血の泡となり、今は人間に戻った男が事切れる。安らかな顔をしていた。
「気分わりィな」
「同感です」
 ぽつりと言ったカロルにうなずきリオンはハルバードを振った。血膏さえもが振り落とされ、美しい輝きを取り戻した武器に目をやる。それから男に目を戻し、リオンは彼の魂の平安を祈った。
「行きましょう」
 きっぱりと言ってカロルを連れ出す。罵声ひとつ飛んでこなかった。獣人は、人間とは言えない。魔性の呪いにかかった、魔物だ。だが人の姿をしている。かつては人間であった。その血に手を汚すのが楽しいはずはない。リオンも、カロルもまた。それだけが彼の魂を安らがせるたった一つの手段だと知っていてさえ。
 竜牙兵が扉を探す。今度の扉は右手にあった。訝しく思ってリオンは首をかしげる。そして納得が行ったのだろう、うなずいた。
「なんだよ」
 それに目を留めたのだろう、カロルが声を上げた。そっと視線を落とせばもう常態に回復したのだろう、カロルが顔を上げている。だが唇には噛みしめた跡が残っていた。
「扉、開けますね」
「おうよ。だがよ……」
「開けてから説明しますよ」
 肩をすくめてリオンが言う。それにカロルは黙って従った。なにが起こっているのかわからなかったけれど、とにかく危険なことではないらしい。
 無造作なまでに竜牙兵が開けた扉をリオンは抜けた。そのことにカロルはわずかに驚き、黙って続く。彼がそうしたのにはきっと理由があるはずだとばかりに。
「おいコラ、クソ坊主」
 だが愕然とした。そこにあるのはまたしても通路を挟んだ小部屋。いい加減、嫌になってくる。そして同じ場所を堂々巡りとしてるのではないだろうかとの思いが脳裏をよぎった。
「違いますよ、場所は移動してます。嫌な造りですねぇ」
「性格が出てるよな」
「え?」
「人が迷うのを喜んでる。そういうヤツだよ、あれは」
「子供みたいですね」
「けっ」
 カロルは吐き出し通路と小部屋の扉に目を走らせた。明りを通路の端まで飛ばす。今まで通ってきた小部屋が見えた。その隣にも同じ造りの部屋がある。




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