背後に立つリオンの手許から、どこか懐かしいような香りが漂ってきている。カロルにはそれがどのような物なのかはわからない。想像するに、魅了の呪文を維持し易くするためのある種の道具なのだろう。
 敵兵の顔はまだぼんやりとしていたが、はっきりと意思は見て取れる。ただ、操作された意思だった。リオンによって操られ、二人が仲間だと思い込まされている。
「子供なぁ」
 カロルの語るフェリクスの姿に男は黙って首を振った。
「すまねぇ。わからんわ」
「そうか……」
 それしか、言えなかった。期待が大きすぎたのだとわかってはいる。けれどあるいはフェリクスの居所がわかるかもしれない、と一度でも考えてしまった以上、落胆は隠せない。
「塔の主の居場所って、わかります?」
 後ろで声がした。はっとしてカロルは振り返りかけ、そして思いとどまる。はじめからそれを尋ねればよかったのだと今になって思いつく。やはり、動揺していたのだと内心にうなずいた。
 リオンが正しい質問をしたこと。それが忌々しくもある。が、頼りになることだけは確かだと思いなおした。決して悪い連れではない。性格的に多大な問題がある気がして仕方ないが、自分とて人のことをとやかく言える筋合いではない、そうかすかに笑った。
「主……ダムド様か?」
「うん、そう」
「上だよ」
「この上?」
「いいや、もっとずっと上だって聞いてる。俺は行ったことねぇから」
「そうか、ありがとう」
 そっとリオンが近づいてくる。カロルは無言でうなずいた。これ以上聞きたいことはない。
 リオンが男の眼前で銀珠を握りこむ。魔法を解放するのだろう、と思い込んでいたカロルは愕然とした。握りこんだ拳のそのままに、リオンは男の頭を殴りつけては気絶させていた。
「信じらんねェ」
「え、何がです?」
「殴るか、普通」
「そのままにしといたら危ないですよ。殺さなかっただけマシです」
「おいコラ腐れ神官。テメェのどこが神官だよ」
「あなた今、神官って呼んでるじゃないですか」
 言われたカロルはむっつりと口をつぐむ。そのことをしたりとばかりリオンは笑い、カロルの背中を押しては先へと促した。
「どっちがいいです?」
 右手と前方に扉がある。そこそこ広い部屋なのに、どこを歩いても足元が滑る。肌どころか、体の奥底まで血の匂いがしそうだった。
「どっちでもいいよ、勝手にしろ」
 少し眩暈がする。血の匂いのせいだと思いたいけれど、それだけではないのをカロルは理解していた。少し魔法を使いすぎている。先程、休憩したことで反って疲れを意識してしまった。
 こんなとき半エルフであったならば、そう思う。メロールが言うには彼らは半ば魔法的な存在らしい。人間のよう、体力だけで魔法を行使するのではない、そういう。だからメロールとカロルと比べたとき、体格的に勝るのはカロルであっても、魔法を行使する体力は彼のほうが遥かに優れている。
「あいつもだな……」
 小声で呟いた。フェリクス、闇エルフの血を引く子供。闇エルフとは堕ちた半エルフ、メロールのかつての同族だ。だからフェリクスは魔法適正が高かった。彼らの血を引きながら、人間の宿命に従って老いて死ぬ。半エルフにしろ闇エルフにしろ人間との混血なのだ。ならばその子供が人間であってなにが悪いと言うのだろう。己の生まれなど本人には何の係わり合いもないことのはずなのに。
 そっと背を押されて夢想から覚めた。何も言わないリオンが恨めしい。いま自分が何を考えていたのかまるで見通されているようで不愉快だ。
「どうしました?」
 今度は尋ねてくる。柔らかく微笑んで。これもだ、とカロルは思う。また読まれた、そんな気がして仕方ない。
「なんでもねェよ。なに人の顔見てんのかと思っただけだ」
「あぁ……」
 言ってしまってからカロルは失敗を悟る。衝撃に備えて体を硬くした。
「考え事してるあなたはけっこう精悍で素敵だなぁ、と思って見惚れてただけです。他意はありませんよ」
「そう言うのを他意って言うんだろうがこのボケ!」
「そうでしたか? 知りませんでしたねぇ」
「けっ。とぼけやがって、オッサン」
「年はあなたのほうがずっと上でしょうに」
「うっせェよ。で、どっち行くんだよ、あん?」
「もう、せっかちだなぁ」
 文句を言いながらもリオンは笑っている。まるで会話をしたことでカロルに蘇った生気を喜ぶようだった。そしてリオンはカロルを北側の扉へと導く。
「こっちは?」
 特別、異を唱えようと言うわけではないのだが、前方の扉を選んだ基準が知りたくて、カロルは右手の扉を指差した。
「とりあえず後回しです」
「だからなんでだよ」
「別に。両方一緒には行けませんからねぇ」
 と、実にもっともなことを言ってリオンは扉を開けてしまった。すでに気配でも窺っていたのだろうか、向こう側は何者も存在しない。知らずカロルの唇から安堵の溜息が漏れるのを耳聡くリオンは聞きつけ、だが何も言わずに室内へと進んだ。
「うーん」
 室内を見回してリオンが呻く。思わず緊張したカロルだったが、特に変わったものなどなにもない。このような場所があることには、驚いたが。
「なんだよ」
 どうやら、食堂兼厨房と言うところだろうか。先程の敵兵たちは差し詰めこの階の衛兵、と言うことか。粗末ながらも水場と竈、食糧の備蓄まであり、がたついてはいるもののテーブルと椅子もある。
「いやぁ、やっぱりリビング・ゴールドは幸運の印だったなぁと思って」
「テメェの女神はそんなけったいな教義持ちかよ」
「え? なんでです。我が女神とは関係ないですよ」
「だったらなんだその、幸運のなんとかってのは」
「うーん。だって可愛いじゃないですか、リビング・ゴールド」
 言い募るリオンの言葉に対する理解を放棄し、カロルは室内に進み入る。水が欲しかった。幸い、水瓶にたっぷりと汲んである。
「カロル」
 ハルバードを手挟んで、リオンが柄杓を持っていた。水場に手を差し出せば、冷たい水を注いでくれた。その下で手を擦れば、たちまちのうちに赤くなる。顔もついでに洗ってしまった。ようやく血の匂いが薄れた気がする。
「クソ坊主」
 不本意ながらも、今度はカロルが柄杓を代わった。にっこり笑ってリオンが手を差し出す。彼の手から流れ落ちる水は、カロルのそれよりさらに強い赤に染まっていた。
「ハルバード」
 手と顔を洗ってさっぱりした気になっているリオンにカロルは文句を言う。神官のくせに血塗れの武器を持って平然とするなど言語道断ではないか。
「あぁ……」
 やはり、彼もまた疲労は溜まっているのだろうとカロルは思う。元々茫洋とした男ではあるけれど、今はさらに精彩を欠いている。
 カロルに促され、リオンはそっとハルバードにも水を流して洗った。擦りもしないのに、すぐさまそれは白いまでの煌きを取り戻す。
「うん、綺麗になりました。ありがとう、カロル」
「うっせェ」
「ねぇ、カロル。腹減りませんか」
 つい、ねめつけてしまった。カロルとてさほど胃の弱いほうではない。が、あれだけの虐殺をやった直後に腹が減るほど頑丈な胃でもない。
「あぁ、言葉の選び方が悪いですね。こう言うつもりでした、食べないと持ちませんよ、とね」
 どこまで本気だかわかったものではない。カロルはひとしきり罵りたかったのだけれど、どうにも体が疲れてやりきれない。ただ黙って椅子に腰を下ろしただけだった。
「カロル、これを」
 どこからか探し出してきたのだろう、木製のジョッキが目の前に出てくる。自分が手を洗ったあの水を飲むかと思うとぞっとしない。無言で顔をそむけた。
「心配は要りませんよ」
 声に含まれたかすかなもの。笑いだったかもしれないし、安堵を促す何かだったかもしれない。それに押されるようにしてカロルはもう一度ジョッキに目をやった。
「我が神殿秘伝の蜂蜜酒です。疲れが取れますよ」
 そう、リオンは持参の水袋を振っている。そこから注いだ、と知らせるようカロルの鼻の側まで持ってきて匂いをかがせる。確かにジョッキと同じ匂いがした。
「なんでそんなもん持ってやがる」
「だって、疲れるじゃないですか」
 確かに疲れを取る酒ならば、持ってきているのも不自然ではないのだろう。とにかくカロルはそう思い込むことにした。
「なんか変わった匂いがするな」
 普通の蜂蜜酒とは、どことなく違う香りがする。カロルが普通に飲む物とは違う何かが入っているのだろう。
「秘伝ですからねぇ」
 そう、リオンは笑った。そして自分もジョッキに注いで飲んでいる。互いに量は多くはない。当然だった。このような場所で酔いが回っては、笑い話にもならない。仄かに体に温もりが戻る程度。それで充分だ。
「やっぱり幸運ですねぇ」
 ちょうど食べる物もある。ベーコンを切り、パンを切る。リオンをさらに喜ばせたことにたっぷりのバターまでもあった。しばらくは互いに無言のまま食べ続けた。
 食事が喉を通らない、などと言うことはカロルもない。自分の手を汚すことは覚悟の上で、塔にきている。為さねばならないことを為すだけだ、と。さすがに食欲を感じることまでは無理ではあったが。
「ボケ」
 カロルがリオンに向かって菓子を放る。メロール手製の干し果物が乗った焼き菓子だ。彼はリィ・サイファから習ったというから、もしかしたら半エルフと言うものは甘い物が好きなのかもれない。そんなことを突然いまになって思う。
「ありがとう、カロル」
 言って一口齧る。その目が見開かれた。つい、カロルはにやりとしてしまう。
「旨いだろ」
「えぇ、あなたが……なわけはなさそうですねぇ」
「どういう意味だコラ。あってるけどな。師匠の手製だ」
 言えばリオンが呻いている。どうやら菓子を焼く半エルフ、と言うものが想像し難かったらしい。目を白黒させるリオンを見てカロルはようやく笑った。




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