ゆるゆると右手、東のほうへと歩いて行く。透明な壁はいつまで経っても途切れないように思えた。薄い闇がその際限のなさをあおる。
「カロル」
 倦みはじめていたカロルをリオンがとどめた。すんでのところで彼の背中に顔をぶつけそうになり、カロルはぼんやりしていたのを知る。
 言われるまでもなく危険なことだった。魔法を行使する疲れなどまだ感じてもいない。一晩ぐっすり眠ったことで充分に回復している体だった。
 それなのにこうも呆けるとは。カロルは内心で苦笑する。リオンの、その思いの程は信用できなどしない。が、彼の戦闘における腕だけは、信用できる。それゆえの放心だった。
「なんだよ」
「ここで、壁が途切れてます」
「やっとかよ。飽きた」
「そうじゃないかなぁとは思ってましたけどね」
 振り返ったリオンが微苦笑を浮かべていた。自分でそう思っていたとしても指摘されるのは喜ばしいことではない。カロルは口をつぐんで顔をそむける。
「あの迫り出しのほうへと行かれるみたいですねぇ」
 そんなカロルの様子を意に介した様子もなくリオンは呟くよう言って、背後を確かめもせずに進んだ。つられるよう、カロルは彼の背を追う。そして忌々しげに舌打ちをした。
 今度は北へ向きを変え、壁のほうに進む。すぐに突き当たった。扉もなにもない。諦めて二人は左手に進路を取る。まるで行きつ戻りつしているようで苛立たしい。
「こっちにもありますよ」
「なにがだよ」
「壁」
 一言でリオンは指差し、手を触れて見せる。なにもない場所で手は止まった。二人の右手に同じ不可視の壁がある。煩わしくなってきた。
「面倒くせェ」
「だめですからね」
「まだなんにも言ってねェだろ!」
「魔法、使おうとしたでしょ」
「うっせェ!」
 図星を指され、カロルは罵る。こんな薄暗い場所でいつまでもうろうろしていたくない。階下は人間のために明りがついていた。それだけにいっそう暗さが身に迫る。
「こんなもん、ぶち抜いちまえばいいんだよ」
「あのねぇ、カロル」
「なんだよ」
「それで塔が崩れたら、あなたどうするつもりなんです?」
「どうって……そりゃ……」
「考えてませんでしたね?」
 言葉がなかった。その程度のことで仮にも魔術師の塔。崩れたりなどするものか、とは思うのだが、完全に否定も出来かねる。万が一の場合、フェリクス共々瓦礫の下と言うことも。
「可愛いお弟子さんを助けたかったら自重してくださいね」
「うっせえよ、ボケ」
「私も死んじゃいますよ?」
「勝手に果てろ」
 憎まれ口に精彩が欠けていた。それでリオンは彼がまるで塔の崩壊を考慮に入れていなかったことを悟る。半ば呆れ、半ば微笑ましい。
 それほどまでに真っ直ぐ助けに行きたい弟子、と言うものをリオンは持ったことがない。それほどまでに慈しんだ相手などいない。
 ほとんど気紛れのようにして入った塔だったけれど、そういう人間同士の関わりあい方があるのだと知っただけでもリオンにとっては収穫だった。そして何よりカロルに出会った。
「カロル!」
 笑みを浮かべながら進んでいたリオンの足が止まる。咄嗟に背後に手を伸ばし、カロルを止めた。が、彼は聞く耳持たず進もうとする。膨れ上がる怒りの気配。リオンの背中で炎が燃えているようだった。
「ふざけるな……」
 低い怒号。聞き取り難いそれがカロルの怒りを物語る。突き進んでいこうとする彼を必死で止め、リオンは魔法を紡ぎあげる。
「どけ」
 ほんの腕の一払い。リオンの手は払い落とされた。しかしその瞬間、カロルの体に魔法が飛ぶ。淡く輝く光にカロルは振り返り牙を剥く。護身の呪文だと理解はしているだろう。けれどカロルは今、そのようなものを望んではいなかった。
 一直線にカロルが進む。足取りにためらいはなかった。詠唱したとも思えない動作でカロルの手の中、炎の剣が出現する。
「カロル……」
 声は、リオンのものではなかった。もっとずっと細い少年のもの。
「テメェ」
 誰に向かって罵るのか。カロルの正面に、水晶があった。階下で見かけた破片ではない。完全な形でここにある。
 透き通った、巨大な水晶だった。まるでその中に少年が捕らえられてでもいるよう。透明な牢獄に捕らえられた少年は、壁に手をあて、あたう限りの声を振り絞り、師を呼んでいた。
 怯えた黒い目が、カロルを求めている。柔らかい黒髪が、恐怖ゆえだろうか、濡れた額に張り付いて師を探している。浅黒い肌は血の気を失っていた。
「カロル……!」
 何度も壁を叩く。決して壊れはしないそれをいったいどれほどの時間彼は叩き続けているのだろう。破れた拳から血が滴っていた。
「フェリクス」
 囚われ人に、届かないカロルの声。水晶の前、立ち尽くす。
「幻影です」
 その肩に置かれた強い手。払い落としはしなかった。
「わかってるよ」
 ぽつり、呟く。その間も悲鳴じみたフェリクスの声は聞こえ続けている。
 ぎゅっとカロルは拳を握り締めた。リオンの言葉を聞くまでもない。これが幻影だとは見た瞬間からわかっている。フェリクスはここにはいない。ただ彼の影だけがここにある。握った拳を緩め、カロルは剣を振り上げた。
「カロル、下がって!」
 水晶に振り落とされる寸前、リオンが叫んだ。いまさら止めることもできない剣が水晶に突き刺さる。涼しい破裂音。幾千万もの破片が薄暗がりの魔法の明かりにきらきらと光っては飛び散った。
「カロル!」
 腕が引かれた。破片から目を庇っていたカロルは、敵の襲撃を見落とした。
「ちっ」
 リオンの舌打ち。体勢を立て直す間もない。彼の腕に抱えられたまま、カロルは引きずられ暗い廊下を下がっていく。
「カロル……」
「カロル……」
「カロル……」
 水晶の破片から、幾通りもの声。そのすべてがフェリクスの声。ほんのわずかの間、カロルの思考は白く焼かれる。
「ふざけんじゃねェ!」
 長い詠唱の手間などかけなかった。叩きつけるよう、唱えた言葉。
「イルゥ!」
 カロルが弓を引く。まるで誰にも見えないそれを持っているかのよう。そして矢が飛び出す。光の矢が、敵に突き刺さる。苦悶と悲鳴。
 ゴブリンの一群がこちらもまた、弓を構えていた。その大半が、カロルの先制攻撃の前に倒れている。が、無事であった数匹が、弓を引いた。
「カロル!」
 惑乱した。リオンの声だとわかってはいるはずなのに、カロルの耳に届いたのはフェリクスの悲鳴。止まらなかった。再び光の矢を放つ。
 が、今度は何者かがそれを遮った。舌打ちをして呪文を組み上げるカロルの声が止まった。
「なんでこんなとこにあんなもんがいるんだよ!」
 喚いて、反って理性が蘇る。
「知りませんよ!」
「なんとかしろ、ボケ!」
「だから下がってっていってるでしょ!」
 珍しく焦ったリオンの声。それでカロルは完全に復調を果たした。
 二人の前、ケイブトロルが足音を響かせ向かってきていた。ゴブリン弓兵は、その影に隠れたのだろう。威力のない矢が飛んでくる。辛うじて飛んできたそれも、いつのまに展開したのかリオンの障壁に阻まれそらされた。
「ぶっ潰す」
 わずかにためらったあと、カロルは中断していた詠唱を再開する。その腕をリオンが引いた。煩わしげに払う。
「カロル!」
 切羽詰ったリオンの声。竜と対峙した時でさえこれほどではなかったものを。不意打ちに近い状態で戦闘に持ち込まれたのが二人の動揺を誘っていた。
 一瞬、カロルの視線がリオンに向く。それでカロルは呪文の相手を変更した。狙うはゴブリン。
「爆流となり吹き荒れよ炎、ズムサルド<火炎>――!」
 炎の奔流が辺りを圧し、ゴブリンを飲み込んでいく。
「けっ、雑魚相手にもったいねェ」
 嘯くのも当然かもしれない。悲鳴一つ上がらない。まるで激流のような炎に飲み込まれたゴブリンは跡形もなかった。
 けれど五つの影が健在のままだった。醜く大きな贋物めいた人影。襤褸屑のような腰布を一枚まとっているだけの、愚鈍そうな表情。しかしケイブトロルは恐るべき種族だった。カロルが放った炎も、彼らの肌を焼いたのみ。そして一歩ごとにその肌は再生を果たしている。二人が恐れたのもむべなるかな。
 風鳴りの音。ケイブトロルが棍棒を振り回した。その一撃で、カロルなど壁にへばりついた血の染みになるだろう。
「万物を慈しむ光よ――!」
 そのとき薄闇を陽光が引き裂いた。耳を覆う悲鳴。ケイブトロルが痛みにだろうか、喘いでいる。あるものは仰け反り、あるものはうずくまり。そしてその姿のまま動きを止めた。
 わずかに青ざめたカロルの顔を、温かい光が照らした。はっとして振り返る。リオンの掌の中にあるもの。
「伏せて」
 短い言葉。呪文の維持に集中するリオンの額に汗が浮いている。ケイブトロルの唯一の弱点。それは日の光。神官だけが、日光を呼び寄せることができる。太陽は、あらゆる生き物の上に降り注ぐ賜り物ゆえに。
 リオンの唇が、別の呪文を紡ぎだす。カロルにできることは何もない。邪魔をせず見守るだけ。そのことがなににもまして忌々しい。
 投じられた呪文の効果は、魔法を能くするものでなければ見えなかっただろう。ケイブトロルの周囲に、冷たい結界が張られていた。
 ちらりとリオンの視線が飛んでくる。唇に刻まれた笑みにカロルの背筋が慄いた。戦いの余韻に、そしてフェリクスの姿を見た怒りに。胸が高鳴る。
 ケイブトロルに向き直ったリオンの手から、小さな太陽が放たれる。不可視の結界の中、その陽光はいつまでも輝き続けるだろう。そしてケイブトロルは光ある限り、二度と動くことはないだろう。




モドル   ススム   トップへ