息をつくリオンを横目にカロルは別の方向を見やった。すなわちケイブトロルのきた方を。そこには真の闇が広がっている。試すまでもない。一階で見た光を通さぬ闇だった。
「けっ」
 ケイブトロルには絶好の隠れ場所だっただろう。光を厭う彼らのこと、これほど適した場所もない。
 そしてカロルはまんまと罠に嵌った自分を自覚する。ここに自分が来たことが知られているのは、階下で見た水晶からもわかっていたこと。そしてまたここに水晶があった。
 フェリクスの幻影。これを見つければ、カロルの足は止まる。たとえ一瞬であっても。そのわずかな間に不意打ちは可能となる。もっとも、動作の鈍いケイブトロルであったため、襲撃は半ば未完ではあったが。
「行くぞ」
 腹立たしく思う。フェリクスの幻影を使われたこと。何より自分が嵌り込んだこと。罠だとどこかで知りながら、それでも足を止めざるを得なかった自分と言う存在。唇を噛みしめれば、わずかに血の味がした。
「カロル」
「なんだよ」
 鬱陶しそうに下を見た。自分の手が、リオンに取られている。利き手にハルバードを握ったリオンが、困った顔をしている。
「暗いですから」
「俺は全然――」
「私が困るんです。あなたがなにしでかすかと思うと気が気じゃなくて」
「テメェ俺をなんだと思ってる」
「あなたはあなたでしょ」
 答えになっていない。が、これ以上ない答えでもある。カロルはむっつりと口をつぐみ、リオンのしたいままにさせた。
 実際、闇の中に入ってしまえば互いの姿など見えるはずもない。ただの闇ではないのだ。暗いのではない。視覚が奪われるに等しい。
「行きましょう」
 ゆるりと手を握られたまま進む。すぐに目が見えなくなった。右手に感じる戦士のような荒れた手だけがリオンがそこにいることを伝えた。
 どこか、頼もしい。乾いた手だった。五感のうち、人間が最も多用するのは視覚だ。それが奪われるだけで、進む方角すら誤るのが人間と言うもの。いつか不思議そうにメロールが言っていた。半エルフだとて真の闇にあっては何も見えないという。けれど彼らは人間より遥かに感覚が鋭かった。己の目で見、肌で感じ匂いを嗅ぎ、そうしたものしか人間は信じようとしない。以前メロールが少し寂しそうにそう言っていたのをカロルは思い出す。
 けれどそれが人間と言う種族でもあった。それが奪われている今、二人はもっと緊張してしかるべきだった。が、リオンは掌に汗一つかいていない。まるで見えでもしているよう真っ直ぐに進んでいる。足元の確かさに、半エルフのようだなど思ってカロルはひっそり笑った。
「カロル!」
 突然のことだった、繋いだ手を引かれたのは。なにをと問う間もない、床の上に引き倒される。打ちつけた体が痛んだ。
「テメ……」
 怒鳴りつけようとした正にその瞬間、風鳴りが聞こえた。巨大な棍棒を振り回す音。カロルの顔がさっと青ざめた。
「これを!」
 手の中、何かを握らされる。小さな硬い物。鼻に届いたのはどこかしらリオンを思わせる優しい香り。
「走って!」
「ボケ坊主!」
「いいから、行って!」
 舌打ちをする。そしてカロルは走った。どこを走っているのかなどわからない。ただ、魔術師の常として人間としては感覚が鋭い。カロル自身は直線と信じて走っていた。
 手の中にリオンの銀珠を感じる。背後からはリオンの気合とケイブトロルの呻きが聞こえてくる。何もできない、それがこんなにも悔しい。
 今ここで、この闇の中でリオンの陽光は出現するのだろうか。もしもそうでなかったら。リオンが再び戻ることはあるのだろうか。
「ちっ」
 立ち止まりたくなる。戻りたくなる。ケイブトロルが一匹、この闇に潜んでいたとは不覚の極み。優しい香りが胸に痛い。
「ボケ」
 呟く。走る。握りこんだ掌に、爪があたって痛かった。大切な物だから、託した。リオンの銀珠。エイシャの神官にとって、聖印に次いで大切な物だろう。そう思った途端、カロルはぞっとした。
 立ち止まってはいけない。そうわかっているのに足が動かなかった。止まっているのではなかった。立ち竦んでいた、カロルが。メロール・カロリナともあろう者が。
「師匠……」
 情けなかった。動けないことが、守られていることが、自分ひとり、逃がされたことが。
「せめてそこでリオン、と呼べないんですか。あなたは」
 はっとした。振り返る。どこにいるのかはわからない。けれど呆れ声は確かに。
「このボケ坊主! どこ行ってやがった!」
「ちょっとケイブトロルと遊びに。帰ってきたんだから怒らないでくださいって」
「誰が怒ってる、あん?」
「心配で怒ってたんでしょうに。ね、カロル?」
「ざけたことぬかしてんじゃねェぞ、クソ神官!」
 喚き散らすカロルを安堵させたくて、肩に手を置く。一度、痙攣するようにカロルは震えた。
「あ、カロル。返してください」
「あん?」
「香炉」
 言われてはじめてまだ握っていたことに気づいた。忌々しげに手を開こうとするも、まるで開かなかった。
 そっとリオンが笑った気がする。思わず顔をそむけ、そして見えないことを思い出す。リオンの指がカロルの指先をほぐしていく。硬く握り締めたあまり開かなくなってしまった指を。
「……なんで渡した」
「え?」
「これ、なんで渡したのかって聞いてんだよ!」
「あぁ……もしかして形見かなんかだと思いました?」
 確かにリオンが笑った。カロルは無言で蹴り飛ばす。かすかに血の匂いがした。それほど強く蹴ってはいない。訝しげにリオンを窺えば、どうやら負傷しているらしい気配。カロルは唇を噛んだ。
「誰がそんなこと思うか、ボケ」
 罵り声は呟きほどの大きさだった。だからリオンはカロルが不安を覚えていたことを知る。密やかに微笑んで、銀珠を取り戻し、見えない彼の鼻先で振った。
「私が作った香りですからね。自分で追うのは簡単です。こんな所で迷子になられたら大変ですから」
「テメェ」
「なんですか? 行きますよ、カロル」
 罵るカロルの声を風と受け流しリオンは再び彼の手を取る。今度は抗わなかった。
「あれ、いい所にいいものが」
「それじゃわかんねェよ」
「扉。ここにあります」
 どうやら自分は扉の前で立ち竦んでいたらしい、それを思えば苦笑するしかないカロルだった。
「幸運ですねぇ。もっと迷うかと思ったのに」
「リビング・ゴールドのおかげってことにしてやるよ」
「カロルってば本当に可愛い」
「果てろ。ボケ」
 言ってから、カロルにしては珍しく後悔した。怪我をしているらしいリオン、自分の憎まれ口が原因だとは思わない、けれど。
「たいした怪我じゃないですよ。どこか明るい所に出たらすぐ治しますし」
「うっせェ!」
 また読まれたようで不愉快だった。それほどあからさまな態度ではない、そう自分では思っているはずなのに、どうしてこれほどまで簡単にリオンには読まれるのだろう。
 そしてカロルは唇を歪める、笑いの形に。問えば確実に、好きだから、と言うに決まっている。そう思って。
「あなたが好きだからわかる。それだけですよ」
「なんにも聞いてねェだろうが、腐れ神官!」
「不思議ですねぇ、聞こえた気がしましたが」
「耳がおかしいんじゃねェのか?」
 皮肉に言ってカロルはリオンの背を押した。何か硬いものにあたる音。どうやら扉に頭をぶつけたらしい。カロルは唇を吊り上げて笑った。
「うーん、なんか変な位置なんだよなぁ」
 首をひねっているのは、きっとエイシャの神官としての感覚が位置の不自然を伝えてきたからなのだろう。が、ここを進まなければ先に行かれないこともまた確か。
「行きますか」
 自分を納得させるようリオンは言い、扉に手をかけた。途端に目が眩む。扉の向こうには光があった。
「ちっ」
「少し目を慣らしましょう、これじゃなんにも見えない」
「まったくだぜ」
 忌々しいことこの上ない。闇、そして光。視覚に頼らざるを得ない人間の感覚そのものを罠と為さしめている。
「どうです?」
「いいぜ」
「では」
「ちょっと待て」
「はい?」
「手ェ離せよ」
「あぁ……失念してました」
 振り返ってリオンがにっこりと笑う。わざとらしいにもほどがある、とカロルは彼の腹を殴りかけ、ふりでとどめた。今はもう、彼の脇腹に血が滴っているのが見えていたから。
 リオンは何も言わない。黙って微笑んだのみ。それから安心させるように一つうなずいて前に向き直る。
 光源は、部屋の右手にずらりと並んだ松明だった。小部屋自体には何もない。ただ目を眩ませる仕掛けと言うところだろうか。
「あっちですね」
 幸い、と言おうか。光のおかげで扉の位置がわかる。次の扉は二人の左前方にあった。
「おう」
「カロル、念のために先に行ってください」
「あん? 囮かよ、俺は」
「違いますよ、わかってるくせに」
 茶化して言った言葉にリオンが珍しく唇を尖らせた。その仕種にカロルはひっそりと顔を顰める。彼が言うより、負傷の程度は重いのかもしれない、と。
「うっせェな。いいよ、先行きゃいいんだな?」
「そうしてください。後ろが危ないから」
「うるせェって言ってんだろ、ボケ!」
 言葉だけで殴りつけ、カロルはさっさと足を運んだ。ここで治療すると言わない。すなわちリオンはここに何らかの不安を感じているということ。カロルの肌もまた、ひしひしと敵意を感じ取っていた。




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