ほんのりと、手が温まってくる。リオンの体温だ。他人の体温など、知りたくないとカロルは苦々しく思う。まして同性の体温など気色悪いだけだった。
「行くぞ」
 彼の手を振り払う。少し寂しそうな顔をした。勝手にすればいい、カロルはちらりと見ただけで何も言わなかった。
 厨房を兼ねた食堂の、東側に扉が一つあった。元に戻って別の部屋を調べる前にまずこちらを済ませておきたいとカロルは扉に手をかける。
「カロル」
 その手の上にリオンの手が重なった。
「どけ」
 逆手で払った。けれどリオンはこたえた風もなく、無言で体を入れ替える。不愉快だった。何もかもが不快でたまらない。疲れている。そう思うのだけれどどうにもならなかった。とにかく今は先に進みたい。さっさと済ませてこの男と別れたい。
 口をつぐんだカロルを見るともなしに見たリオンは少しだけ溜息をつく。背中に怒りに満ちた視線が突き刺さったけれど、今は気にしないことにした。
 慎重に扉を開く。扉の向こう側に何かが待ち構えていないことだけはわかる。と言って何者もいないことにはならなかったが。
「おや」
 緊張が、抜けてしまった。肩透かしを食らった気分でリオンは瞬きをする。
「どけ、クソ坊主」
 不機嫌そうなカロルの声にリオンは体を開く。
 そしてカロルが扉の向こう側に見たのはずらりと並んだ寝台だった。
「なんだ、これ?」
「衛兵の仮眠所と言うところでしょうかねぇ」
「はん」
 鼻で笑って吐き出して、カロルはリオンにまともに答えない。
 室内には粗末な寝台が所狭しと並んでいる。数えてみれば十八台あった。部屋中、みっしりと言う感じだ。
「ちょうどいいです。休憩しましょう」
「いい」
「カロル」
「先に進む」
 そう言って踵を返そうとする彼の手を取った。途端にきつい目で睨まれる。それにリオンは苦笑し口を開いた。
「あなたのためじゃないです。私が疲れたんです。少し休憩させてください」
 言い訳だと、すぐさまカロルは悟ることだろう。案の定、睨みつけたまま彼は何も言わなかった。
「頼みます、ね?」
 受け入れがたかった。リオンがわざと言っていることくらい、カロルもわかっている。だからこそ、気遣われる自分と言うものが許しがたい。
 守られるのはいやだった。自分の足で立つことができる。自分の力で進むことができる。他人の助力など、必要ではない。
 そう思う反面、神聖魔法の使い手は、貴重な戦力だと心の奥底ではわかっている。今の自分の疲労具合では、これ以上進むことはできないと知っている。なによりリオンが隣にいることに、どことない安堵を覚えてもいる。認めたくない。だからこそ進みたい。
 カロルはゆっくりと息を吐き、そしてうなずいた。野垂れ死にはしたくなかった。無理に無理を重ねて死ねば犬死だ。フェリクスを、連れて帰ることが出来なくなる。
 ただそれだけを心に思う。たった一人の弟子。初めてのカロルの弟子。まだ小さかったフェリクスがはじめて自ら手を伸ばしてきた日のことを思う。おずおずとした子供の手。
 カロルの手の中にあの日の温もりが蘇る。そしてその温かさは、リオンの手の温かさだと知った。
「手ェ、離せ」
「だって、ふらふら――」
「してねェ!」
「私がしてるんです。ちょっと掴まらせてくださいよ」
 苦笑の気配。見上げればやはり、笑っていた。悔しい、それしか思い浮かばない。いいように扱われている。まるでリオンの掌の上だ。
「ちょっと座っててくださいね」
 結局、そうやってしたいようにされてしまう。そして後々まで恨む気にはなれない。なぜだろう、そうカロルは思い首を振る。いまは余計なことを考えないほうがいい。疲れているときに思い悩めば結果の出ない堂々巡りに陥るだけだ。
「なにしてやがるクソ坊主」
 リオンが寝台を動かしていた。カロルが座った寝台の隣の物を反対側から押している。二つあわせれば確かに広いものにはなるが、カロルはそれほど大柄ではない。狭い寝台であっても休憩ならば充分だ。
「えぇ、ちょっと」
「とっとと吐け、ボケ」
「手間を省きたいんです」
「それでわかるかよ!」
「だったら聞かないでください」
 珍しく突き放された。カロルは思わず黙ってリオンを見やる。視線を感じたのだろう、リオンが苦く笑った。その表情に知る。彼の疲労もまた嘘ではないのだ、と。
 ただの言い訳だとばかり思っていた。けれど半ばは本当なのだろう。思えば武器を振り回し、魔法もかけ通しだ。自分と同様に疲れていても当然だとカロルは内心で恥じる。
 自分のことしか考えていなかった。勝手についてきたのだから好きにすればいい。そんな風にも思っていた。そのはずが、彼を思いやれなかった自分を恥じるまでになっている。
 これだから人生はおもしろい、そうカロルは思う。自分の考えさえままならない。それはどこか苦く、そして温かい。これが生きるということだ、それをフェリクスに教えたい。闇エルフの血を引いてしまった彼に生きる喜びを教えたい。生きているということは、腹立たしいことの連続だ。それでもこれ以上ないほど楽しい。
 いつかメロールが言っていた。夜明けには世界が歓喜の歌を歌うのだ、と。それを人間であるカロルは聞くことが出来ない。闇エルフの子であるフェリクスの耳にも届かない。それでも世界の美しさも醜さもこの目で見ることが出来る。生きる歓びも世界の美も見ることの少なかった子供。それを知らずして果てさせはしない。だから、連れて帰る。そのために今はわずかであっても休む、リオンの言うとおりに。
「テメェ、なにしてやがる」
 そう仄かな温もりと決意を胸に抱いた途端、カロルは急速に心が冷えていくのを感じた。
「だから手間を省く、と」
 二つあわせた寝台に、リオンが上ってきている。カロルの隣に。
「おいコラ」
 罵声を浴びせようとした途端、腕を引かれた。あまりにもあっさりと転がった自分の体が信じがたい。瞬きをして天井が見えているのだと知る。
「じっとしててくださいね」
 視界が遮られて、リオンの顔が眼前に。どう考えても自分の体の上に乗っている。実際、重い。
「この状況でおとなしくしてられる野郎がいたらお目にかかりたいもんだな」
「まったくですねぇ」
「テメェ」
 カロルはそれ以上の言葉を封じられた。リオンが微苦笑を浮かべ、口の中で何かを呟いている。つい、それを聞き取りたくなってしまう。
 魔術師の性と言っていい。他人の詠唱を逸早く聞き取る。師の呪文を覚えるために、あるいは対抗呪文をかけるために。
「動かないで」
 そっとリオンが魔法を紡ぎあげる。ふうわりと、寝台の周囲が輝いた。柔らかい光に感じる鋼鉄の意志。
「結界か?」
 尋ねたものの、それだけとは思えなかった。ただの結界ならば、これほどの手間がかかるとは思えない。彼の詠唱は多少は聞こえたものの、神聖魔法にさほど詳しくはないカロルに魔法の正体はわからなかった。
「耐魔法の結界に耐衝撃の追加効果つきです。これなら安心でしょ」
「持続時間は」
「私が解くまで」
「ほう」
 思わず溜息をついてしまった。リオンの結界は、絶対防御と言っていい。物理攻撃も、魔法攻撃も防ぐことができる。これならば安心して休息を取ることができる。
「ちなみに一応、扉も封じてあります」
 カロルは顔色を変えはしなかった。が、内心で愕然としている。気づかなかった。いつだ、と思う。思い返してもリオンが扉を封じた覚えなどない。
 視線を動かし扉を見つめた。確かにそこには魔法錠がかかっているのが彼の魔術師の目には見て取れる。リオンの嘘でもはったりでもない。カロルはわずかに唇を噛んだ。悔しかった。
「気づいてませんでしたね」
「うっせェ」
「疲れてるんですよ、あなたは」
「うるせェって言ってんだろクソ坊主!」
「あなたね、少し人の話し聞いたほうがいいですよ」
「黙れ、テメェに言われたくねェ」
「もう、どうしてかなぁ。自分でどれだけ疲れてるか、わかってます?」
「おう、わかってるぜ。当然だろうがよ」
「本当に?」
 ゆらり。目の前で黒い目が微笑った。そのことにカロルは驚愕した。まだ、リオンが自分の上に乗っている。
「ほらね?」
 かすかに笑ったまま、リオンが頬を撫でる。戦士のように荒れた指先。少し引っかかって痛い。背筋が冷たくなるかと思いきや、そんなことのなかった自分にもカロルは驚く。
「ちょっと待て」
「うーん、いいですけど。なんです?」
「なに言ってやがる。そんなこと言ってねェだろ!」
「あなた、なに想像しました?」
 声に含まれた笑い。カロルはむっつりとし目をそらす。そらした先にはリオンの腕があった。なにが起こったのだろう。彼は動いてはいない。とすれば寝台に倒されたときからか。そのときから自分は彼の腕の中にいたと言うのか。
「それで、カロル?」
 柔らかい声。温かい腕。疲労が頂点に達しそうだった。
「テメェ、手間を省くってなァ、どういうことだ」
「あぁ……ベッド二つにかけるより、大きく一つ結界はったほうが楽なんです」
「……本当にそれだけか?」
 疑いたくなってくる。リオンの意図が読めない。このなにをしでかすかわからない神官が、このあとどんな行動をとるのか、わかりそうでわかりたくない。
「疑いますねぇ」
 明るく笑った。疑惑はおかげで決定的なものになる。じろりと下からねめつけた。それをリオンはどこ吹く風と効いた様子もなかった。
「あったりまえだ!」
「そう言われるとねぇ」
「なんだよ」
 うっかり言い返してしまった。そのことにカロルは臍を噛む。ここはリオン流に受け流すべきだった。そのことを悟ったのは、生憎と彼の目を見たあとだったが。
「ご期待に沿わないと悪いかな、と」
「そんなことは――」
 言っていない。言おうとした言葉は途中で封じられた。唇に温かいもの。塞がれている、そう気づいたときには体ごと押さえつけられていた。




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