光源の中、二人は進む。左の壁に濃い影を落とした。なにもない部屋だ。それなのに緊張は深まるばかり。
「なんもなさそうだな」
 扉の前、ほっとカロルは息をつく。それなのに肌はぴりぴりとした。これを開ければ大丈夫だ、そう思うのに体が戦闘状態に高まっていく。
「そのようですねぇ」
 言いつつリオンもまた口調に硬いものを忍ばせた。ちらり、背後を気にする。
 と、その時だった。リオンの耳に届いたわずかな軋み。不穏を感じていなければ聞き取ることはなかっただろう仄かなもの。
「カロル!」
 扉に手をかけていた彼を突き飛ばす。が、そのことがあだになる。今まで重なっていた二人の体が分散する。
「ちっ」
 カロルの舌打ち。光源から飛び出す何か。咄嗟によけることも魔法を使うこともできなかった。正体が知れない。
「伏せて――」
 言うが早いかリオンが床に膝をつく。彼の体に突き刺さるもの、矢。はっとして駆け寄ろうとするのを制された。
 カロルは振り返り、扉に手をかける。再び舌打ち。扉には鍵がかかっていた。魔法を紡ぎあげる。その間にも次々と矢は飛んでくる。
「我こそは愛しきエイシャの盾――!」
 リオンの詠唱。物理防御の魔法盾だろう、カロルはそれを耳で聞く。これで体に傷を負うことはない。
 そう思ったときだった、カロルの肩に矢が突き刺さったのは。床でリオンの呻き声が聞こえる。彼もまた深手を負っていた。
「な……」
 呻きながらもリオンが呆然とした声を上げる。魔法が効果を示さなかった。そのようなはずはない。エイシャの恩寵を失うようなことはしていない。一瞬にして顔色を失ったリオンを横目にカロルが鍵開けを中断し、魔法の障壁を展開する。
「けっ、そんなこったろうと思ったぜ」
 カロルの魔法もまた効果を現さなかった。部屋に入ったとき、すでに魔封じが施されていたのだろう。気づかなかったとは、二人して迂闊だった。
「立て、ボケ」
 言われるまでもないとばかりリオンが立ち上がる。傷に体がふらついていた。
「あなたは私が守ります」
 背中を向けたまま。ハルバードを構える。薙ぎ払う。深手を負っているとは思えない動き。矢が床に落ちていく。
「我が愛撫に身を委ねよ、ロー<解錠>」
 緩やかな手でカロルが鍵を撫でた。かちり、音。今この瞬間にはどんな妙なる音にもかなわない歓喜の音だった。接触して使う魔法までもが効果を表さなかったら、と思えばカロルはぞっとする。
「行って!」
 まだリオンは矢を落とし続けていた。さすがに腕が重たいのだろう、体が鈍っている。カロルは問い返しはしなかった。今できることは扉を抜けて安全を確保することだけ。
「さっさと来い!」
 扉を抜ける。暗黒。魔法の明りを灯す。息をついた。魔法が働いた。振り返る。リオンはまだ来ない。迎えに行こうかと動いた体がかしいだ。
「ちっ」
 カロルは肩に突き立った矢に手をかける。一気に引き抜けば血が迸る。顔を顰め指先で傷に触れる。血に塗れたそれを唇に運べば苦い。
 矢は、毒矢だった。床に投げ捨て腹立ち紛れ焼き払おうとすれば目が霞む。知らず床に膝をついていた。
「カロル」
「おうよ」
「大丈夫ですか」
「テメェは」
「たいしたことないですよ」
 嘘をつけ、言いそうになった。見上げたリオンは真っ青な顔をしている。体力は確かに魔術師よりある。が、それを上回る矢を彼は受けた。その分、毒も効いているだろう。
「カロル」
 答えずカロルは床を這う。扉の前に辿り着き、伸び上がって鍵に触れた。
「何故に汝その身を開きしか、トー<鎖錠>」
 強い魔法錠を施す。しばしの間は安全だった。少なくとも自分以上の力を持つものがいない限り、この扉が開くことはない。
「これ以上の毒は勘弁だからな」
 嘯いて笑う。そのまま床に倒れ伏した。
「カロル!」
 自分もつらいだろうにリオンは彼の元に駆け寄り抱き起こす。素直に抱かれたのがリオンの背筋を冷やした。
「うっせェ」
「いま……」
「テメェが先だ」
「私なら……」
 毒に意識も朦朧としているだろうに。それなのにカロルはリオンを睨み上げた。途端に体を引きつらせる。仰け反った喉が不吉なほど白かった。
「テメェが先だ」
 息を喘がせ、なおもカロルは言い募る。リオンは黙ってうなずき、詠唱を始める。ゆるゆると、リオンの体から魔法が立ち上るようだった。毒に視界が歪められているせいだろう、カロルの目には現実より生々しい魔法が視えていた。
「優しきエイシャ、かの毒を捧げん」
 呪文の完成と共に彼の体から魔法ではない何かが揺らぎ上る。カロルは見えにくい目を瞬いた。毒が、肌と言う肌から抜け出ようとしている。
「カロル」
「まだ」
「カロル!」
「ついでに怪我治せ」
「だめです」
 有無を言わさず呪文を投じた。毒に侵された彼をあしらうなど、たいした手間でもない。それをカロルも自覚しているのだろう、今度は素直に受け入れる。
「く……」
 毒が抜けていくその感覚。リオンは平然と堪えたというのに、カロルの喉からは苦痛が絞り出された。肌が熱い。体の奥底が燃えるようだった。
「頑張って、すぐ済みますから」
 耳許で囁かれた声に意を強くする。優しい手が髪を撫でていた。まるで自分のほうが痛みでもするように。
「手加減……」
「え?」
「もうちっと手加減しろよ、ボケ神官!」
 抱きしめた体から聞こえた頼もしい罵り声。リオンは顔をほころばせて腕の中を見下ろした。まだ青白い顔をしていたけれど、毒の影響は脱したらしい。
「よかった……」
 傷に障らないよう、そっと抱きしめる。もがく体にまだ力がないのが心配だった。
「テメェ」
 小さな罵声。リオンには囁きほどの大きさで聞こえた。仄かな甘さを伴って。
「さっさと傷治せよ」
「はい」
「このクソ坊主め」
 ひとつ背中を叩かれる。戯れのようなそれにリオンは顔を上げた。カロルの、翠の目を覗き込む。毒の熱に浮かされている様子はなかった。
「麗しきエイシャよ、御身によりて真を求む」
 カロルの体を抱いたまま、リオンは呪文を紡ぎ上げ、自らの怪我をわずかずつ治していく。ついでだと言わんばかりにして、彼の怪我をも治療しながら。ただカロルの肩の傷を簡単に塞ぐのみ。完治させるには、今は体力を失いすぎている。
「どうです?」
「あぁ」
「よかった。間に合って」
 大袈裟な笑顔で言うリオンをカロルは睨み、そしていまさらながら腕の中にいることを思い出しては体をよじった。
「その恥ずかしい呪文、なんとかなんねェのかよ」
「え?」
「呪文」
「恥ずかしい……ですか?」
 リオンはきょとんと彼を見つめた。いったいどこが恥ずかしいというのだろうか。取り立てておかしなことは言っていない、彼はそう思っていた。
「麗しいだ優しいだ、愛しいだってなァ、口にするもおぞましい」
 さも忌々しげに言ったカロルの頬をリオンは思わず両手で包む。
「なんだよ、離せ」
「……可愛い。カロル」
「おいコラ、このクソボケ坊主!」
「うーん、照れて焼きもち妬いてるあなたってやっぱり可愛いなぁ。あとで我が女神に感謝の祈りを捧げなくては。あなたに会わせてくださった感謝をね」
 すぐ目の前で、くちづけの近さでリオンが微笑んでいる。漆黒の目が、柔らかく和んでいる。そむけようとした目は吸い寄せられたよう動かなくてカロルを動揺させた。
「ボケたことぬかしてんじゃねェよ」
 そんな他愛ない罵声を浴びせるだけ。案の定、リオンは笑みを深めただけだった。
「少し休みましょう」
 ちらりと視線を飛ばし、リオンは別の扉を見つけたのだろう。カロルの側を離れすぐに戻る。次の扉を封印してきたに違いなかった。
 その間、今になってようやくカロルは自分自身を取り戻した。ふつふつと腹の中に滾るものがある。拳を握り、開く。
「カロル?」
 彼の周りに漂う何かを感じないほど疎いリオンではなかった。現に神官の目には冷たく燃え盛る炎が視えている。それでも不思議そうな声を装って呼びかけたのは、吐き出させてしまいたかったから。
 無言のカロルの横に腰を下ろした。リオンは悟られないよう体の力を抜く。まるでそれを見計らってでもいたよう、カロルの拳が腹にめり込んだ。さすがに、予想していたとは言え傷を癒したばかりの体にはこたえた。体を二つに折ってリオンは呻く。
「……誰が誰を守るだ?」
 背中にも拳が落ちてきた。そうする彼のほうが痛いだろうに、リオンは痛みの中でそれを思う。
「ふざけんじゃねェ。守られるなんざ柄じゃねェ。そんなこたァ期待してない」
 疲れたのだろうか。リオンの体を押しやるよう、拳で突く。ゆっくりとリオンは体を起こした。
 何かを言いかけたカロルの言葉を封じるよう、彼の両手を掴んだ。緩やかに握っているだけ、痛くはないはずだ。それなのにカロルは顔を顰める。触れられていることこそが痛いのだと。
「なに馬鹿なことを言ってるんですか」
「テメェ」
「自分一人で生きてきたつもりですか。あなたにも親があったでしょう、師がいるでしょう。守られるのが柄じゃない? そうじゃなくても守られることはあるんです」
「うっせェ、テメェになにがわかる」
「わかりませんよ、私はあなたじゃないから」
 突き放す口調。カロルは瞬いて目を上げた。リオンが唇を引き結んでいる。黒い目に燃える熱。ようやく怒っているらしいと悟った。




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