まだ背後でぶつぶつと文句を言っているカロルの声が聞こえる。リオンはそれこそ彼のよう、聞こえないふりをして階段に向かった。 下から見上げる。上は闇だった。あの闇の魔物がいるようではない。ただ、暗かった。ならば階上には、人間はいないのかもしれない。 リオンはわずかに落胆する。この階ではフェリクスの情報を得ることが出来なかった。カロルの胸のうちを思えば残念であった。 「ねぇ、カロル」 ついてきているのを確かめもしない。軽い魔術師の靴はほとんど音を立てなかった。が、リオンには彼の気配がすぐそこにあるのがわかっている。 「なんだよ」 案の定、すぐ側から声は聞こえてきた。そのことに妙な安心を覚える。 「ちょっと聞いてもいいですか」 「聞きたきゃ聞けよ。答えるかどうかはわかんねェ」 「別にいいですよ」 真剣に尋ねたいと思っているわけではなかった。彼の答えがどうであれ、自分の気持ちは同じこと。闇に気を紛れさせるための雑談に過ぎない。 それを感じ取ったのだろうか。カロルの魔法の明りが前に飛ぶ。足元を照らすそれのほかにひとつ、ぼんやりとしたものであっても明りがある。それにリオンはほっと息をついた。 「で?」 焦れたよう、カロルが問いかけてくる。リオンはわずかにハルバードを握りなおした。 「お弟子さん、なんでしたっけ」 「フェリクス?」 「えぇ、その子ですが」 「子供って言うほどテメェと歳かわんねェぞ」 「え。そうなんですか?」 あまりにもカロルが子供扱いするせいだろうか、もっとずっと子供なのだと思い込んでいた。思わず振り返ってしまったリオンの肩をカロルは押し戻す。 「あれは幾つだ……? 二十三、四。そのくらいだな」 どうやら記憶を振り絞って思い出しているらしいカロルの声。リオンは忍び笑いを漏らす。 「笑うな」 「普通、忘れます?」 「魔術師は長生きだからな。あれの見た目はまだガキだし」 カロルの言葉にリオンはその事実を思い出す。カロルが年上だとわかってはいても、なぜかすぐに忘れがちで、彼がおそらくは自分が死んだ後もずいぶん長いこと生きるのだと信じがたかった。 「それでも私よりはだいぶ下ですねぇ」 「そうなのか?」 「あなたにとってはたいした差ではないでしょうけどね。十近くは違いますよ」 ごく普通の人間にとって十歳の年齢差は大きいのだろう。改めてカロルは認識する。常々半エルフと暮していると年齢などと言うものを意識することを忘れてしまう。 「そんで、フェリクスがなんだってんだよ?」 別段、フェリクスの年が知りたいというわけではないのだろう。カロルが促せば、リオンの背中が困ったようだった。 「あなたは彼を愛してるのかなぁ、と思って。それだけなんですが」 「馬鹿か、テメェ」 「いいじゃないですか、呆れなくっても」 「ボケたことぬかしてんじゃねェぞ、腐れ神官」 罵り声は低い。その分カロルの怒りを物語るようだった。リオンはやはり聞かれたくないことだったか、と思う。 「阿呆な弟子を連れ戻しにいくだけだ。そんなんじゃねェ」 が、意外にもカロルの声は平静に戻って呟く。リオンに聞かせるためではない、そんな体裁を取り繕った声だった。 「あぁ……可愛い弟子?」 「おう」 「なるほどねぇ」 リオンは前を向いたまま微笑む。どうやら恋敵は今の所いないらしい。 もっとも、リオン自身明確に意識しているわけではなかったけれど、仮にフェリクスがカロルの愛しい者であったとしてもリオンは救出に手を貸しただろう。 「テメェにわかるのかよ」 「わかりますよ」 「どこがだよ!」 苛立ったカロルの口調。きっとおざなりに答えている、そう感じたに違いない。 「私にも、弟子と言うわけではありませんけど、神聖魔法を教えた見習いたちはいますからね」 あっさりと言うリオンにカロルは口をつぐむ。これだけの呪文の使い手だ。神殿にいたときはそれなりのことをしていたのだろうと思ったけれど、やはりそうだったかと思う。 神聖魔法のことはよく知らない。けれど自分がメロールから教えを受けている間、とても和やかな時間が流れたのを知っている。彼の教え子たちもまた、それを知っているのだろうか。カロルは思いを振り払うようそっと首を振った。 「意外だな」 「そうですか?」 「テメェが教えた? 向いてなさそうだがな」 わざとらしい憎まれ口。リオンがわずかに顔を伏せる。笑ったのだろう。 「けっこう向いてると思ったんですけどねぇ」 ぼやいて見せるのはカロルのため。心から向いていると思っていたならば、神殿を出てはいないだろうとリオンは思う。 「じゃあなんでこんなとこにいんだよ」 「なんででしょうねぇ」 「おいコラ、クソ坊主」 「きっと」 立ち止まった。振り返る。口許が笑っている。カロルは階段を下がりたくなる。しかし睨むよう見返した。 「あなたに会うためですよ」 まるで聞こえなかった顔をして、カロルはリオンの肩を掴んで前を向かせる。 「さっさと上れよ」 ついでに背中の真ん中を殴りつけた。息の詰まるような音がして、それなりに痛い目にあったのだと知る。それでずいぶん気が晴れた。 「そう言われましてもねぇ」 「なんだよ!」 「もう階段、終わってますから」 再び振り返り、にやりとした。彼は上り終わったから振り返ったのだ、とでも言いたげに笑みを刻んでいる。カロルはむっつりと口をつぐんだ。 「さて、と。広いなぁ」 六階は、広大な広間だった。見渡す限りなにもないように見える。右前方に壁が迫り出しているようだけれど、淡い魔法の明りでは定かに見て取ることはできない。 「カロル」 そっぽを向いた彼を哀願の口調で呼べば肩を震わせて笑っている。そんなにおかしかっただろうか、そうリオンが首をひねっている間に魔法の明りが飛んでいった。 ふわふわと前方を漂う。確かに迫り出した壁がある。が、左の方はまるで何も見えなかった。明りが届かないのか、とリオンは唇を噛む。 「違う」 「え?」 「あそこはたぶん、闇の魔法がかかってる。一階にあっただろ」 言われてリオンは思い出す。真の闇であった一階の廊下。明りを灯そうとも火はつかず、魔法で呼び出しても無駄だった。 「節穴だな」 「幻影を見破るのは得意なんですけどねぇ」 そうリオンは弁解するけれど、カロルは聞いてもいなかった。最初から、貶めるために言ったわけではない。何もかも理解されては魔術師の立つ瀬がないというもの。 リオンの目に幻覚が鮮やかに映るよう、カロルの魔術師の目はそこに魔法を見て取っている。なにかが歪められれば、すぐに気づいた。 「とりあえず、あの壁のほうに行ってみましょう」 そっとカロルの背に手をあてる。嫌がりはしなかったけれど、きつい視線で見上げてきた。リオンは苦笑して手を離す。 「べたべたすんじゃねェ」 「危険ですからね」 「わかってんだったら……ってそうじゃねェだろ!」 「おや、違いましたか?」 飄々と言い、リオンは彼の前を歩く。後ろでカロルが罵っていた。軽く握ったハルバードに、生気がみなぎっていく気分だ。 カロルはなにを言いそうになったのだろうか、とリオンは思う。危険だから離れろ。間違いなくそのつもりでしかなかった。いやだから離れろ、とは彼は思ってもいなかったのだ。 「テメェ」 密やかに笑った声が聞こえでもしたのだろう、脇腹の辺りに拳が来た。無造作に受け止めれば悔しそうな声。 「危ないですよ、カロル。あなたがそう言ったんでしょ」 「うっせェ! だいたいな――」 「待って、カロル。苦情はあとで聞きます」 「あん?」 立ち止まったリオンの隣に並ぶ。何もない空間に彼が手を伸ばすのを見ていた。それからカロルは納得が行ったとばかりにうなずいた。 「あれだな」 「えぇ」 がっくりとリオンが肩を落とした。彼の手はなにもない場所で止まっている。 そこには何もないわけではなかった。見えない壁が二人の前に立ちはだかっている。三階にあった透明な壁と同じ物だろう。 「迂回するよりないですね」 「魔法ぶち込む手があるが?」 「やめてください」 「なんでだよ。簡単でいいぜ」 「カロル」 真正面にリオンが向き直る。思わず足を引きかけたカロルの肩を両手で掴んだ。そむけようとした顔は、意外なほどのリオンの視線の強さに惹きつけられる。 「必要以上に魔法を使わないでください」 「なんでだよ?」 「疲れますよ」 「別にたいしたこと……」 「また、眠りの魔法をかけられたいですか。あなたの魔法防御を破るのは並大抵の努力では無理なんですが」 茶化した口調の中に切迫したものがある。いざとなればリオンはまた自分の意思を無視して抱くだろう。そして魔法をかけるだろう。 「うるせェな」 抱かれるのがいやだというのはとりあえず横に置くとしても、リオンもまた、したくないことをするのだと悟ってしまった。そのような抱き合い方はしたくない、リオンの目の中に見つけてしまった。 「カロル」 だからカロルは唇を引き結ぶ。案じられたのが心地良かったのではない。ただ、何かよくわからないけれど、リオンにいやなことをさせたくはない。そう思ったのかもしれない。 振り返りもせず透明な壁に沿って歩いていくカロルを、いつの間にかリオンは追い越し、わずかばかり顔を振り向けて微笑んだ。 |