メロールは黙って窓の外を眺めた。期せずしてアルディアも同じほうを見る。聳え立つ塔があった。いまもあそこでカロルが戦っているはず、そう思えば焦燥に駆られる。じっと待つしかないというのは、つらいことだった。 「助けてやりたいよ、私だって」 ぽつりとメロールが言った。その声に含まれた哀しさに、アルディアは息を飲む。 「でも、これはカロルがするべきことだから。あの子だけができることだから」 「メル……」 「だから、私たちは待つしかないんだよ、アル」 向けられた視線は愛弟子への慈しみと哀れみに満ちていた。だからアルディアは返す言葉を持たない。 「それにね、アル」 再びメロールは窓の外へと目を向けた。闇の中に屹立する塔はどこか禍々しい。 「なにか予感がするんだ」 「どんな?」 急に、不安になった。アルディアにとってもカロルは弟子でこそないものの愛しい者であるに違いはない。そんなアルディアにメロールは愛おしげな目を向けては笑みを浮かべる。 「悪い予感じゃないよ」 「そうだと、いいんだけど」 「うん。いい予感、かな」 「その言い方じゃ、不安だな」 力なくアルディアが笑った。メロールも笑って手を振っては彼の思いを否定する。 「あの子が誰かに会うような気がするんだ」 「塔の中で?」 「そう」 「誰に?」 「さぁ……そこまでは私だってわからないよ」 「じゃあ……」 性急に尋ねようとするアルディアをメロールは手で制した。メロール自身、いったいなぜそのような思いを抱いたのかはわからない。漠然とした予感としか言いようのないものだった。 そのことを告げればわずかにアルディアが拗ねたような顔をする。ごく若いうちから仲間を束ねてきた彼が自分にだけ見せる、幼い顔がメロールは好きだった。 メロールの満足そうな顔がアルディアの視界に映る。ふっと口許を緩めて彼の髪を撫でてくちづけた。カロルが塔に入って以来、くちづけをかわすのさえ久しぶりだ、そんなことを思う。あまりにもメロールは忙しすぎた。 「カロルも誰か大事にできればいいんじゃないかな、と思うよ。そんな誰かが塔の中であの子を待っててくれればいいんだけどな」 薄く唇を開いたまま目を閉じていたメロールが、その声にゆっくりと目を開く。せっかくのくちづけの酔いを醒まされて不満顔をしていた。 「あの子が?」 一瞬でも意識のすべてがアルディアに向いてしまったことを恥じるよう、メロールは言う。いまはそのようなことをしている場合ではないというのに。 「フェリクスも大事なんだろうけどね、でも俺がメルを大事にするみたいに大事にできる相手がいれば、無謀は慎むんじゃないかな、と思うんだ。そんな人が自分を大切に思ってくれてると知れば、無茶はできないし」 二人きりであってさえ婉曲な物言いについメロールは笑った。それが彼ら半エルフのやり方とは言え、こう長く人間の間で暮らしていると自らの習性が稀におかしくなる。 「笑わないの、メル」 「ごめん」 「でも、そう思わない、君は?」 「思わないな」 意外ときっぱり言い切ったメロールにこそ、アルディアは意外そうだった。あれほど親しいというのに、カロルの内面をあまり深くは理解していないらしいアルディアが、メロールは少し不思議だった。 「あの子は庇われたり守られたりするのは大嫌いだよ」 「あぁ……」 言われた言葉に思い当たる節があるのだろう、ぼんやりとアルディアがうなずく。それを見てメロールは言葉を接いだ。 「あの子はどこまでもまっすぐ歩いていく子だから。途中の障害物を迂回するとか、立ち止まって考えるとか、そういうことができない子なんだ、カロルは」 「それを強いられるのも嫌いって事かな」 「そう。人の言うことを聞くくらいなら突進して自滅することを選ぶだろうね」 言い終えた途端、二人の溜息がひとつになる。殺されない限り死ぬことのない半エルフの身には、死に急ぐ人間の気持ちなどわからない。そうでなくともほんの何十年かで死んでしまうというのに。魔術師であるカロルは、並の人間よりは遥かに長命ではある。だが半エルフから見ればいずれにせよ、死すべき定めの人の子に違いはなかった。 「誰かに守ってもらおうなんて、人間のように言うなら、死んでも嫌、だろうね」 メロールが再び溜息をつく。そんな馬鹿馬鹿しい意地で死なれたりするのはたまらないと彼自身は思うけれど、カロルにはまた別の考えがあるだろう。 そして異種族である彼ら師弟は根本的なところで完全に互いを理解することは不可能だった。無論、お互いそれを哀しく思ってはいるのだが。 「誰かを大事に思っても、だめなものなのかな……」 アルディアが呟く。彼にとって、一番大切なのはメロールだった。だからこそいまここにいる。リィ・サイファに会いたいと彼が望んだから、旅をした。リィ・サイファの願いを聞きたいと彼が思ったから、それを叶えるために側にいる。アルディアのすべてはメロールに捧げられているといって過言ではなかった。 そしてそう思えることが彼にとっての幸福だった。どれほどつらいことであっても、それで幸せだった。メロールを支えることができると思うだけで、充分だった。 だからこの壊れていく世界に彼は留まり続けている。まだ半エルフの最後の旅に出たいと思ったことは一度もない。 それほど彼にとって大切な一人、と言うのも重きを成すものだった。カロルにそのように思える相手がいれば、そう思うのもメロールを愛しく思うゆえだった。 「あの子はね、誰かを信じることができない子」 「そんな、だって」 「私やアルディアは、別なんだよ。私たちはあの子の意思を無視しようとはしない。支配しようとはしない。それを理解するまで、少し時間がかかったの、アルは知らなかった?」 「全然……」 メロールが言ったのはカロルを引き取ってすぐの話なのだろう。カロルが落ち着くまでアルディアはほとんど彼に関わっていない。だからそのころの彼がなにを考えていたのかはまるで知らなかった。 「あの子は誰も信じない。きっと怖いんだろうと思うよ。だから誰かを大事になんてできない」 「でも」 「大事にされるのは、支配されることと同じだと思ってる」 「そんな!」 「違うのにね、アル」 そっと微笑んだメロールの目に浮かぶ哀しさ。それだけは彼がカロルに教えてやることができないことだった。彼がいずれ学べる機会があれば、と願うしかない。 「いつか、知ってくれればと思うよ。私も」 「そんな誰かと会う予感がする?」 「うん……予感と言うよりは私の願いかもしれないね」 もしもそうであればいいと心から思う。一人きりで立って、一人きりで生きていくような顔をする愛弟子を、彼が生きている限り見守ってやってもいいのだけれど、あまりにもそれでは切なすぎる。人間は、一人きりで生きていくことが寂しい種族なのだから。 「カロルがまっすぐ突っ切ろうとするのを止めてくれる誰かであればいいね」 「それは無理だよ、アル」 「え?」 すぐさま否定されてアルディアは目を見開いた。やはり師弟と言うのはどこか妬けるものだと思ってしまう。この上なく親密で完全な信頼がそこにある。 「あの子はどこまでもまっすぐ歩いていくよ。それを止めようとする相手は敵だと認識するだろうね。困った子だよ……このままじゃ、潰れるのはあの子なのに」 溜息をつきつつ、メロールはどこか面白そうな顔をしている。あるいはそんなカロルだからこそ、可愛いのかもしれない、そうアルディアは思った。 「あの子はまっすぐにしか歩けない不器用な子だから。自分では止まることもできない。進めば破滅だとわかってても、止まれない。だからその前に、隣を歩いてくれる誰かがいればいい」 「それで、いいのかな……」 「いいんだ、それで。破滅に至るその前に、少し速度を緩めることを提案してくれる誰かがいるだけでいい。あの子は愚かではないから」 「提案?」 「そう、提案。止まれって言われたりしたら反発するよ、カロルは」 「なんて面倒な子なんだ」 呆れてアルディアは目を丸くした。そこまで厄介だとはとても思わなかった。それが人間と言うものだろうかと思い、次いで否定する。複雑な内面を抱える種族ではあるが、カロルは特別だという気がしてならない。 「ほんと面倒な子だよ、あの子は」 言ってメロールは笑った。口で言うほど、面倒だと思っているようには見えない。可愛い弟子をからかっているようにしか、アルディアには思えなかった。 「どうしてあそこまで無茶なんだろう。剣を持たせたのが悪かったのかも」 「メル!」 「別にお前を責めてるわけじゃない」 「そうとしか聞こえなかったよ」 「ごめん。でもやっぱり……」 「剣のせい?」 険悪なアルディアの声にメロールは笑みを浮かべる。謝罪の代わり、彼の唇に自分のそれを触れされた。 「あの子は物理的に自分の身を守る形を望んでいたから。それに、あの無謀さはリィ・サイファを思わせる。彼が剣をとったらどうなるんだろうと、ちょっと、思ってしまって……」 「興味だけで訓練したということかな?」 「そこまでひどいことは言わないよ」 アルディアは言っているように聞こえたが、賢明にもそれを無視する。もっとも、剣を手にしたリィ・サイファを想像しては笑うのに忙しかったせいもあるのだが。 「早く帰ってきて欲しいよ」 「寂しい、メル?」 「と言うより、心配で仕方ない」 深く嘆息する彼をアルディアは微笑んで見ていた。きっと帰ってきたらカロルは長々と説教されるのだろう。そして説教する機会をメロールは待ち望んでいるのだろう、カロルが、無事に帰ってくるそのときを。 「長いね」 「長いな」 呟きと溜息。半エルフの二人が、たったこれだけの時間をじりじりと感じている。時には季節の移ろいすら忘れてしまう半エルフの二人が。 「早く帰っておいで、カロル」 漆黒の闇に向けて、今もそこで戦っているカロルに向けてメロールは呟いていた。 |