敵がいたらどうするのか、とたしなめられてようやくカロルは黙る。いっそ絡めた腕で首でも絞めてやろうかと思う。が、さすがに自分の体を運ぶ男に対してそこまでするのは気が引けた。
 やはり正面にある扉。まるで同じ場所を堂々巡りしている気分になる。よもやと思うがないとは言い切れない懸念にカロルの頬が強張る。
「大丈夫ですよ」
「なにがだよ」
「場所。ちゃんと移動してます」
「けっ」
 いったいどうしてこうも考えていることが伝わってしまうのか。不思議でならない。すでに忌々しいとは思わなくなってはいる。が、不思議でならなかった。
 リオンが慎重に扉を開いた。カロルの明りに照らされた室内を見やってはわずかに首をカロルに向かって傾げた。
「邪魔」
 頬にリオンの髪があたる。煩わしいというより心地いい。
「ほらね」
「なにがだよ」
「ちゃんと違う部屋でしょ」
 それを知らせようと言うつもりだったのか、とわかった。思わずカロルは唇の端を歪める。彼は自分の思考をくまなく読み取るというのに、自分は少しもわからない。少しばかり理不尽だ、と思う。
「まぁな」
 鼻を鳴らし、背後を封じた。さすがに少し疲れる。普段ならばこの程度で疲労を感じることはない。もっと大きな呪文を行使することもできる。
 けれど傷を負った体は今も血を流し続けている。血が流れ出ていくにしたがって、体力が奪われていくのをカロルはひしひしと感じていた。
「ついでですから、もう一つ行きますよ」
「おいコラ」
「大丈夫です。それほど重くないし」
「んなこたァ言ってねェだろうがボケ!」
「罵り声が可愛いですよ」
 言ってリオンは吹き出した。当然、そのようなことを言えばカロルは黙る。案の定、むっつりと口をつぐんだ。
 聞いていたくないわけでは決してない。しかしリオンもまた負傷している。多少は注意力が散漫になっている。自分の体調がわからないほど、リオンは愚かではなかった。
 今ここで、カロルの声に耳を傾け続ければ、敵を見落とすことは必至。そしてリオンが見落とせば、命を失うのは自分だけではない、カロルもまた。
 リオンはゆっくりと息を吸い、吐く。そして肩にある重みを感じながら歩いた。この肩にひとつの命がある。
 同じような部屋でありながら、今度の扉は正面にはなかった。右手の奥にそれはある。リオンは、エイシャの神官の常として、ここがどこであるかほぼ正確に感じている。その感覚が不安をあおった。
 リオンは正面に扉があるはずだと、思っていた。しかしここにはない。それならば閉ざされた壁の向こう、なにがあるかわかったものではない。
 カロルには黙ったままリオンは扉を開ける。無謀この上ない想い人に告げて、わざわざ危険を招き寄せたくなかった。二人ともが万全の体調であったならば、あるいは告げたかもしれない。それを思ってリオンは自嘲の笑みを浮かべた。
「廊下ですねぇ」
 扉の向こう、魔法の明りを飛ばしてくれたカロルに無言の礼を。そして見回せば、正面すぐに壁が迫る。左手も同様。右手に向かって長い廊下が伸びていた。
「だな」
 そしてリオンはあるはずの空間がないことを告げなくてよかった、内心でそう思う。左手の壁もやはり閉ざされている。ならば向こう側は最低でも部屋ひとつ分の空間があるはず。すぐに行くことができないならば、いま言う必要はない。
「行きますかねぇ」
 ぼんやりと言うリオンの声をカロルは聞いていた。絡めた腕に彼の体温が伝わってくる。まだ温かい、大丈夫だ。思えば思うほど、不安は募った。
「下ろせよ」
「だめ」
「あのなァ」
「だめったらだめ。責任、取らせてください」
「その言い方が気にいらねェ」
「なにがです? あぁ、責任?」
「おう」
「責任取れと言われるのは私も苦手ですが、自主的に取るのは嫌いじゃないですよ」
「テメェが言うと胡散臭ェんだよ!」
 耳許で怒鳴るカロルにリオンは笑い声を上げた。場違いなほど明るいそれに反ってカロルのほうがぎょっとする。
「まったく同感ですね」
「わかってんならなんとかしろよ、ボケ」
「仕方ないですねぇ、こればかりは性分で」
「けっ。だいたいなァ、神官が責任取れって詰め寄られるってなァどんな状況だよ、あん? この腐れ外道が」
「別に女に言われたとは一言も――」
 小声で言い逃れるリオンの後頭部を思い切りカロルは殴りつけた。上がる呻きも気にしない。
「痛いじゃないですか、カロル」
「うっせェ」
「確かにいまのは私の失言ですけど」
「うるせェって言ってんだろ。クソ坊主」
「うーん、口説いてる相手に過去の話はいかにもまずかったですねぇ」
「ボケ坊主。屑肉に変えるぞ、コラ」
 本気まじりの悪態も、リオンの耳に届いたころには妙なる響きにでも変化しているのだろう。リオンは実に楽しいことでも聞いた風にうっとりと笑う。これにはカロルも呆れて口をつぐんだ。
「あ、階段見っけ」
 はしゃいだリオンの声にカロルは顔をひねって前方を見る。確かにそこには階段があった。ようやく、少なくとも水からは逃れられそうだと安堵する。
「休憩にしましょう」
「階段、どうすんだよ?」
「とりあえず結界でも」
 言ってリオンはカロルを肩から下ろした。問いかけついでにリオンを見上げるカロルの目に映ったもの。リオンの青ざめた頬。
 自分などよりよほど体がつらいのだろうと今にして知る。それでいて軽口に付き合ってくれた。怪我を負わせたと担いでくれた。
 なにを思う間もなかった。カロルはそっと背伸びをし、リオンの頬に唇を寄せていた。
「素敵だ」
 耳許で、リオンの声。そのときになってやっと自分がなにをしたか知る始末。さっと頬に血が上る。
「うーん、どうせだったらこっちがよかったなぁ」
 いたずらめいたリオンの目。本気ではない、と言っているにもかかわらず、その目の奥に本気が透ける。リオンは軽く唇を指先で叩いていた。
「ふざけんじゃねェ! 礼なんかするんじゃなかった」
 ぼそぼそと呟くカロルをリオンは愛おしげに見ている。真実、照れるとはっきり物を言えなくなるカロル。可愛くてたまらない。淡い金の髪を手指で梳けば嫌がるよう顔をそむけた。
「さっさと座れ、ボケ」
「うーん、次は何かなぁ」
「ボケたことぬかしてっと――」
「怖い怖い。ちょっと待ってください、結界張るから」
「いい」
「でも」
「それは俺がやるからいいって言ってんだ、この腐れ神官が!」
 わざとらしく怒鳴ってそっぽを向いて、カロルは階段から少し離れた場所へと足音高く歩いていく。リオンが微笑を浮かべ後に続き、そして壁に背を預けて腰を下ろした。
「ここでいいですか」
「勝手にしろよ」
 言いつつカロルがさっと辺りを確認したのをリオンは見ていた。視界の端にそんなリオンが映ったのだろう、カロルが睨みつけてくるのを春風でも吹いたようリオンはかわす。
 口の中でなにを呟いているのだろうか。いずれ詠唱には違いない。カロルの声と動作に従って、空気が淡々と輝きだす。そして一瞬、光輝を放ったかと思うと次の瞬間には堅い、何ものも抜けられない結界が出来上がっていた。
「カロル」
「うるせェな」
「大丈夫かと……」
「平気だからうっせェって言ってんの」
 煩わしげに手を払っては隣に腰を下ろす。そのような言い方をするだけ、カロルの疲労は重いのだろう、そう思えば思うほどリオンの頬は青ざめていく。
「さっさとテメェの怪我、治せ」
「あなたが先です」
「俺は後。テメェが先」
「カロル!」
「ちったァ、俺の言うこと聞け。ボケ神官」
「ですが」
「そんなに俺が信用できねェのかよ、あん?」
 わざとらしい言い振り。片膝を立て、その上に頬杖をついて笑っている。態度そのものが嘘くさい。
「わかりましたよ」
 あからさまな溜息をついて見せ、けれどリオンは従った。実際、怪我の程度は自分のほうが重い。カロルを負ったことで腰の傷が開いてしまった。
 ゆるゆるとエイシャに祈りを捧げる。こう疲れていてはすぐさま完治するというわけには行かない。それでも傷口が塞がるのはすぐだった。
「あなたも」
 そっとカロルを引き寄せる。抵抗しない彼が不安でならない。指先も、口先ですら彼は抗わない。それほど、酷いのだろう。自分が彼を傷つけてしまった。肩に触れる。ざっくりと開いた傷。ローブを寛げれば、白い肌に血が滴り、乾く間もなく汚れている。
「さっさとやれよ」
 唇を噛んでいたリオンの耳に聞こえたカロルの声は、いつになく柔らかい。そのことが余計リオンの自責を強くする。
 傷に触れた。体力をかき集め、詠唱する。肩が熱くなったのだろう、カロルがわずかに呻く。詫びるよう撫でて手を離せば、傷はなかった。
「おいコラ」
 聞こえないふりをしてローブを直す。いたたまれなかった。傷を治したからと言って、彼に怪我を負わせた事実までなくなるわけではない。
「すみませんでした」
 謝罪を厭うと知っていても言わずにはいられない。ただの自己満足だとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
「馬鹿じゃねェの」
 冷たいカロルの声に身をすくませたリオン。次になにを言われるか、わずかに身構える。
 隣で体を強張らせたリオンをカロルはじっと見ていた。伏せた顔は定かに窺えない。わずかに青ざめた額が見えているだけ。呆れ声の溜息を漏らせば、膝の上で握る拳が目に入る。




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