浮かび上がるよう目覚めたとき、リオンはカロルの腕を感じた。緩やかに体に回された彼の腕。温かくて心地良い。もう少し味わいたくて目を閉じればカロルの炎が瞼に浮かぶ。
「おいコラ、ボケ坊主」
 思わずぎくりとしてしまった。まさか起きたのに気づかれるとは、と。そして魔術師とは勘の鋭いものだったと思い出しては苦笑する。
「なんですか」
「起きたんだったら離れろよ」
「放り出せばいいでしょ」
 笑いを滲ませて言うリオンにカロルは不機嫌だった。それでいながらカロルは腕を離しはしなかった。
「カロル?」
「なんだよ」
「いいんですか、こうしてても」
「嫌に決まってんだろうがよ」
「ですが」
 そこで言葉を切ってリオンはカロルを見上げた。視線を感じるより先にそらされた翠の目。どこか照れたような色をしているのが可愛らしくてならなかった。
「一応、怪我人だと気を使っちゃいるんだがな」
「あなたが?」
「テメェ、俺をなんだと思ってやがんだよ」
 まじまじと見つめ、そんな子供じみた仕種がリオンの胸をときめかせると知ってか知らずかカロルは唇を尖らせる。
「うーん、あなたらしいと言うべきか意外と言うべきか。悩みどころですねぇ」
「クソ坊主め」
 言ってカロルは軽くリオンの頭を叩いた。それでリオンは心底カロルが怪我を案じているわけではないと知る。そもそも彼は完治を確認していたはずだ。ならば今はただ彼もまた、そうしていたかっただけのこと。それがリオンにとっては何よりの回復の源だった。
「少し腹減りましたねぇ」
「そういやそうだな」
「なにか腹に入れておきましょうか」
「……そのまえに」
「はい?」
「とっとと離れろって言ってんだろ。ボケ!」
 怒鳴りつけるもののどうも迫力に欠けていた。リオンは彼の目を下から覗き込み、じっと見つめる。疲れているわけではなさそうだった。
「おいコラ」
「はいはい」
「どけよ」
 むっつりと言うのにリオンは笑い、ようやく彼から体を離した。緩く抱いていた腕が離れていく。急に寒さを感じた。
 と、カロルがわずかに震えた。それからはっとしたようリオンを窺う。当然、リオンは何も見なかったふりをした。
 心の中が温まる。少しでもいい。物の弾みでもいい。このような場所だから心細さを感じただけでもいい。カロルがこの体を離したくないと感じてくれた。それが例えようもなくリオンは嬉しかった。
「カロル」
「なんだよ」
「なにがあります?」
「たいしたものはねェな。普通の糧食」
「じゃあ蜂蜜酒、少し飲みます?」
「ありがてェな」
 妙に素直にうなずいた彼を思わず見つめた。カロルもまたそんな自分に気づいたのだろう、口を閉ざしてあらぬ方を見やる。
「うるせェ、ボケ」
「なにも言ってないじゃないですか」
「うっせェよ」
 忍び笑いが聞こえたわけでもないだろうにカロルは悪態をつき、そしてリオンはどこ吹く風と聞き流す。いつの間にか馴染んでしまった互いの関係。
 それをカロルは忌々しくも思いながらどこかざわめく胸を抑えきれずにいた。箍が外れているとしか思えない神官。だがリオンはカロルの踏み込んで欲しくない場所には決して来ない。黙って微笑み、一歩向こうで待っていてくれる。
 だからこそカロルは迷う。心にわだかまって塊となる。リオンは自分の意思でついていくと言っている。だが彼は何もわかってなどいないのだ。そうカロルは思わざるを得ない。最後まで行を共にすれば、リオンに待っているのは。
 そのようなことになっていいものか、いまだカロルは決心をつけられずにいる。あるいはわずかにであっても信用したからこそ、リオンに最後を見せてはいけない、そう思うのかもしれなかった。
 手早く食事を済ませ、蜂蜜酒を口にする。生気がみなぎるというわけにはいかなかったけれど、仄かに体が温まる。それで充分だった。
「旨いな」
「秘蔵の蜂蜜酒ですからね」
「なんか変わったもんでも入ってんのか」
「内緒」
「教えろよ」
「うーん、どうしようかなぁ」
「けっ」
 本気で聞きたいと思ったわけではなかった。リオンもまた心から隠したいと思ってはいないだろう。ただの他愛ない会話だ。それが食事以上に生気を蘇らせる。カロルの心のしこりがまた少し大きくなった。
「さて、行きましょうか」
 そうリオンが言ったのは、彼自身が武装を整えてからのことだった。単なる確認に過ぎない言葉にカロルが口許を歪める。
「おうよ」
「大丈夫ですよね?」
 なにがだ、とはカロルは問わなかった。無言でリオンの腹に拳を埋める。笑いを含んだ呻き声などと言う器用なものを上げ、リオンは軽く手を振った。
「ボケ」
 吐き出し、カロルもまた手を振る。彼のそれは無意味な動作ではなかった。手に動きに従って、結界が割れる。
「綺麗だなぁ」
「あん?」
「あなたの魔法、とっても素敵だ」
 うっとりと崩れる結界を見つめ、それからリオンはカロルに目を移す。彼はどこでもない場所を見やっていた。
「とっとと行くぞ」
 言って蹴りつけ、リオンを進ませる。明るい笑い声を上げてリオンは彼の前に立つ。すっかり回復したらしい背中をカロルは見ていた。
 すぐ側にある階段に二人は進んでいった。まずはと、カロルの魔法の明かりを先行させる。目に付く場所には何もいないらしい。
「上がりますよ」
 返答を待たずリオンは階段に足をかけた。そして背後の気配を窺う。それくらいならば返事を待てばよかった、そう思ったリオンは密やかに笑った。
「なんだよ」
「別に?」
「けっ」
 いつものやり取り。それがどうしてこんなにも心を弾ませるのだろうか。決して柔らかい言葉遣いをしはしないカロル。それなのにリオンの耳には優しく響く。
「うーん、惚れた欲目ってやつですかねぇ」
「あん?」
「あ。独り言です。気にしないでください」
「目いっぱい気になるんだがよ?」
「おや、そうでしたか……」
「いや、いい。忘れろ。物凄くやな予感がした」
 そんな言葉にリオンは今度こそ声を上げて笑った。こんな場所で危険だとカロルが背中を殴りつけるのにもかまわずに。
「はい、到着です」
 ゆっくり振り返ってカロルを導く。七階の最初の場所は小部屋だった。明りに照らし出されたそこは上ってきた階段以外の何もない。
「いい加減に見慣れすぎて飽きてきたな」
「同感ですね」
「おいコラ」
「油断する気はないですけどね」
 にっこり言って笑みを浮かべる余裕ぶりをカロルは鼻で笑い、目をそらす。視線の先に扉。ちらりとリオンに目をやれば南だ、と言う。
 何度も廊下を曲がり、階段を上がり、ここまでたどり着いてきた。それでいてさえエイシャの神官の感覚は狂わないらしい。それを思えば頼もしい。
「行きますかね」
 茫洋と言ってリオンは扉に手をかけた。ハルバードを握り直すのは癖のようなものなのだろう。それから気配だけでカロルを窺い、うなずくと同時に扉を開ける。
「おやまぁ、面倒な」
 ぼそりと言うだけに真実味に欠ける。だがカロルも言葉には同感だった。思わず漏れ出す溜息が奇しくも重なる。
 扉を抜けた通路の先には小部屋があった。明りを飛ばして見たものを確認すれば間違ってなどいない。小部屋に次ぐ小部屋。
「これ、全部開けんのか?」
「それが常道でしょうねぇ」
「面倒くせェ」
「魔法で吹っ飛ばすのは勘弁してくださいよ、カロル」
「わかってらァ」
 どこまで本当なのだろうか、そう翠の目を覗いたリオンは呆れ果てて物も言えなくなるところだった。カロルは確実に魔法で吹き飛ばすことを考えていたらしい。今度の溜息は一つだった。
「とりあえず行きますかね」
 無造作にリオンが進んでいくのは扉を抜けた正面。南側の部屋だった。幸いこちら側に扉が見えている。物の試しに開けてみるにはちょうどいいかもしれない。
「おいコラ、ちょっと待ちやがれ」
「なんです?」
 答えは返ってこなかった。その代わりカロルは荷物の中を漁って何かを探している。やっと見つかったのだろう、満足げな顔をしてにんまりと笑う。そしてリオンを狂喜させることを言うのだ。
「内緒な?」
 彼の手の中にあったのは竜の牙。それでリオンはカロルがなにをするつもりなのか悟る。悪戯の共犯にされたリオンは気分の悪かろうはずもない。
 いかにも嬉しくてたまらない、そんな顔をするリオンに一つカロルはうなずいて、それから口中でとても言葉には聞こえない呪文を詠唱する。真言葉だった。
 翠の目が真摯に輝く。リオンはそんなカロルをじっと見つめていた。静かに彼が息を吸う。それからかつりと牙を放り投げ、前方の床にそれが当たったとき、そこに立っているのは竜牙兵だった。
「素敵だなぁ」
 溜息の出るような見事さだった。リオンは真言葉を聞き取ることができるわけではない。ただ通常言語ではないことを言っている、それがわかるに過ぎない。
 だからカロルがどんな詠唱をしたのかは定かではなかった。けれど結果を見ることは出来る。二人の前、忠実に立つ竜牙兵。姿形は骸骨そのものだ。
「頭大丈夫か、ボケ」
 だからこそカロルは呆れてそんなことを言うのだ。だがリオンはそれを美しいと思う。竜の牙を変化させて作り上げた命なき者。ある意味では兵器と言っていい。盾も剣も骨で作られたとしか見えない。見る目のない者にはボーンゴーレムとしか映らない。だがそこにあるのは鮮やかなまでに強力な魔法をまとった竜牙兵だった。




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