握り締められた拳をじっと見ていた。なにをそれほど苦しむのだろうかと思う。たかが傷一つ。このような傷ならばたいしたことではない、そうカロルは思っているというのに。
「馬鹿」
 再び言えば、また体をすくませた。傲岸なほどに茫洋としたリオンとは、とても思えない。こんな顔もするのだな、そう思う。
 思ったときには、手が伸びていた。緩く彼の頭を抱く。ぎょっとしたよう体を引こうとするのを無理やり抱き寄せれば、肩に額を預けてくる。
「カロル?」
「うっせェ、黙ってろ。ボケ」
 返事の代わりにうなずきを。カロルはそれを肩に感じて壁に改めて体をもたらせかけた。温かい体を抱いているのは、心地良かった。ゆるゆるとリオンの腕の熱が伝わってくる。いささか彼のまとった革鎧が邪魔だ、思ったときにはつい含み笑いを。
「カロル?」
 怯えたよう、リオンが額を離そうとする。また抱き寄せた。肩にある彼の頭を子供相手にするように軽く叩く。柔らかい髪を指で梳けばほっとした気配。
「邪魔だ」
「え?」
「結界張ってんだ、いらねェだろ」
 見上げてきたのは、まだなにを言っているかわからないと戸惑うリオンの顔。いつもならば掌を指すように考えを言い当てるリオンだけに憔悴振りが窺える。
 けれど、カロルはにんまりとし、無言でリオンの鎧を解いた。されるままのリオンはわずかに気恥ずかしそうで、しているこちらのほうが恥ずかしい、そうカロルは思う。
「照れんじゃねェ、ボケ」
「だって、なんだか……その」
「うるせェぞ、クソ坊主」
「恥ずかしいじゃないですか……」
 仄かに頬まで染められては、いっそ無体を働いているような気にもなる。そしてそれが異常なほどに嬉しかった。無体をされる機会は多々あれど、自分がしたことはほとんどないに等しいカロルだった。
「カロル」
「なんにもしてやんねーからな」
「そんな!」
 そのようなことなど今は微塵も考えていなかった、そう全身で言うリオンが今までになく好ましい。鎧を解いた体を抱き寄せる。神官服だけになった彼の体は温かかった。
 立場が逆転してしまったように、リオンがじっと自分の胸に抱かれているのを見下ろしていた。大差はないとは言え、多少は彼のほうが背が高い。不自由な体勢だろうな、と思えどもきっとリオンも今はそれを望んでいる。そしてカロルもまた。
「カロル」
 緩やかに、背に腕がまわってきた。ためらうよう、戸惑うよう。悪くはない気分にカロルは笑みを漏らす。
「なんだよ」
「少し……もう少しだけ。こうしてていいですか」
「一々聞くんじゃねェよ、ボケ」
「……つけあがりますよ?」
 言った彼の声は少し、笑っていた。それが妙な安堵をカロルにもたらす。彼が落ち込んでいるのを見たくない。なにが何でも浮上させたい。いつの間にそんなことを願うようになったのだろう。
「勝手にしろ!」
 笑いを含んだ怒鳴り声。含まれていたのは笑みだけではなく隙も。案の定、リオンはきゅっと背を掴んでは見上げてきた。
「好きなだけ、勝手をしますよ。そんなことを言うと」
「だから勝手にしろって言ってんだろうがよ!」
「いいんですか、カロル?」
「テメェはテメェで好きにしろ。俺は俺で好きにさせてもらう」
「えーと、その。カロル、それって」
「おうよ、テメェが滅茶苦茶やりやがったらすぐさま屑肉だな」
「……あぁ、やっぱり」
 わざとらしく肩を落として見せた。それから拗ねたよう、胸に顔を埋める。それを拒否しないカロルと知って。
「でも、無茶じゃない範囲なら、いいんですよね」
「だから一々聞くんじゃねェって……」
「うん、聞きません」
 今度こそリオンは笑った。あからさまに息をつきたくなるのをカロルは耐える。少しばかり恥ずかしかった。
「気持ちいい……」
 うっとりと呟くリオンの声に視線を落とす。彼の黒髪だけが目に入った。
「なにがだよ?」
 黙って抱かれているだけ。何もしていない。それなのに彼はなぜ。快楽に繋がるようなことは何一つしていないと言うのに。
「とても気持ちいいですよ」
 カロルの不審を聞き取ったのだろう、リオンが頬を摺り寄せる。まるで全身を包まれたがってでもいるような仕種につられてカロルはリオンを抱きしめた。
「ほら、とても……」
「だから、なにがだよ」
「あなたのね、炎が温かくて涼やかで。気持ちが休まります」
「どっちだよ」
 笑って言うカロルに、リオンは目を上げ微笑んだ。その柔らかい黒い目がなぜか、胸に迫った。その不思議さに思わず瞬いたカロルからリオンは視線を外す。なにを思う間もなかった。カロルはそれを追いかける。片手でリオンの頬を包み込み自分のほうへと向かせる。
「俺にわかるように言えよ、ボケ」
「無理言いますねぇ」
「うっせェ」
「うーん、難しいな。沈んだ気持ちが慰められて燃え上がると言うか、ささくれ立った気持ちが癒されるというか」
「けっ。恥ずかしいこと言いやがる」
「言えって言ったのはあなたですよ、カロル」
 実にもっともな言い分で返す言葉がないカロルにリオンは笑いかけ、再び視線を外した。まだ、何かを悔やんでいるのだと、その態度で知れてしまう、あるいは知って欲しいのかもしれない。
「ボケ」
 小声で罵り様、何をか言い返そうとしたリオンの唇に、自分のそれを触れさせた。慌てて身を引こうとするのを許しはしない。けれど触れるだけ。それ以上のものではないくちづけ。
「さっさと浮かび上がってこい、クソ坊主」
 耳許で囁いて、ついでとばかり耳朶に噛み付いた。上がった悲鳴はどこか嬌声めいてなまめかしい。腕の中、抱え込めばリオンが忍び笑いを漏らした。
「ただいま帰還しました」
「遅せェぞ」
「帰ってきましたよ、カロル」
「おう」
 体を離し、真正面から見つめてくる。今度、目をそらしたのはカロルのほうだった。その頬にくちづけの感触。柔らかいそれが嫌ではなかった。
「ところで」
「なんだよ!」
 わずかな羞恥に、問いかけは罵声を帯びる。それをリオンは易々といなした。言葉ではなく、体でもなく。互いの距離が近くなる。
「あなたの望みならば叶えるのに吝かではありませんが、出来れば逆が好きです」
「あん?」
「こっちがいいなぁ、と」
 そしてカロルの返事も待たずリオンは体を入れ替えた。気づいたときにはリオンの腕の中に抱かれている。
「テメェ」
 罵ったものの、妙にしっくり来る体が忌々しい。言うべき罵詈雑言の一つも思い浮かばず、カロルは鼻で笑った。そしてことりとリオンの胸に頭を預けた。
「別にどっちでもいいんですけどね、ほんとは」
「嘘つけよ」
「どちらかと言えば上が好みではありますが」
「テメェな」
「なんでしょ?」
「口説いてる相手に昔のこと仄めかすか、普通?」
「……しまった」
「棒読みすんじゃねェ、コラ」
 笑ってカロルはリオンの背を叩く。それをわざとらしく痛がって受け入れる。こんなにも自然で当たり前だ。いい気分だった。
「カロル」
「うっせェ」
「聞いてください」
「嫌だ、面倒くせェ」
「あなたねぇ」
「テメェの言いたいことはわかってんだよ、ボケ」
「おや、そうですか?」
「おうよ、一言も間違えないで再現できるぜ、たぶんな」
「ほう、それはやっていただこうじゃないですか」
 ぬかった、と思ったもののもう遅い。じとりと睨み上げてもリオンは涼風にあたってでもいるように快さげな顔をするばかり。
「……。『あなたが好きですよ、カロル。今まではどうあれ、今はあなたが一番です、人間の中ではね』――大方こんな所だろうよ!」
 吐き出すよう言ったカロルに、リオンは心の底から驚いた。思わず覗き込めば嫌がるよう顔を伏せる。反って胸に埋まってしまったようで可愛らしい。
「すごいですねぇ」
「あってんだろうがよ」
「うん、あってます。人間の中では、まで」
「けっ。女神が一番だってのも知ってっからよ」
 理解を誇るよう言うカロルの言葉の中、本人さえ意識していない感情をリオンは読み取る。かすかな嫉妬。誰よりも何よりもどんな存在よりも一番、そう言われたいと望んでいる。誰かを愛したい、誰かに愛されたい、と。本人が、まるで気づかないままに。
 そんな態度が好もしかった。たとえそれがリオンを特定して言っているのではないにしても。神官にとって、仕える神は唯一にして至上。人間など及びもつかない存在を神官は知っている。ましてエイシャ女神は他の神々より神官に愛を深く求める。そしてそれに応え得る者のみが、神官となることが許される。
 それでもリオンはエイシャは許し給う、そう内心で微笑んだ。
「愛してますよ、カロル」
 誰かを愛しく思うことがなければ、女神をも愛せるはずがない。他者を愛しむ心を知るからこそのエイシャの神官。ならば女神が恋を禁じようか。否。
「うっせェよ、ボケ」
 頬を摺り寄せてくる愛しい人の淡い金髪を撫でれば、わずかな吐息。かすかに甘ささえ含んだそれは、カロル自身が意識に上らせない感情までもリオンに伝える。
「こんなに好きなのになぁ」
「なにが不満だクソ神官」
「残念です、私」
 言ってリオンは指をカロルの顎先にかけた。そっと、けれど有無を言わさず仰のけられてカロルは唇を尖らせる。
「まだ一度も名前を呼んでもらえない」
 そして盛大な溜息をついて見せた。途端に上がるカロルの笑い声。拗ねたよう、リオンは唇を重ね、カロルは拒まなかった。




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