手の中の、メロールの菓子を眺めるともなく見ていた。やはり疲れているのだとカロルは思う。懐かしい菓子の香りに気持ちが和む。 「おい」 それで思い出した。和んでいる場合ではない、そんな逼迫感が去らないせいでもある。 「なんです?」 「さっきの。ありゃなんだ?」 「それじゃわかりませんって」 言われてどことなく不快になる。なぜか、リオンにはわかると思ってしまった自分。そのようなことを考えた自分が忌々しい。 「アレだ、銀の……」 「あぁ、あれですか」 うなずいてリオンはすでに腰に下げていた銀珠を手に取る。光にかざせば透かし彫りが柔らかく煌く。 「香炉か?」 先程は、それから煙がたなびいていたのを見た。香りもしていたように思う。 「まぁ、そのようなものですね」 「違うんだったらはっきりしろよ、ボケ」 「あってはいるんですけどねぇ」 「なんだよ?」 説明しにくそうなリオンを見ていると、なにがあっても言わせたくなってしまった。カロルの口許がほころぶ。それを目にしたリオンはわずかに溜息をついて見せ、白々しく肩をすくめた。 「言ってみれば魔法の道具ですよ」 「あん?」 「例えば先程の混乱の魔法ですが。さすがに大量にかけるには手に余るんです、私でも。そのためのまぁ、補助のようなものですね」 「きたねェ」 「え?」 「魔法ってのはそうやってかけるもんかよ? 道具なしでかけてこそ一流ってもんだろ」 むっつりとカロルは言う。その顔があまりにも真剣で、リオンは心の中で微笑んだ。それだけ彼にとって魔法と言うものは重要な意味を持つものなのだろう。口でなにを言おうとも、そんな彼の態度が好もしくてならない。 「だいたいな、魔法具なんかに頼ってっと、なくなったときに困るのはテメェだぜ」 「それはそうですが」 「わかってるなら改めろよ」 「えぇ、まぁ」 「はっきりしねェ野郎だな、おい!」 こんなに真摯に諌めてくれるとは思っても見なかったリオンは胸のうちが温かくなるのを覚える。今度は頬に上る笑みを抑えきれなかった。 「なんだよ?」 「いえ。これ、見てもらえますか?」 「あん?」 そう言って差し出してきたのは銀珠。手渡されたそれがカロルの掌にある。思いのほかに軽い銀が心地良く冷たかった。これほど繊細な細工物をハルバードにつけて振り回したのかと思うと若干の眩暈を感じるカロルである。決して物に執着するほうではないが、それでも美しい物は嫌いではない。 その銀珠にリオンが指先で触れた。どこをどうしたものか、二つに割れる。ちょうど掌に当たる辺りで繋がっているのだろう、と口を開いた銀珠をカロルは見ていた。 「こん中に香が入るわけか」 香炉なのだから、当然内部には香が納められる。よく神殿で神官たちが清めに振っている振り香炉と構造的には同じものなのだろう。 「入れるわけじゃないですけどね」 「あん?」 「ほら」 促しに従って視線を落とす。掌の銀珠を見ているうちに驚いた。今までそこにはなかったもの。淡い煙が立ち上っている。香は、なかった。 「ね?」 手の一振りでリオンは煙を消した。まだ仄かな香りがしている。確かにここにあったのだとカロルは思うのだが、相手は幻想と真実の女神に仕える神官である。幻覚を操ることなど児戯にも等しいだろう。それを思えばどこまで現実にあったものか正直に言えばわからない。 「実際に香があるわけじゃないんです。その銀珠は言ってみれば魔力の焦点として使っているだけで。別にないならないでかまわないんですよ」 「煙は」 「あれはあるんです」 「わかんねェ」 「うーん、説明は難しいですねぇ」 「だろうな」 つい、うなずいてしまった。それをいぶかしむようリオンがカロルの目を覗き込んだ。 「どうしてです?」 「そんなわけわかんねェ魔法なんざ聞いたことがねェ。テメェの女神の特殊魔法だろ。だったら俺が聞いたってわかるかよ」 神官たちは、仕える神の性格に従って様々な魔法を使う。治癒や解毒などはどの神官でも使えるが、その神独自の魔法、と言うものも神聖魔法には存在する。その点があるいは鍵語魔法との最大の相違点かもしれない。鍵語魔法にも術者独自の呪文が存在することはある。が、他者が学べないというものではないのだ。けれど神聖魔法は学びたくともその神に仕える者でなければ習得できない呪文、と言うものがある。 マルサド神の神官の戦歌などが有名だろうか。彼らの魔力の乗った歌声は、味方の士気を鼓舞し、敵の心を萎えさせる。それが神官たちの特殊魔法と言うものだ。カロルが言っているのはそういうことだった。 幻想を支配するエイシャ女神は、そこにはない香を出現させ、香りで相手を捉える。そのような魔法を神官に授けたのだろう。 「つくづく物騒な女神だぜ」 思わず呟いてしまった言葉。はっとして顔を上げる。多神教のアルハイド大陸にあって、他人の神を冒涜するような表現は、なににもまして礼を失することである。 「ごもっともです」 だが、リオンはそう言って笑った。まるで気にした風でもない。カロルを気遣って、と言うよりもむしろリオン自身が物騒だと認めてでもいるようだった。 「テメェの女神だろ」 「だからといって穏やかな方だとは一言も言っていませんが」 「テメェが言うか」 神官のくせに、とそう思う。どうにもこの男の信仰と言うものがわからない。もっとも信仰心のないカロルには、他者の信仰がわかった例などないのだが。 「我が儘で、物騒で、面倒なお方ですよ、エイシャ女神は」 「おいコラ」 「なんです?」 「最愛のエイシャ女神って言ってた気がすんのは、俺の気のせいか?」 「いいえ、気のせいじゃないですよ。ははぁ……」 にんまりとリオンが笑った。咄嗟に身構える。ひしひしと嫌な予感がした。 「カロル」 そっと手が伸びてくる。物も言わずに払い落とした。はずなのだが、いつの間にか握られている。視線を手に落としては忌々しげにそれを見やり、ついでリオンを睨みつけた。 「もしかして、妬いてます?」 ゆっくりとカロルの口許に笑みが浮かぶ。かすかに顎を上げ、昂然とした表情を作り、そしてカロルは自由な片手を突き出した。 「カロル!」 リオンの頬を掠めて風の刃が飛んでいく。壁に当たって突き刺さったのだろう、凄まじい音がした。呆れ返って振り返ったリオンは、壁が崩れるという、非常にいやなものを目にする羽目になる。 「俺が、なんだって?」 殊更にゆっくりと言う。リオンは聞いているのかいないのか、飄々とした顔のままいまだに手を握っていた。 「おいコラ」 「すごいですねぇ」 「なにがだよ?」 うっかり、聞き返してしまった。それがリオンの手だとわかっていたはずなのに。かすかに唇を噛み、けれどどうにも自信がなくなってくる。はたしてそれはリオンの罠だったのか、と。 「詠唱。本当に速いなぁ。いま聞こえませんでしたからねぇ」 茫洋と言ってのけるリオンに呆れてしまった。ここまでの戦いで飽きるほど見たはずではないか、と。そして見ている余裕はなかったのかもしれない、といまさら思う。 「やっぱりあなたが好きだなぁ」 「おいコラ、どうしてそうなんだよ!」 「だって、顔は好みだし、本質は素晴らしいし、あなたはとても素敵ですよ。これで好きにならないわけがないです」 「いやなことを断言すんじゃねェ!」 「そうですか?」 「そうですかって、テメェ野郎に言われてみろよ!」 「うーん。私は気にならない性格でして」 「俺は目いっぱい気になる」 「諦めてください」 にっこり笑うリオンに眩暈を覚えた。カロルは自分が言っているのはごく普通のことだと思う。同性に容貌を褒められて嬉しいとはたいして思わないものだし、そもそも褒め方が気に入らない。根本的な問題として同性に愛を告白されて喜べるはずがない。 その上、自分は悪くはないと言ってのけ、諦めろとまで言う。これでは悲鳴を上げて逃げ出さない自分をこそ褒めたくなってくる。 「テメェは最愛の女神と遊んでろ」 「やだなぁ、カロル」 「妬いてない」 言われる前に言い放つ。が、それにリオンは微笑むだけ。これでは言わされてしまったようで気分が悪い。口をつぐんだカロルの手をリオンはきつく握った。そのことでまだそこに彼の手があることを思い出した。 カロルは笑う。まるで振り払われたがっているような握り方だった。あるいはつれなくされるのが趣味なのかもしれない。そう思ったことで気が楽になった。それならばそれであしらいようはいくらでもあるとばかりに。 「クソ坊主」 「なんです?」 「屑肉にされたくなかったら手ェ離せ」 「あぁ、それは困りますねぇ。でも」 「でももクソもねェ」 「カロルの手、とても冷たいんですよ、心配で」 どこまで本気なのだか一瞬、惑った。思わず反対の手を頬にあてる。 「ほら、冷たいでしょうに」 確かにひんやりとしていた。己の疲労具合もわからなかったのか、と思えば笑いたくなってしまう。自分の限界を超えて何かをしてしまうのは悪い癖だ、と常々メロールから言われていたはずなのに。 それでもいまだにカロルは師の忠告が守れない。ひとつには、自分の限界がどこにあるのか、彼自身に見定めることができないせいであった。 確かに疲れているのはわかる。足元が多少、危ない。休まないとこの先、大きな呪文は行使できないだろうことも理解できている。 けれどまだどこかで大丈夫だと言う声が聞こえる。それは先に進みたいというカロルの望みが言わせる言葉であるのかもしれなかった。 |