メロールが自室に戻ったのは、真夜中を過ぎたころだった。いくら人間より睡眠を必要とはしない体であっても、こう連日連夜の折衝はやりきれない。
「疲れた……」
 思わず呟いて髪をかきあげた。指先に顔の横で編んだ髪が引っかかる。そんな些細なことが癇に障って仕方なかった。
「お帰り、メル」
 突然、声をかけられメロールは驚く。目を丸くしたその顔を見てアルディアが笑った。
「どうしたの?」
「いや……、別に……」
「疲れた顔してるね」
「……うん」
 ふと顔を伏せれば、アルディアの手が髪を撫でてくれた。心地良さに思わず目を閉じる。
「お茶でも淹れようか」
「ありがとう。アル」
「うん?」
「疲れてるのは、お前もだろ」
「まぁね。でも君ほどじゃないから」
 苦笑の気配が頭上からした。アルディアの、そのような言い方など珍しいだけに、メロールは彼の疲労具合を知る。
「ごめん」
「そんなことで謝らない。ね?」
 それだけを言って彼は離れていった。温かい体がそこにないだけで、ずいぶん寒いものだと思う。それにメロールは疲れているな、そう感じる。
「メル」
「なに」
「君が……」
 いい香りがしていた。茶を淹れているアルディアは、メロールに背を向けたままだった。真夜中の王宮は、普段だったらしんとして声もないだろう。
 だが、いまは。王宮のすぐ目の前に魔術師の塔がある。騒ぎ立てるだけで対処のできない人間があまりにも多すぎた。
「アルディア。言いたいことがあるなら、言って」
 メロールが折衝している相手は、そのような人間たちだった。送り込んでも無駄な人員を塔に放り込んで無駄死にさせる気は、メロールにはさらさらない。
 いくら異種族とは言え、いや、だからこそ意味のない死を見たくはない。定められた命の時を持たない半エルフだからこそ、メロールは人間の命を惜しむ。
「うん……」
 熱いカップから茶の香りが漂っていた。手渡されればじんわりと指先が温まっていく。疲労が溶けていくようで快かった。
「君がね、塔に行ったほうが早く済んだんじゃないかな、と思って」
 ずっと言いたかったのだろう、アルディアにはいままで我慢を重ねたのがこぼれだしてしまった、そんな気配があった。
「君が無理して疲れるのを、見たくないよ」
 片手に自分のカップを持ったまま、アルディアの手が伸びてくる。ソファに腰掛けたメロールの頬に向かって。覗き込む目は、心からの不安を表していた。
「君が行けば、もっと早く終わったと思う。相手は人間だからね。君の魔法に太刀打ちできるとは、俺は思えない」
「まぁ、ね」
「だろう? だったら……」
「人間だからだよ、アル」
 彼の言葉を遮ってメロールは言う。頬に添えられたアルディアの手に自分のそれを重ねた。
「私が行けば確かにもっとずっと早く全部かたがついたはず」
 それは自信ではなく、ただの間違いのない予想だった。あの塔で何が起こっているのか、メロールにはほぼ見当がついていた。
「だからと言って私が手を出していい問題じゃないんだ、アル」
「どうして」
「これは、カロルとフェリクスの問題」
「フェリクスも、なのかな」
 首を傾げて不思議そうにアルディアは言った。メロールの弟子であるカロルとは親しかったが、意外なことにフェリクスとはあまり近しく会話をしたことがない。
 だからアルディアはフェリクスがどういう子供なのかもよくはわからなかった。ただ、まるで昔の自分たちのように人間が嫌いなのだとしか。
 いまでこそ二人はこうしてラクルーサの王宮に仕えている。だが二百年ほど前までは、人間を避けて隠れ里に住み暮らしていたのだ。
 それを破ったのはリィ・サイファと言う一人の魔術師。彼がいなかったならば、二人は今でも間違いなく人間を憎んでいたことだろう。そして闇へと落ちていたことだろう。
「フェリクスは、カロルの弟子だから」
 ぽつりとメロールはそれだけを言った。師弟の間に通う情愛は、魔法に長けているとは言えないアルディアには理解ができないものだった。
 彼は半エルフだ。生来の才能によってある程度は魔法を使うことはできる。だが以前の真言葉魔法や現在の鍵語魔法のよう、修得しなければ発動させることのできない魔法には縁がない。
 だから、師弟の関係がわからなかった。メロールとカロル、あるいはカロルとフェリクスを見ていると、それはとても濃密で温かなものなのだとは思う。もっとも、そうではない関係と言うのも、知ってはいたが。
「やっぱり可愛い弟子なんだね、あの子にとっては」
「そうだね、あっという間だね」
 人間に慣れたとは言え、二人にとって人間の生きる速さは想像を絶する。ついこの前まで、カロルは少年だったはずなのに、いまは大人になって弟子までいる。どこか寂しさをかきたてられる思いだった。
「フェリクスが、心配?」
「どうして、アル?」
「だって、君の可愛い弟子の弟子じゃないか」
 そのようなアルディアの言い方に思わずメロールは笑う。弟子の弟子とは言え、半ば自分とカロルと二人で教育をしたようなものだった。メロールにとってもフェリクスは愛しい者に違いはない。
「まぁ、ね。でも……」
 言葉を切ったメロールは、知らず窓の外へと視線を投げていた。外は漆黒の闇。人間の目には塔がどこにあるのかも定かではないかもしれない。だが半エルフの鋭い目は、そこに確かに塔を見る。
「やっぱりカロルのほうが心配?」
 なぜかアルディアの声に笑いが含まれ、メロールは不思議そうにそちらを見た。やはり彼は笑っていた。
「なにがおかしい?」
 もうだいぶぬるくなった茶を飲む。言い当てられた照れ隠しだったのかもしれない。
「君にとってカロルは一番可愛い弟子なんじゃないかな、と思って」
 アルディアの指先が、メロールの編んだ髪を解いていく。人間の髪とは違う半エルフのそれは、解いただけでするすると元に戻っていく。跡さえも残っていなかった。
「一番……うん、そうかもね」
 言ってメロールはちらりとアルディアを見上げる。疲労が拭い去られたかの笑顔だった。
「妬ける、アル?」
「馬鹿な。君の一番は俺だから」
「人間みたいなことを言う」
「慣れたね、ずいぶん」
「そうだね」
 そうして二人、笑顔をかわす。言葉にはしなかったけれど、二人の念頭にあったのはもうずっと前に消息がわからなくなってしまった一人の王子。
 半エルフの魔術師と共にこの世界から姿を消してしまった王子が口癖のように言っていた言葉。魔術師に、彼はいつも問うていた。
「俺が一番?」
 と。その声を聞かなくなって久しい。懐かしいと思うほど、半エルフにとっては古い記憶ではない。ただ、この困難を目の前にするとあの二人に会いたくなる。
 リィ・サイファならば、どうしただろうか。メロールは塔の出現以来、ずっとそれを考え続けてきた。アルディアは、カルム王子ならばいったいどうやって魔術師を守っただろうか、自分はどうすべきかと考え続けていた。
「会いたいね」
「会えるかな」
「どこかで」
「いつか、きっとね」
 半エルフの最後の旅の行く末で、きっと二人に会えるはず。だからそのとき誇れる自分たちでいるために、今を精一杯生きる。人間たちの間で。それが二人の約束だった。
「メル」
「うん?」
「リィ・サイファなら。どうしたと思う?」
 ずっと尋ねたかったことなのだろう。アルディアの声にはためらいがあった。それをいままで聞かずにいてくれたことが、メロールには嬉しい。
 メロールにとって、リィ・サイファはただ一人、友と呼ぶことができる存在。師と仰ぎたいほど、尊敬していた。
 その彼がいないことをこれほどまざまざと見せ付けられる事態は、この二百年というものなかったのだ。彼がいれば、彼がいてくれさえすれば。その思いはメロールを焼き続けていた。
「きっと、私と同じことを。……違うな。私は彼がこうするだろうと思ったことをしただけ」
「それがカロルを送り込むことだったのかな」
「きっとリィ・サイファはそうしたよ」
「カロルを一人で行かせたことを、いまも俺は少し後悔してる」
「アル……」
 そう言ってくれたことが、何よりメロールは嬉しかった。彼を案じているのが自分ひとりではないことを確かめることができる。カロルが帰ってくる場所は、ちゃんとここにあると言ってやれる。
「カロルは優れた魔術師だと思う。人間としてはね。これからの時代はカロルのような魔術師が魔法を繋いでいくんだろうし」
「そうだね」
「でも、カロルは魔術師じゃないか。一人で魔物がいるところに送り込むなんて。魔物だけじゃない、剣を持った人間だっているって話じゃないか」
「そうだね」
「メロール!」
「ちゃんと聞いてるよ、アル」
「本当に?」
 生返事だと思われてしまったのだろう、そのことをメロールは少し悔いる。自分だとて、それを心配していないわけではないのだ。
 ただ、カロルは自分のような魔術師とは違う。それだけが救いであり、希望であった。
「あの子は……」
「確かに俺が剣を教えた。でもあの子は魔術師だよ、メル。大勢の敵兵に囲まれたりしたら、やっぱり危ない」
 メロールは答えない。そのくらいのことは、わかっているのだ。いまできることはただ無事を祈るだけ。信仰を持たない半エルフの身が、いったいなにに祈ればいいのかなど、少しもわからなかったけれど。




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