ハルバードを脇に手挟んだ不自由な姿勢だと言うのに、軽々とリオンはカロルの両手を止めていた。不機嫌そうにそれをじっと見やったカロルは訳もなく視線をそらす。 「離しやがれボケ」 吐き出すように呟けば、じっと覗き込んでくる真摯な黒い目。さっさとフェリクスを見つけて帰りたいと切に思う。そうすれば忌々しいこの男とこれ以上同行しないで済むとばかりに。 「カロル」 リオンは首を傾げてまだ彼を見つめていた。その目にある不安げな色をカロルが見ることはなかったけれど、声音だけは聞こえてしまう。 「少し休んだほうがいいです」 「わかってっから離せよ」 「本当に?」 からかうよう言う声が癇に障ってならない。おかげで自分の疲労具合がよくわかる。些細なことに苛立つのは間違いなく過度の疲労のせいだった。 「ほら、座って」 いったいどこをどうされたのだろうか。アルディアに習っているとは言え魔術師であるカロルは武道に長けているとは言いがたい。 それならば神官であるリオンだとてそうであるはずなのだけれど、武器を能くする彼の手にかかるとカロルはまるで子供のようによいようにされてしまう。 むっとしている間にリオンが隣に座った。石造りの床は冷たい。体が冷えるのが少しばかり気にかかる。 「カロル」 「うるせェ」 「あのね」 「黙れって言ってんだろクソ神官」 「人の話を聞きなさいって」 「うっせェ!」 これ以上何を言っても無駄だと悟ったのだろう、リオンは黙った。そのことに何よりもカロルはほっとする。 「仕方ないなぁ」 ぼそりとリオンが呟いた。カロルに向けてではなかったけれど、聞かせないつもりであるとも思えない。 「すみませんね、カロル」 なにを謝るのか、と訝しい思いに首を傾げたカロルの腕が引かれた。罵声を浴びせようと口を開きかけ、止まる。 リオンの腕の中に抱かれている、この自分が。それを理解した途端、一切の言葉が出てこなくなった。不愉快で仕方ない。女のように扱われるのに実のところ慣れてはいる。が、慣れているからと言って不快に思っていないわけではない。 一度ぎゅっと抱きしめられた。抵抗しないとでも思っているのだろうか。そのままさして小さな体でもないというのにリオンの膝の間に抱き込まれる。自分の体の両側からリオンの腕がゆったりと胸の前にまわっているのをカロルは唖然としつつ見ていた。 「なにしてやがる」 ようやく絞り出した声は苦く意味のない言葉でしかなかった。 「ですからね、人の話を――」 「聞いてねェのはテメェだろ」 「その前に私の話をお聞きなさいって」 「短く的確にだったら聞いてやる。話せボケ」 「うーん、短くなるかなぁ」 「ならなかったらテメェは屑肉だな」 あからさまに魔法の準備動作をし、カロルは背後のリオンに見せ付ける。背中に笑いの衝動が伝わってきた。 温かくて心地良い。体が疲れているせいだとカロルは思う。見下ろせば、自分の物よりはるかに太い腕がそこにある。聞かなければ神官の物だとは思わなかっただろう。抱き込まれた胸も厚く逞しい。 そこまで思ってぞっとした。振りかけた首を精神力で抑え込む。動揺したことを悟られるくらいなら舌を噛んだほうがまだましだ。 「疲れてるんでしょう、カロル? 体が冷えると疲れが取れませんよ」 「だからなんだよボケ」 「少しはお役に立とうと努力してるんですがねぇ」 「テメェはやり方がやらしいんだよ!」 「そりゃ、まぁ」 「あん?」 「うん、ですからね。あなたが好きですから。多少は致し方ないか、と」 「なんで俺が我慢しなきゃなんねェんだ、クソ坊主め」 「その辺りは私の役得と言うべきか、と」 「テメェばっかいい思いしてんじゃねェかよ!」 「気のせいです」 どこがだ、言いかけた言葉をカロルは飲み込む。言っても無駄だった。とにかく今のところは事実だけを見ることにカロルは決めた。 温かい体は少なくとも疲労をこれ以上溜めずに休息をもたらしてくれる。それが誰のものであるかなど当面は問題にしない。これは生きた毛布だ。それ以上でもなければ以下でもない。 「納得しました?」 「うるせェ」 むっつりと言ったカロルの声に、渋々であってもこのまま休むことを認めたのだろう、とリオンはかすかに微笑む。 少なくとも今は不埒なことをするつもりはなかった。カロルはまっすぐに突き進んでいくだろう。それならば休めるときに休ませたい。ただそれしか考えていなかった。 リオンの片手がカロルの体から外される。わずかに彼が身じろいだような気がして、何もない、とそっとリオンはカロルの肩を叩く。 そして外した手は自らの腰へ、そこにある銀の珠にと伸びて行った。小さな、掌にすっぽりと入ってしまう大きさの珠だった。透かし彫りが美しく、武器を持つ手には不似合いに見える。 ゆったりとしたカロルの呼吸が胸の辺りから聞こえている。リオンは銀珠を指先で撫で、口の中で何事かを呟いた。 「カロル」 「なんだよ」 「少し眠ったらどうですか」 「テメェが話しかけなきゃ寝てた」 「それは失礼」 喉の奥で笑った声にカロルが不快そうに顔をそむける。が、思い直したのだろう、また軽くリオンの胸に頭を預けた。 「カロル」 呼び声に、面倒だとばかりカロルが顔を上げた。何事かを言い返そうと開きかけたその唇に。 リオンがきつく肩を抱いていた。心の底から神官だとは思いたくない。動きを封じられてカロルは身じろぎも出来なかった。 唇に触れているリオンのそれ。やはり戦士のように少し荒れていた。ただ触れるだけの稚拙なくちづけとも言えないそれにカロルは戸惑う。リオンが何を意図しているのかが理解できない。 ゆっくりと離れて行ったリオンの唇が、それでも少し濡れていた。応えた覚えなど少しもないというのに。わずかな羞恥とそれに倍する激高。 「テメェ」 何を言うべきかも見当たらず、カロルはさっと手を一振りする。瞬時に現れたのは青い炎。凝り固まった炎の剣がリオンの首筋にぴたりと当てられていた。 「カロル、落ち着いて」 「テメェが言うんじゃねェ!」 「もっともです。が、ちょっと落ち着いてくれるととても嬉しいです」 「俺はテメェを金輪際永久不変に黙らせたくってならねェ」 にたりと笑いカロルはそっと剣を押し付ける。今のところ傷つけるつもりはないのだろう、首に食い込んだ剣は熱くはなかった。が、カロルの意思一つで確実に首が飛ぶのがリオンには身に迫ってよくわかっていた。 「えーと、その」 「言い訳無用」 「ちょっと聞いてくださると」 「聞く耳もたねェ」 「カロル」 情けない声にカロルが笑った。ほっとして息をつく間もない。脅しつけるよう薄く首の皮を切られた。熱い血が滴るのが知覚されリオンは瞬きをする。 「どういうつもりか知らねェけどな、おかしなことしやがったら次はばっさり行くからな」 「了解しました」 「ほんとかよ?」 疑わしげにカロルは言い手を閃かせては剣を消す。けれど笑ってまた胸に頭を預けてきた。ほっとリオンは息をつく。 どうやらかかったらしいと、そのことに安堵した。リオンの手の中、あの銀珠がかすかな香りを放っている。それはカロルの嗅覚が捉えられるものではなかったかもしれない。けれど彼の心に確実に届いただろう。できることならば、そうリオンは思う。 わずかばかり不安ではあった。どうもあっさり魔法がかかりすぎた気がしなくもないのだ。ほんの少しばかり首を傾けてカロルを覗き込む。彼はそっと目を閉じて休んでいた。眠っていないのは呼吸の仕方でわかる。どうやら思いは杞憂らしい、とリオンが体の力を抜いたとき、カロルの翠の目が輝いた。 「どうしました?」 脛に傷持つ身のせいか、リオンはつい慌てて問うてしまった。それがおかしかったのだろうか、カロルが顔を伏せて笑う。 「変ですよ、カロル」 もしやおかしな効果が出てしまったか、と内心でリオンは大いに慌てていた。が、それを口に出すことはできない。知られればカロルが激怒するのは目に見えてわかっている。 若干、手段に問題があったことを認めるにやぶさかではないが、カロルを休ませたいという本心に変りはないのだ。 戸惑うリオンを見上げカロルは目を細める。その目の光にわずかに体を引きかけたリオンの首筋に伸びてくるもの、カロルの手。 温かくて柔らかい手だった。魔術師の手と言うのはこんなにも繊細なものなのだな、とぼんやりリオンは思う。同じ男のものであるはずなのに、自分のそれとはこんなにも違う。 ゆるりとカロルが自分の首を引き寄せている。呼吸がかかるほどの間近な所でカロルの翠の目が揺れている。そのままカロルに抱き寄せられ、リオンの耳許で彼の呼吸の音がした。 「へたくそ」 囁きの大きさ。が、間違いなくリオンの耳に届いた。思わずがっくりと体中から力が抜けてしまう。くつくつと笑う声がしていた。 「カロル……」 「もう一度言ってやろうか?」 「謹んで遠慮します」 「だろうな」 「男の身には厳しいお言葉ですねぇ」 「だから言ってんじゃねェか、ド下手」 「……やめてください」 機嫌よく言うカロルにリオンは言うべき言葉が見つからなかった。おとなしくしていたのは単に相応しい罵り言葉を考えていただけらしい。 思わず笑いがこみ上げてきそうになった。やはり、かかってなどいなかった。なぜかそのことに例えようもない安堵を覚えるリオンだった。 |