メロールに向けたカロルの非難の数々。だがリオンが聞く限り、それはどう善意に解釈してもカロルが悪いとしか思えなかった。彼は非道と言うけれど、むしろ愛情を持って叱られたと言ったほうが正しいのかもしれない。そう思ってリオンは密かに微笑む。おそらくは間違ってなどいないはずだから。
「ッたく、あの面でよくもああ無茶苦茶なことやりやがるぜ」
 自分が顔のことを言われると怒るくせ、カロルはメロールに対してはそのようなことを言う。もしかしたらメロールから顔のことを言われてもカロルは気にも留めないのかもしれない。
 それが魔術の師弟、と言うことなのだろう。それほどまでの親愛の情を教え子に対して持ったことのないリオンにとってそれはどこか羨ましい思いでもあった。
「だいたいな――」
 なにを言おうとしたのだろうか、ふとリオンは言葉を止めてしまったカロルを見やる。彼は煩わしそうに肩を動かしていた。
「カロル」
「大丈夫だって言ってんだろ」
「でも、いま」
「血が乾いて鬱陶しいんだよ」
 見ればローブの肩は矢傷にささくれ立ち、乾いた血に強張っている。それが動きにくいとカロルは言っているのだろう。
「ちょっと見せてくれませんか」
「あん?」
「傷」
 短く言ってリオンは彼の肩に手をかけ、強く押した。そしてじっとカロルの目の中を覗き込む。翠の目は揺らがなかった。
「なにやってやがる」
「別に?」
 微笑んでリオンは内心で息をつく。どうやら傷は治っているらしい。自分の魔法の腕のほどは信用してはいたけれど、だからと言って本当に治っているかどうかは彼の場合疑わしい。完治していなくとも、彼は平然と動こうとするだろうから。
「離せ、ボケ」
「だめです」
「うっせェよ」
「一応、ね」
「やめろって言ってんだろうが!」
 抗議に耳も貸さずリオンは彼のローブをはだけた。あらわになる半エルフのように白い肌。こびりついた血をこすり落とせばかすかに残る傷の痕。
「痕、残っちゃいましたね」
 リオンの口調に慙愧が滲む。そっと傷跡に指を滑らせてリオンは後悔を強く心に刻んだ。一時の激高で彼に傷を負わせてしまった。塞がったばかりの傷を開かせてしまったのは、自分。
「だからなんだよ」
「だって」
「別に女じゃあるまいし、傷跡の一つや二つ。どうってことねェだろ」
 突き放すよう、言われた。知らず伏せていた目を上げたリオンが見たものは、そっぽを向いているカロル。仄かに耳が染まっていた。
「でも、もったいないなぁ」
 自分の暴挙を許してくれたのだ、そう感じる。互いに悪かったのだから忘れろと言ってくれている。だからこそリオンは忘れない。彼のぶっきらぼうな優しさを。
 それを悟られたくない、口にして欲しくないと望むならばいつものように。そのつもりで言った言葉にカロルは無造作な拳で脇腹を殴りつけてきた。
「頭でも打ったか、ボケ。いや、テメェは最初からそうだったな」
 自分で言って一人で納得している。が、リオンは彼の目が自分の顔色を確認したのを見落としはしなかった。殴りつけた脇腹。リオンは顔を歪めはしなかった。それが彼に傷の完治を知らせただろう。
「うーん、それはそうなんですけどねぇ。あ、いいこと考えちゃった」
「あん?」
「ちょっとじっとしててくださいね、カロル」
 なにをするかとわずかに身構えたカロルの肩をリオンは押さえる。そして物も言わず、傷跡に唇を寄せた。
「おいコラ、テメェ!」
 呆気にとられたカロルが動きを止めたわずかの隙に強く吸えば赤い跡。傷跡の替わりについたそれにリオンは満足げな視線を寄せた。
「なにしてやがる、クソ坊主!」
「こうすれば見えないなぁ、と思って」
「この腐れ神官が!」
「いい考えだと思いません?」
「思わねェよ!」
 にっこり笑って飄々と言ってのけたリオンにカロルはきつい目を向ける。そして馬鹿らしくなった。どうしてこうも掌で遊ばれているような気がしてならないのか。むっつり口をつぐんでローブを直そうとするのを止められ再度、厳しい視線を向けた。
「ちょっとだけ」
 カロルの反論を聞く気はないとばかりリオンはそれだけを言って肩口に額を寄せた。ほんのりと温かいカロルの肌に額をあてれば心地よい。
「ありがとう。行きましょうか」
「おいコラ」
「なんです?」
 静かに離れて立ち上がろうとするリオンを、今度はカロルが止める。どうにも不安でならなかった。無茶をするのは自分のはずだ。無謀を謗られるのは慣れている。その自分が不安になるなど。
「ちょっと休め」
 ましてそのようなことを他人に言う日が来るなど、カロルは思ってみたこともなかった。必死になって修行するフェリクス相手にさえ言ったことのない言葉。
「……はい」
 リオンは優しげに微笑って、そしてそれだけだった。何を言うでもない。ただそれだけ。それから黙って再び肩に額を寄せてくる。カロルも抗わなかった。
「水。飲んどけよ」
「えぇ、ですが」
「なんだよ」
「残り、少ないなぁと思って」
「飲め」
 有無を言わせず彼の水袋を取っては口許に押し付ける。リオンの傷も確かに塞がってはいるだろう。だが彼はいささか出血が多かった。すぐさま回復するというわけにはいかないだろう。
 それ以上の議論の無駄を知ったのかリオンは無言で水を飲む。さほど残っていなかった水袋はそれで空になる。
「貸せ」
 奪い取るよう水袋を手にしたカロルをリオンは興味深げに見上げる。ちらりと送ってきた視線はどこか楽しそうだった。
 カロルが口の中、小声で詠唱している。つい聞き取ろうとしてしまったリオンをいたずらに睨みカロルはいっそう小声になった。と、水袋が膨らみ始めた。
「カロル?」
「満杯。なくなったら言え」
「わかりました。ありがとう、カロル」
「うっせェ」
 小さな声で罵ったカロルが愛おしくてならなかった。リオンは温かいカロルの体を頬に感じ目を閉じる。こんな穏やかな気分になったことはなかった。
「おいコラ、クソ坊主」
「なんです?」
「よっかかって寝る気なら――」
 うっかり言ってしまったとばかりカロルが口を閉じた。それをリオンは面白いものでも見るような目で見上げてしまう。もっと怒ると思っていたはずが、すっかり馴染んでしまったらしい。カロルの口から罵声は飛ばなかった。
「なんでもねェ」
「言って欲しいなぁ」
「腐れ神官め!」
 吐き出すよう言われてしまう。だがそれさえもリオンの耳には快い。カロルが言いかけた言葉を、どうしてもリオンは聞きたかった。
「カロル、言ってください」
「うっせェなぁ。ッたく面倒くせェ野郎だぜ」
「諦めてください、その辺は」
「なんで俺が諦めなきゃなんねェんだよ!」
「まぁ、運が悪かったとでも思うんですね」
「まったくだ」
 妙なところで納得しないで欲しいと切に願うリオンだったが、カロルは深くうなずいている。つい漏れ出した溜息を聞かれたのだろう、カロルが忍び笑いを漏らした。
「そこで寝んなよ」
「邪魔ですか?」
「当たり前だろうが」
「でも、温かいです」
「へばりつくなら逆にこい。邪魔」
「え?」
 思わず見つめてしまった。あまりにもあっさりと願いが叶えられてしまったせいとわずかな興味。見上げたカロルは忌々しげな目をしていた。
「利き手が塞がれんの、嫌なんだよ」
 そう言ってひらひらと右手を振る。確かに右側から体を寄せているリオンがいては利き手はまるで動かせない。
「不思議なものですね」
「なにがだよ?」
「あなたでも剣の手が塞がれるのは嫌なものですか?」
「なに馬鹿なこと言ってやがる」
 呆れ声で言われた。リオンは数度目を瞬きカロルをじっと見る。なにを言われているのか理解が及ばなかった。それに気づいたのだろうカロルが満足そうに笑う。
「剣の手じゃねェ。魔法の手」
「どう言う……」
「俺は魔術師だぜ? この手は剣を振るうためじゃない」
「ですが、鍵語魔法は言葉だけでは?」
 リオンが見ている限りカロルは大袈裟な身振りを伴う魔法を使ってはいない。そして鍵語魔法とはそういうものらしい。ごく一部、鍵開けなどの接触の魔法は手を使っているけれど、カロルが言っているのはそういうことではないだろう。
「鍵語魔法はな」
 事実、鍵語魔法に伴っている動作はほとんどが魔術師自身の癖のようなものだ。なくても魔法自体は発動する。本来は真言葉魔法も身振りを必要とはしない。だがそれには多少、長い詠唱が必要だった。ほんの数語の差ではあるのだが。
 そうカロルはリオンの考えを肯定するよううなずいて目を細めた。それからわずかに唇を吊り上げて笑う。
「と言うことは、真言葉魔法ですね?」
「おう。そうだな……テメェだって短剣くらい持ってんだろ? ハルバードが使えなくなったらそっち使うだろうが。俺にとっちゃ右手はそういう意味で最後の武器だ」
 だから真言葉魔法が必要だった。たった数語の真言葉で発動させられる魔法が必要だった。一音節でも短い言葉が、必要だった。この体と命と、自分の意思を守るために。
「少し、わかるような気がします。が、右手だけ、ですか?」
「師匠が片腕だからな。俺は両手で発動させるけど、いざって時は片手でもなんとかなる。この右手一本と声が出る限り、俺は戦える」
 言ってカロルはわずかに顎を上げた。それはうっとりとするほど傲岸で美しい。少なくともリオンにとっては。
「最後の、武器……」
 その言葉の持つ恐ろしさにリオンは唇を噛みしめる。決してカロル一人をそんな目にあわせたくはない。できることならば最後まで彼と共に。
「まぁ、あれだ。鍵語魔法より真言葉のほうが速いって、それだけだがな」
 そんなリオンの気配を感じ取りでもしたようカロルはあえて軽い口調で言って見せた。普段、軽薄とも言える男に沈まれるとやりにくくてかなわない。そうカロルは思う。そこまで明確に思ったわけではなかったが、けれど確かにカロルはそう思ったのだった。




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