気晴らしをしろとばかり殴らせたリオンがあんまりにも腹立たしくて、もう一度リオンの腹を殴りつける。 「そんなことしたら自分のほうが痛いでしょうに」 それなのにリオンは少しもこたえた風ではなかった。口許に微苦笑すら刻んでいる。握った拳が痛いだろうと両手で包まれれば温かい。咄嗟にカロルは振り払う。 「だったらどうしろってんだよ、あん?」 「うーん、こっちにしたらどうです?」 そう言って、体をかがめては頬を差し出してきた。カロルはそれをじっと見、そして馬鹿らしくなっては鼻で笑った。 「やめた」 そんなことをしては、痴話喧嘩にしか見えない。たとえ誰も見てはいなくとも、自分が知っている。おそらくは、リオンもまた。 「それは残念」 わずかばかり首を傾げて言ったリオンの口許。確実に笑っていた。隠そうとしているのだろうが、カロルにははっきりと見えている。だからやはり、わざとやっていたのだ、からかわれたのだと知る。意外と不愉快ではなかった。殴りつけるよりも簡単に気分が良くなってしまった自分にこそカロルは驚いていた。 「なんかあるな」 話題を変えるべく視線を巡らせたカロルの目に留まったもの。部屋の隅に積み上げられた箱。薄汚れて元がなんであったのかも定かではない。 「なんでしょうねぇ」 「おいコラ」 「どうしました?」 「触んなよ」 「大丈夫そうですよ」 「勝手にしな」 吐き出すよう言ったカロルにリオンは微笑む。わざわざ側に戻っては彼の頬を撫でた。口ではなにを言おうともカロルの心根は優しい。あのような無茶苦茶をした自分であってもきちんと案じてくれる。それが嬉しいと共にわずかばかり胸が痛んだ。 「心配してくださって、嬉しいです」 「ほざけ、ボケ」 「うーん、可愛いなぁ」 カロルは無言でリオンの頬を張り飛ばす。それなのに彼はにんまりと笑った。笑みを見て、しまったと思う。が、遅かった。今の今、自分で馬鹿らしいと思ったばかりであったと言うのに。 けれどリオンはそれ以上なにを言いもしなかった。ただ嬉しげに笑みを浮かべたばかり。そして黙って箱のところへと戻っていった。 薄汚れた箱を一つ二つと床に下ろしていく。リオンが問題ないと見極めたものだとカロルは見当をつけ、蓋を開けていった。 「ちっ」 思わず舌打ちをしてしまう。ご大層にしまっておくようなものは何一つ入っていなかった。ゴブリン相手だからと元々期待はしていなかったものの、やはり面白くはない。 「なんでした?」 「ごみ」 「他には」 「屑」 「えーと」 「テメェも入ってたらどうだ?」 「謹んで遠慮しますよ」 笑い声を上げ、リオンは言い返す。ちらりと横目でカロルを見た目つきが柔らかい。それにカロルは自分が唇を尖らせていたのを悟った。 「もうちょっと期待してました?」 「別に」 「残念でしたねぇ」 「うっせェ」 「あ、なんかありますよ、ほら」 この程度の罵声など、すっかり慣れてしまったリオンはまるで意に介しもせず箱の中をあさっていた。その手が小瓶を取り上げる。 箱同様に汚れた小瓶だった。中には何か液体が入っているらしい。振ると水音がする。 「なんか書いてあるぜ」 「本当だ。うーん?」 「貸せ」 リオンの手から取り上げようと手を伸ばせば彼が頭上に掲げる。思わず手が追った。届かない。さほど身長が違うわけではないのだが、若干とは言え彼のほうが高い。加えてリオンは腕が長いらしい。カロルの手は宙で泳いだ。 「カロル」 「なんだよ」 「背伸びしちゃって、可愛いですね」 「テメェ!」 言われてようやくカロルは気づく。知らないうちにリオンの肩に片手を置いて背伸びをしては小瓶を追っていた。 「負けず嫌いだなぁ。そんなところも素敵です」 「さっさと寄越しやがれクソ坊主!」 「はいはい」 何かこれ以上はないほど楽しいことでもあったようにリオンは笑いカロルに小瓶を渡す。易々と渡すくらいならばはじめからそうすればいいとカロルは不機嫌に唇を引きしめた。 「傷薬だな」 瓶に書いてあった文字を読み取ったカロルは言う。人間の、通常言語を用いて書かれているのだが、ゴブリン風に歪めた用法で意図が伝わりにくかった。 「それは幸運、と言うべきでしょうかねぇ」 「違うな」 「やっぱり?」 何事かを納得したのだろう、リオンがうなずく。納得いかないのは、カロルだった。 「どういう意味だコラ」 「ゴブリンの傷薬、と言うことは大方、傷を与える薬、と言うことではなかろうか、と想像しますが?」 「わかってんだったらボケたことぬかしてんじゃねェ!」 いっそ小瓶の中身を頭からかけてやろうかとカロルは思う。思い止まったのは、彼に寄せる何らかの感情ゆえではなく、神官に傷を与えてもどうせ自分ですぐに治すことができることに思い至ったせい。カロルは無駄をしなかった。 「まぁ、何かあるとは思っていませんでしたしね。捨てて行きましょうか」 カロルの手から弄んでいる小瓶を取り上げリオンは部屋の隅へと放り投げる。小さく涼やかな音を立てて小瓶は転がった。 突然のことだった。壁に当たった小瓶が爆発する。衝撃で、木っ端微塵になった瓶の破片が飛び散った。咄嗟にリオンが障壁を展開しなければ二人ともが傷を負ったことだろう。 「……ボケ」 「はい」 「大ボケ」 「まったくです」 「死にたかったら勝手に死ね。俺を巻き込むんじゃねェよ、クソボケ!」 「えぇ、まったく。返す言葉がありませんねぇ。こういう薬でしたか」 「おいコラ、ボケ」 「なんです?」 「テメェ、わかっててやってねェか?」 少しばかり不安になってくる。この常軌を逸した神官が、いっそ自分もろとも死のうと考えることがあり得るような気がしてきた。 「そんなことはないですよ」 じっとりとした目で見上げてくるカロルにリオンは虚ろに笑った。事実、今のは不幸な偶然だった。もっともカロルがそれを信じるかどうかは疑わしいが。 「俺はテメェと心中なんぞごめんだからな」 「私もですよ」 「ほんとかよ」 「本気ですって。一緒に死んでくれとは言いたくないですねぇ」 「あん?」 どうもやはり疑わしい。この飄々とした口調が曲者なのだとカロルは思う。なにを言っても嘘のように聞こえる。 「一緒に死ぬくらいの覚悟があるんだったら、一緒に生きる道を探すことができるはずですよ。違いますか?」 「……どうも話がずれてるような気がすんのは俺の気のせいか?」 呟いて、カロルはリオンの返答を待たず会話を打ち切った。部屋の中を見回す。ここには入ってきた扉以外に扉がなかった。 「行き止まりってこたァねェよな」 一人首をひねって壁を叩いて回る。そのようなことで見つかるとは思ってもいないが、何もしないよりはいい。 「カロル」 「なんだよ」 「こっちです」 そんなカロルを微笑ましげに見つめていたリオンが、一直線に壁に向かって歩いていく。 「さっさと言えよ、ボケ」 罵り声にリオンは微笑むばかり。幻想と真実の女神に仕える神官にとって、隠された扉を見破ることなど容易かった。 リオンがこつりと壁を叩く。その動作に壁が震えるように見えた。次の瞬間、扉はそこにある。カロルはこっそりと溜息をついた。 「さ、行きましょう」 隠し扉を無造作に開ける。何もいないことを確信している仕種だった。あまりにも易々とした動作過ぎて本当に確かめているのかさえもが疑わしく思えてくるカロルだった。 「おい」 次の部屋は闇だった。階下で襲われた闇が記憶に蘇る。だがしかしカロルが放った魔法の明りに闇は退けられた。 「クソ坊主!」 その明りの中に浮かび上がるもの。ひしゃげた顔、骨ばった小さな体、尖った耳。その背にあるのは蝙蝠の皮膜。 「下がって、カロル!」 リオンがハルバードを構えなおす。彼から聞こえた舌打ちに、カロルははっとした。カロルが相手をしかと見定めるより先にリオンが突進していった。 闇の中、ガーゴイルが浮かび上がる。まるで二人を嘲笑するように微動だにしなかった。 「止まれ!」 そのことに気づいたカロルが声を上げたのが遅きに失した。ハルバードは、止まらない。リオンのそれがガーゴイルを撃った。 「あ……」 まるで先程の小瓶の衝撃音を何倍にもしたような音。ガーゴイルが、それを模した彫像が砕け散る。カロルの頬が青ざめた。が、爆発は起こらない。ほっと息をついて駆け寄ったカロルはリオンの体がぬらぬらと光る液体に塗れているのを見て取った。 「ぬかりました」 リオンが苦笑していた。自らの体を見下ろして、頭を抱えている。彼の体に降りかかったもの、それは油だった。 「すべりますねぇ、これ」 「大ボケだな」 「まったく。今日はだめですねぇ、私」 少しばかり落ち込んでいるのだろうか、苦笑する顔にも精彩がない。カロルはそんなリオンを見上げてにんまりと笑みを浮かべた。 「おいクソ坊主」 「なんでしょう」 「俺を……信用するか?」 その口調にリオンが目を上げる。言葉はなかった。ただリオンはうなずいただけ。何よりも雄弁だった。カロルは舌打ちをしながらも笑みを浮かべる。そして詠唱。 「燃え上がれ万物の根源――」 リオンはじっとカロルを見ていた。いつもよりずっと真剣な表情で魔法を紡ぐ彼を見ていた。 「――サルド<火球>」 そしてリオンの全身が、炎に包まれて見えなくなった。 |