ほっとしたのも束の間、カロルが身じろいでは体を起こす。 「カロル?」 起き上がろうとする体を抱き寄せればしたたかに叩かれた。 「もう行く」 「まだ休んだほうが」 「テメェがじっとしてる保証がねェ」 「そんなことはありません」 「すげェ、棒読み」 言ってカロルは笑った。リオンは情けない顔をしてやはり、笑ってしまう。どうやら信じてはもらえないらしいのが残念ではあるのだが、あのようなことをした後ではそれも致し方ないかと思う。 「信じてもらえませんかねぇ」 それでもつい、言ってしまった。途端にじろりと見上げられる。信じないのなんのと言いつつカロルはまだ体を起こしただけで腕の中にいる。その辺りがなんとも言えず可愛らしいとリオンは思う。 「どうやったら信じられるのか教えて欲しいもんだな」 「それは」 「いい。失言した。教えなくていい、信じねェ」 ぷいと顔をそらした。どこか、痛めつけられた子供のように見えた。 カロルは魔術師で、それゆえに老化が遅い、と言うのはリオンにもよくわかっている。だから彼が自分よりずいぶん年も上なのだと、それも理解している。単に肉体の老化が遅いだけであって、精神のそれはごく普通に成長しているということも。それであってすら、リオンはカロルを可愛いと思う。こればかりはどうしようもなかった。 「そんなこと言わなくてもいいでしょうに」 「テメェなんか信じられるか」 「なんでです?」 そっとカロルの翠の目を覗き込んだ。今度はそらさずじっと見返してくる。それはむしろ睨み返すとでも言うように。 「この面に惚れたとか抜かす野郎の何を信じろって?」 言葉は吐き出された。軽い気持ちで言ったことだった。確かに好みではあるし、間違ったことは言っていないのだけれど、カロルにとっては想像以上に嫌なことであったのか、と今更ながらリオンは知る。 「まぁ、顔も好みですけどね。でも本当のあなたがもっと好みですよ」 リオンの柔らかい言葉がカロルの耳朶を打つ。しかしそれは激発をしかもたらさなかった。 「テメェなんかに何がわかる!」 頬に衝撃。そして仄かに熱くなる。カロルに打たれたのだと理解するまでに少しかかった。一度リオンは目を閉じ、それからそっと開いてはカロルを見つめる。それはカロルがいまだかつて見たことのない目だった。リオンならずとも、誰であっても。体に対する欲望のそれではなく、珍奇な品を手に入れたいという物欲でもなく。魔術師に向けての畏怖ですらなかった。ただひたすらに染みとおる、視線。 「わかりますよ。これで真実を見続けるというのは中々につらいことなんです」 「なに言ってやがんだ」 「エイシャの神官にとって幻は遊びです。それに惑わされるようでは修行が足らないと言わざるを得ません」 淡々と言われた脈絡のないように見えるリオンの言葉にカロルは唇を噛む。わずかに伏せた目は何事かを考えているせいだろう。 「幻ってなァどういうことだ」 「そうですね、例えばあなたならば、その容貌は幻です」 「中身が真実ってか? きっちり面に騙されてんじゃねェかよ」 「そうでもないですよ」 「どこが?」 冷笑。リオンはゆっくりと数度、瞬いた。冷たく嘲笑っているように見える。が、カロルの本心は疑っている。リオンの言葉が真実であるのかどうかを。それがリオンにははっきりと見通せた。 「私の目に映るあなたは、力強く燃え盛る炎。焼かれて落ちる者もいるでしょう。が、それは炎自身の責任ではない。わかりますか?」 「けっ。面が好みだとかぬかしやがったくせによ」 「意外とこだわりますねぇ」 「うるせェ!」 あらぬ方を見やって吐き出したカロルの顎先を捉える。ぎらりと睨まれた。何もしないと一つうなずき、ただ黙ってじっと彼の目を覗き込む。 悔しそうに目を伏せたかと思うとカロルは抵抗するよう見上げて睨む。わずかに噛みしめられた唇が血の色を透かしていた。 「うん、まぁ。確かに好みですね。しみじみと」 「けっ」 「でもね、たかが皮一枚のこと。あなたの本質に比べればどこにでもあるものです」 「なに言ってやがる」 真剣に言われた言葉にカロルは今度こそ本気で目をそらした。耐え難い。嫌悪ではなく照れくさくて。自慢ではないが、カロルは自身の精神性を褒められたことはほとんどない。メロールとアルディアが呆れ半分で愛でてくれるのが精々だ。 「私ね、あなたが落とし穴から落ちてきたとき、実は物凄く困ってたんです」 「なんでだよ?」 突如として変わったらしい話にカロルは戸惑う。見上げた黒い目は苦笑していた。 「あの牢がどこなのかはわかっていても、脱出はできなかったんです。正直に言って途方に暮れてました」 「ボケ坊主」 罵り言葉はかすかに笑いを含んでいてリオンは安堵する。どうやら気が抜けてしまったらしいカロルの肩を抱けば意外にも抵抗しない。また胸の上に頭を預けてきた。 「その時あなたが落ちてきたんですよ」 「言うなボケ」 「なんでです?」 「自分でも抜けてたとわかっちゃいるんだ。思い出させんな」 「はいはい」 心底、悔しくて堪らないと言いたげなカロルの声音。それを聞くことが出来るのが嬉しくて仕方なかった。 「あのとき星が落ちてきたのかと思いました」 「あん?」 「とても綺麗な輝く星が落ちてきたのかと……」 「なに言ってやがんだ、このボケ坊主ド下手クソ神官!」 「あぁ、聞こえなかったのかな、と思って言い直したんですが」 「聞こえてらァ!」 「では、なにが?」 「おいコラ、このボケ。なにが輝く星だ、あん? 悪かったな、落とし穴に引っかかった魔術師でよ」 「うん、ですからそれが嬉しかった、と言ってるんです」 「……理解できねェ」 唖然としてカロルはリオンを見つめ首をかしげる。それから肩をすくめて今度こそはと立ち上がった。 「カロル」 「なんだよ、うっせェなぁ」 「星を手に掴みたいと思ったこと、ありません?」 「ねェ」 きっぱりと言ったカロルに思わずリオンは笑いを漏らす。むっとした視線が返ってきてちらりとそちらを見れば、瞬く間にそらされた。 「私はあるんです」 「へー、そー。ふーん。俺はねェな」 「カロルってば、本当に可愛いですね」 言った途端に拳が飛ぶ。まだ立ち上がってもいなかったはずのリオンがそれをどうやってかわしたものかカロルにはわからない。気づけば隣に立って笑っていた。 「あなたは私の輝ける星。この手に掴んだ、と思っていますよ」 睨み付けるカロルの耳許、リオンはそっとかがんで囁いた。 「俺はテメェの背中に落ちた気がしたがな」 「うん、あれはちょっと痛かったです」 「手じゃねェぞ」 「いいんですよ、細かいことはね」 どうにもはぐらかされた気がしてならないカロルはリオンを見据える。が、彼は嬉しげに微笑っているだけだった。 「おいコラ、ボケ」 「なんです?」 「念のために聞いてやる。テメェの目に見えてる人間てなァ、どういうんだ?」 「あぁ……別に普通に、あなたが見るようにも見えてはいますよ?」 「違う風に見ることもできるってことだな?」 「はい」 飲み込みのいいカロルに、思わず若い神官相手にするような喜びを感じてしまう。神殿にいた頃はそうやって見習い相手に学問を教えもした事を懐かしく思い出しつつリオンは語る。 「未熟なうちは真実しか見えません。修行を進めていくうちに、通常の視覚と神官としての視覚を制御できるようになります。エイシャの神官としての視覚では人間の本質が現実として見えるんです」 「例えばテメェが、そうだな……ダムドを見たとする」 「うん。そうすると、とてつもなく醜いものを見ることになるでしょうね」 「なるほどな」 なにを納得したのだろうか、カロルがうなずいた。それからためらいがちに目を上げる。あまりらしいとは言えない顔つきだった。 「テメェ、帰れ」 「カロル?」 「聞くな。帰れ」 「あのね……」 「二度と俗世に出られなく――」 「なるってのはすでに聞いてます。私はそれでもあなたを選びます」 「人の話を聞けよ、クソ坊主」 呆れた口調にリオンは笑う。人の話を聞かないのはどちらかと思えばなおさらに。 「だいたい遅いですよ、もう」 「なんだと?」 「私はすでにこの塔に違和感を覚えています。確実ではないですけど、それでも話しに聞いていたものとはわずかなずれを感じています」 「おい」 「ですからね、連れて行ったほうが安全ですよ」 そう言ってリオンは首を傾げて見せた。わざとらしいにもほどがある、と自分でも思うのだが、あからさまなほうがカロルは受け入れやすいだろうと思えばこそ。 「外に出せばテメェの考えを吹聴するってか?」 「そう思っていただいてもかまいませんよ」 「けっ」 舌打ちをし、それからカロルは意外にも晴れやかに笑った。振り仰いでリオンを真正面から見る。心持ち上げた顎先に淡い金の髪がまとわりついているのを煩わしげに指で払えばかすかに目許が和んだ。 「テメェが言うことは一から十まで信じらんねェことばっかだな」 カロルはうつむいて口許に指をあてていた。まるで込み上げてくる笑みを押し隠そうとでも言うように。 「今度は信じてもらえるんですね。嬉しいなぁ」 ひとしきり、罵声がリオンの耳を打つ。どこ吹く風と受け流す彼にカロルはいい加減疲れたよう殴りかかった。 |