それは闇の触手だろうか、あるいは手であったのかもしれない。するりと伸びてきたそれがカロルの目の前で揺れる。まるでいたぶりでもするよう。 が、それが敵の命取りとなった。 「カロル!」 すぐ側で聞こえた叫び。はっとして身をひるがえす。そして闇が千切れた。 途端に襲い掛かりくる魂の底まで冷え縮む叫び声。きつくカロルは唇を噛んで耐えた。我と我が身を抱え込み、震える体を抱き締める。 「大丈夫ですか」 温かい懸念にあふれた声にふと目を上げれば闇はすべて晴れていた。 「あぁ……」 強く頭を振る。叫び声の余韻を払おうと。その拍子に体が揺らいだ。 「カロル」 脇にハルバードを手挟んだリオンがなぜか目の前にいる。不思議に思ううち、自分が抱きとめられているのだと知った。 「離しやがれ」 「だめです」 「うっせェよ」 「そんなに警戒しなくっても」 明るい、場違いなほど明るい笑い声だった。そのことが何より敵の全滅をカロルに知らせた。ようやくほっと息をつく。そして立っていられないほどの冷たさを身の内に感じる。 「テメェは信用ならねェ」 「まぁ、そう言わず」 「できるか!」 「ちょっとだけですから」 「離せ」 睨みつけたつもりが、視界が揺らいだ。何度か瞬きをして、揺れているのは自分の体だと理解する。酷い眩暈だった。 「カロル」 緩く抱きとめていた腕に力が入る。振りほどこうとするにも力が入らなかった。 「少しだけでいいですからじっとしててください」 「うるせェ」 「それと、受け入れてくださいよ」 どこか声に笑いを滲ませたリオンの言葉の意味がわからなかった。首を傾げて彼を見上げる。そして意味を知った。 柔らかい詠唱。緩やかに体を包むリオンの魔法の感覚。温かくて心地良い、彼自身の体温のようなそれを半瞬、カロルは拒みたくなった。 「カロル」 咄嗟にそれを感じ取ったリオンにたしなめられ、カロルは目を閉ざす。今度は受け入れた。護身の魔法は素直にかけられている。何も治癒を拒む必要はないとばかりに。 ゆっくりと、しかし着実に体に温もりが戻ってくる。深い呼吸をすれば体の奥底から精気がみなぎる。リオンの治癒魔法のおかげだと思えばどこか腹立たしい。それをかけられるまでに未熟であった自分と言う存在が。 「どうです?」 「とりあえず礼は言っとく」 「はいはい。大丈夫そうですね」 不機嫌そうに言うカロルの言葉にリオンは彼の全快を知る。彼自身が自分の体調に抱く不安以上に、リオンは彼を案じていた。 どうして無茶をするのかと文句も言いたくなってくる。魔術師のくせに剣を振るって敵に向かうなど言語道断だと説教を滾々としたくなってくる。 が、リオンは無駄なことをしなかった。言ってもどうせ無駄なのだから、ならば自分が彼を守れば済むこと。できることならば守られている、と意識させずに。 カロル自身よりもなお、リオンは短い時間でありながら彼を理解している。それはエイシャの神官であるからかもしれない。彼の持つ炎のような本質をリオンは見た。 少し、おかしくなってくる。神官のくせに武器を振るうとカロルは言うけれど、カロルは後方にあるのが常の魔術師でありながら前線に出て戦うことを好む。 おそらくそれは人手が足らないのだからなどと言う理由ではないのだ。彼が一人でこの塔に戦いにきたことで証明されてもいる。 強くありたい。誰よりも強く、虐げられることなく。自分の意思を他者に曲げられることなく。 それこそがカロルの望みなのだろうとリオンははっきりと感じ取っていた。その傲岸不遜な望みを、あるいは人は不快に思うのかもしれない。けれどリオンは違った。エイシャの神官の見たものは、ただひたすらにまっすぐな彼と言う炎。カロルはその望みでもって他者を支配しようとはしていない。彼はただ、彼でありたいだけだとリオンにはわかっていた。 「なに笑ってやがる」 「私ですか?」 「薄気味わりィ顔してやがった」 「……せめて微笑んでいると言えないんですか」 「そんな可愛らしい面かよ」 「言いますねぇ」 今度こそはっきりとリオンは笑い、カロルのすぐそこにある目を覗き込む。そのことでカロルはまだ腕の中にいる事実を思い出したのだろう、ぱっと飛びすさってはリオンを睨んだ。 「うん、元気になったみたいですね。では進みますか」 カロルは口の中で彼を罵る。言葉になどならなかった。どうしてこうもからかわれている気がして仕方ないのだろう。むっつりと黙ったままリオンをねめつければどこ吹く風と受け流された。 「けっ」 吐き出してカロルは炎の剣を収める。ふっと輝いて消えるそれを何か美しいものでも見るような目をしてリオンが見ていたけれど、二人とも何も言わなかった。 部屋の南西の隅に階段があった。ちらりと視線を送り、今までそれが見えていなかったことにカロルは苦笑する。闇のせいだけではなかった。それほど受けた傷が酷かったのかと思う。体のそれではない。精神に加えられた衝撃。二人ともが魔法の使い手であったのが幸いだった。もしも魔法耐性のない者がいたならば、ここに骸となって横たわっていたかもしれない。 「おや、面白いものがありますねぇ。います、かな?」 リオンの声に正気づく。いまだ衝撃は去らずかと思えば暗澹たる思いに駆られそうになる。まだ四階。おそらくフェリクスはもっと上階にいるだろう。それを思えば。 「なんだよ」 そんな思いを振り払いカロルはリオンを見やる。そしてリオンが指差したものに向く。それはきらきらと輝く金貨の山だった。思わず笑い出したくなってきた。そして呆れたよう首を振る。 「笑えねェ」 「なんでです?」 「ここまで間抜け扱いされると笑うより怒りたくなってくらァ」 けれどカロルはそんなことを言い、金貨の山に歩み寄る。手に取りはしなかった。どう見ても怪しい。まるで闇を破ったこれが褒美だとでも言うよう、剥き出しの金貨がここにあるなど。 「大丈夫ですよ」 「あん?」 「ほら」 言って無造作にリオンは金貨を手にした。途端に金貨が何か白い物を吐く。 「おいコラ、ボケ坊主」 「なんです?」 「それ、なんだ?」 「あぁ……リビング・ゴールド。ご存じないですか?」 「知らねェ」 「魔物なんですけどね。たいして何もしないんですよ。一応、敵意はあるらしくってこうやって攻撃はしてくるんですけど」 「攻撃?」 白い吐息のような物のことを言っているのだろうか。言われて見れば竜のブレス攻撃に見えなくもない。呆れて肩をすくめたカロルにリオンは笑う。 「可愛いでしょ?」 「どこがだよ」 「だって、嫌がってふーってするんですよ。可愛いなぁ。飼えないかなぁ」 「このボケクソ坊主。さっさと果てやがれ」 呆れて吐き出すカロルの言葉のほうがよほど魔性の金貨の攻撃より効くのだろう、リオンは溜息をつき金貨を元に戻す。その途端に山になった金貨が一斉に白い息を吐いた。 「ほら、やっぱり可愛い」 まったく痛手を与えない魔物の攻撃をリオンは微笑んで見やり、名残惜しそうにそこを離れた。 「さて、遊んでないで行きますか」 「遊んでるなァ、テメェだってーの」 「うん、そうでした」 反省の欠片もない言葉を上の空で吐いたリオンは階段に向かう。一段目に足をかけたとき、最後とばかり振り返って金貨の山を見つめた。 「そんなに欲しけりゃ取ってこいよ、腐れ坊主」 「あ、いいですか? では」 嬉々として駆け戻り、ひとつ摘んでリオンは戻る。満面に嬉しそうな笑みを浮かべているリオンを見るとこれ以上罵る気力もなくなってくるカロルだった。 「お待たせしました」 「おう、待ったぜ」 「嫌味ですか?」 「わかってんならさっさと行けって」 まるでこたえないリオンの背をカロルは押しやって進ませる。一つで満足したのだろう、彼はもう振り返らなかった。 「カロル」 緩やかに手に持っているだけのハルバード。が、戦いがいつあってもよいように指先まで戦意がみなぎっているのをカロルは背後から見るともなしに見ては感じていた。それを頼もしいと感じるのはいまだ残る疲労ゆえだろう。それがたまらなく忌々しかった。 「うっせェな」 「リビング・ゴールド。幸運の印だったかもしれませんよ」 「あん?」 尋ねるカロルにリオンは黙って階上を指差した。見ればわずかな明かりが漏れている。今までなかったことだった。 ここに来るまでの間、入り口の広間を除けばずっとカロルの魔法の明りに頼ってきていた。窓の一つもない塔の中は闇だけが支配してきた。いまここで光が見える。ならばこの先には光が必要なものがいる可能性が高い、そうリオンは言っているのだろう。そして最も光を必要とする存在は、人間だった。 「ちょうどよかったですねぇ」 一つうなずき、リオンはハルバードを構えなおす。背後からは見えなかったけれど、間違いなく微笑んでいるのがカロルには理解されてしまってなにやら空恐ろしいような気になる。 「おいコラ」 「わかってます、殲滅はしませんよ」 「テメェ」 「一人でいいですよね、カロル?」 何かを言う無駄を悟ってカロルは黙ってうなずいた。それが見えでもしているよう、リオンは嬉々としてうなずいて階段を上って行った。 |