あからさまな不機嫌を浮かべてカロルが振り返る。用意は出来た、と言うことらしい。リオンはそっと微笑んで寝台から降りた。
「行きましょうか?」
「おう」
 とりあえず返事だけはした。それでリオンには充分だった。
「あ、その前に」
「なんだよ?」
「これ。差し上げます」
「あん?」
 カロルの掌の中、小さな黒褐色の物が落とされる。首をひねるカロルにリオンは香だ、と言った。
「香?」
「はい。ほら、私の使うあれです」
「あぁ……」
 一つうなずき、カロルはしげしげと香を見る。それから上目遣いにリオンを見上げた。
「物質化。やな野郎だぜ」
 独り言めいた呟き声。それにリオンは口許をほころばせる。銀珠の中、香が形を取っていないのをきちんとカロルは覚えていてくれた。カロルに渡すため、面倒な手順を踏んだことも、理解してくれている。それがとてもリオンは嬉しかった。
「で?」
「はい。効果としては、相手の意思を奪うと言うか……あなたがたにわかりやすく言えば下僕化の魔法に近いか、と」
「……テメェ、ほんとに神官かよ?」
 カロルの呆れ声にリオンは華やかな笑い声を上げた。それに対してまたもや呆れるカロルを見ているのが楽しくてならない。そっと神官の目に切り替える。炎が明るく温かく燃えていた。
「やだなぁ。そういう目的で使うものじゃないですよ?」
「テメェは使うんだろうが」
「そうでもないです」
「せめて嘘でもいいから使わねェって言えよな」
「あなたに嘘はつきたくないですからねぇ。その香りは、病人に使うんですよ。腹を裂いて悪いものを出さなきゃいけないときとか、痛いでしょ? 素直に言うこと聞く患者ばかりじゃないですから」
 そう言われてみれば、そういう病人もいるのだろうとカロルにも漠然とした納得が行く。が、相手はリオンである。正当な目的以外にも使っているのだろう、と思うとどことなく不快だ。
「あのね、カロル。私は嫌がる相手に無理強いはしませんよ」
「しただろうが!」
「あなた、本気で嫌がりました?」
 カロルは言葉もなかった。あれほど嫌がっていたではないか、と口許まで出掛かって、そして声を失う。
 本心から嫌だったならば、リオンを魔法で拘束することくらい、できたはずだった。それこそ一時的に下僕化の魔法をかけても良かった。師匠に知られればお仕置きなどと言うものでは済まないはずではあるけれど、危急の際のことだ、手段を選んではいられなかった、と弁解することはできる。
 それでも自分はそうしなかった。カロルは愕然とする。目覚めたとき、確かに怒りはした。が、たいして傷もつけずに解放している。
「まぁ、その話はここまでにしましょうか」
 混乱するカロルを救うリオンの言葉。けれど今のカロルは救われたくなどなかった。かといって、考えてどうなるものでもない。少なくとも自分も多少は楽しんだのだと言う事実だけを頭の隅に残して思考を打ち切った。
「もしもあなたが本気で私をどうかしたいなら、遠慮なく使ってください。生かすも殺すも思いのままですよ。火をつければ使えますから」
 囁くようリオンは言って、まだ掌の上に転がっている香をカロルの手の中に握らせる。
「テメェ」
 それから先、なにを言いたいのかカロルは自分でもわからなかった。どうしてこんなにも簡単に自分の生命を他人に預けてしまえるのだろうか。手の中の小さな物体が、まるでリオンの命のようでカロルはそこに鼓動を感じる。それは自分自身の脈動だった。
「さ、行きましょう」
 今までの話などなかった顔をしてリオンはハルバードを手に取る。あっさりと扉の封印を外していた。すでに外には何者の気配もないと感じ取っているのだろう。
 この男のことがわからない。カロルは内心で呟く。生きることをこの上なく楽しんでいるように見える男。いとも簡単に殺していいと言う男。愛しているなどと言い、その口でこちらの意思などお構いなしにくちづけをしてきた男。
「カロル?」
「なんでもねェよ」
 首を振り、カロルは彼の背中を追った。革鎧をつけた背中が、妙に大きく見える。わずかにカロルは目を伏せた。
 敵兵を虐殺し尽くした部屋に戻る。一晩経って血の海は凝結してどろりとした赤黒いものになっていた。臭いが鼻を突く。思わず鼻を覆ったカロルの前、リオンが辺りを見回していた。
「鍵ですね」
 昨日は気づかなかった鍵が、壁にかかっていた。やはり頭に血が上っていたのだろう、カロルはうなずく。
「一応」
 そうリオンが鍵を手に取り懐に収める。それを認めて次の扉に向かいかけたカロルをリオンが制した。
「なんだよ?」
 問うカロルに指差して見せたのは、階下から上がってきた階段につながる扉。今は開け放たれていた。
「見て」
 リオンの指したもの、それは血の足跡だった。途中で何度もよろめいている。ふとカロルは心づく。あの男だ、と。
「気絶させた男でしょうね。うーん、殺しとくんだったかなぁ」
 物騒なことをぼんやりと言うリオンにカロルは目を向けそして首を振る。呆れたのでも否定したのでもない。疾うに逃げてしまったのをいまさら考えても仕方ないこと。ただそう思ったに過ぎない。
「うん、それもそうですね」
 まるで思考が聞こえでもしたようリオンは相槌を打ち、肩をすくめて東側のまだ開けていない扉に向かった。
「おや?」
「どうした」
「一度あけてますね、これ」
「誰がだよ」
「それがわかれば苦労はありませんが」
「もっともだ」
 愚かな質問をした、とカロルは臍を噛む。いささかぼうっとしているらしい。血の臭いに意識が曇りそうだった。
 手振りでリオンが下がれと言う。黙ってカロルは彼の背後に佇み、リオンの手許を見ていた。軽く片手で握られたハルバード。あのような重たい武器をよくぞ、と思っていたが、あの体をしているなら易いことだろうと思う。わずかの間、彼の肌の感触が蘇る。
 知らず頬に血の上ったカロルだったが、一瞬にして今度は血の気が引いた。
「おいコラ、テメェ」
 物も言わずに扉を蹴り開けたリオンがきょとんとして振り返った。
「あのなぁ」
 どんな罵声も出てこない。せめて一言いってからにして欲しいと思うが、何かの場合言ってからでは遅いのだろうとは思う。今はぼんやりしていた自分が悪い。
「驚きました? すみません」
 少しばかり照れたような顔をして謝るリオンにカロルは口をつぐんだ。どうしてそうも簡単に謝るのだろう。ここは二人にとって戦場に等しい。戦いの最中に呆けるなど、立場が逆であったならば罵声の一つや二つでは済まさないところだ。
「ほら、やっぱり何かが見に来てますね、様子」
「あん?」
「足跡がありますよ」
 しかしリオンは自分が悪いことにして済ませてしまった。おかげでカロルは謝りそびれている。何度か唇を噛み、それからリオンの目を見る。彼はわずかに苦笑していて、カロルの言いたいことなどすっかりわかっているらしかった。
「うーん、人間じゃないなぁ」
 体をかがめ足跡を観察しながらリオンは首をひねる。人間のものより小ぶりで、どうやら少し引きずりながら歩いている。それが怪我ゆえなのか、普通の歩き方なのかはわからない。
「ゴブリンじゃねェか?」
「あぁ、そうかもしれませんね」
「偵察?」
「たぶん。きっとお待ちかねですよ。悪いことしちゃったなぁ」
「テメェの神経を疑うな」
「え?」
「なんだそのお待ちかねってなァ」
「だって、わざわざ忍んで見にきてくれたのに、私たち一晩ぐっすりでしたからねぇ」
 ちらりと視線を飛ばしてきては口許を吊り上げてリオンが笑う。カロルは罵声と共に殴りつけた。が、あっさりかわされる。
「あとで遊びましょうね、カロル。今はあちらさんのお相手しないと」
「誰が遊ぶか!」
「まぁまぁ。行きましょうよ」
 なだめているのだかあおっているのだかわからない口調でリオンはカロルをあしらい、無造作な足取りで前に進んだ。
 血の足跡は前方の扉に続いている。他に扉はない。間違いなく向こうにいる。そうでなければそこから続くどこかに。
「どれだけいると思う?」
 つい、尋ねたくなってしまった。リオンは顔を振り向けもせずたくさん、とだけ言う。ならば、と魔法の準備に入ったカロルにリオンの神聖魔法が飛んだ。
「ありがとう、カロル」
「なんでテメェが礼を言う」
「受け入れてくれて。ちょっと不安でした」
「けっ」
 吐き出すように笑い、中断していた詠唱に戻る。体が仄かにリオンの魔法に包まれている感触。悪くはない。リオン自身の腕のように温かくて心地いい肌触りだった。
「扉」
「開けたら下がりましょうか?」
「魔法に巻き込まれたくなかったらな」
「うーん、ゴブリンと一緒に屑肉は嫌ですねぇ」
 嫌なことを朗らかに言う男をカロルは視界の端に捉えて口許を緩める。
「だったら下がってな」
「はい、そうします」
 けれどゆるりとハルバードを構えている。いつでも即時応戦できる体勢で、それがどこか頼もしい。急ぐ必要のない詠唱をし、カロルは丹念に魔法を紡ぎあげる。魔力が体からあふれそうになった。
「いいぞ」
 にっこりとうなずいてリオンが扉を開けた。途端に飛び出そうとする影。間違いなくゴブリン。矮小な体をかがめ、どこかからか拾ってきたのだろう刃毀れも甚だしい武器を掲げて突進してきた。




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