広い空間に響き渡ったリオンの明るい笑い声。反響してはこだまとなった。そして二人はここが闘技場ほどの広さを持っていた真の理由を知ることになる。
「ぬかりましたねぇ、喋ってないでさっさと行くんでした」
「テメェのせいだな」
「責任とって、リオン。って言ってくれたら――」
「とっとと死に腐れボケ坊主」
 軽口を叩きながら二人は油断なく戦闘体勢を取った。カロルはすでに詠唱を始めている。
 何者かが近づきつつある。おそらく今までの魔物などは足元にも近づけないようなものが。どこからともなく吼え声が聞こえた。
 壁に反射して二人を圧する。声であるにもかかわらず。まるで強い波に押されたようだった。
 そしてそれが姿を現した。
「カロル、ちょっとまずいです」
「言われなくってもわかってらァ!」
「それは心強いですねぇ」
 こんな場合であってものんびりとしたリオンの声に苛立つどころか反って心が静まった。正しく、着実に呪文を唱えることができる。そしてなによりも速く。
 出現したのは竜。この世にあって最も強く猛き生き物。震える吼え声が響き渡っては体が怯みそうになる。それをカロルは屈辱と感じた。
 ぎゅっと唇を噛みしめ一歩踏み出す。黙ってリオンが横に来た。不意にリオンの手が光る。
「ま、気休めですよ」
 先程と同じ護身の呪文。かすかにカロルが笑った。
「さっきも聞いたな」
「言った気がしますねぇ」
 一つうなずきリオンがハルバードを振る。準備はできた、そう見えたのだろうか。竜がごうと吼えては突進してきた。
 魔法の明りに姿が浮かびあがる。竜は白銀色をしていた。雪のように白く、輝かんばかりに美しい獰猛な生き物。
「腹ァ狙え!」
 竜と呼吸を合わせるよう、突撃していくリオンの背中にカロルは怒鳴る。聞こえたのかどうかはわからなかった。
「クソ坊主!」
 竜が鉤爪を振り上げた。が、それはリオンを襲うことなく宙で止まる。竜の目が狡猾な色合いを宿した。
 リオンは何かを意識する暇もなかった。一瞬のうちに白いものに包まれた、そうとしかわからない。冷たいと感じる間もないほど急激に体温が奪われる。
 竜の吐いた冷気の吐息にリオンが崩れるのが見て取れる。間に合うか、危ぶみながらカロルは呪文を飛ばした。
「守護せよ、オムサ<焔盾>」
 突如としてリオンの体が明らかになった。白いものに覆われて凍えていた体がはっきりと体温を取り戻し足元が強くなる。うなずいたのはカロルに向けてだろう。少なくとも彼はそう取った。大丈夫、そう示してくるリオンを信頼するより道はない。
 リオンのハルバードが輝いた。聖別されたそれは竜族にも効果があるものなのだろうか。カロルにはわからない。が、リオンの確固たる動きを見ているとしばしの時間は稼げそうだと思えてくる。
 冷気から身を守るための防御呪文を飛ばしたために中断させていた詠唱を再開する。その目に焦りはなかった。
 ハルバードの一閃。竜が吼える。白い鱗に赤いもの。再度攻撃。同じ場所を狙ったそれがぱっと血を振りまいた。鉤爪がリオンを襲い、彼は身軽に飛びのく。が、そこに蟲の残骸があった。よろめいた彼を竜が見つめる。その目には確かな歓喜があった。
「クソ坊主、どけ!」
 リオンは振り向きはしなかった。何かを問うこともしなかった。蟲に足を取られた不運を幸運に。そのまま床に飛び込んで転がる。一瞬、竜はリオンを見失った。その間に彼は竜の足の間をすり抜けて背後へと。
「開け天空の門。星界の彼方より飛来せよ虚無の炎、イル・ケオに顕現し我が敵を撃て、イルサゾート<虚炎業爆>――!」
 詠唱が完成する。出現は唐突だった。一点の強い光が竜の眼前に現れる。それは次第に強さと大きさを増し、背後にいるリオンの目すら焼きそうになる。竜が鉤爪を振り上げ、叩き潰そうと動く。
 その前で光は収束を始めた。硬い、まるで物質化したようにも見える光が針の先ほどまでに縮小し、辺りを闇が覆う。それは光があるからこそ濃い闇だった。
 竜が吼えた。己の攻撃が効いたと確信したのだろう、勝利の雄叫び。が、その体を爆発が襲った。それは塔さえもを揺るがせるほど。リオンは疾うに魔法から身を守っている。そうでもなければ彼の体は吹き飛んで壁に叩きつけられていただろう。否、それならば良い。激突し、壁を破壊し突き抜けて落ちていくのは死体であったに違いない。
「ちっ」
 だが竜はいまだ身悶えしていた。再度炎の呪文を飛ばす。冷気を操る竜であったのが幸いした。カロルの最も得意とする炎系の魔法が功を奏する。
 どろり、竜の鱗が溶け出した。それこそを狙っていたかのよう、リオンのハルバードが傷口を貫く。今度の吼え声は耳を覆うもの。
 断末魔の苦しみに竜が長い首を振る。わずかにリオンの体勢が崩れそうになる。それを見逃さず竜は鋭い牙を持つ口を大きく開けた。
「もらったァ!」
 開いた口の中に飛び込んだもの。それはカロルの火球だった。腹の中から炎がまわる。リオンが飛び下がるのと同時に竜は悶え苦しみ床に倒れる。
 喉の辺りが焼かれたのだろう、ぶすぶすと白いものが吹き上がっている。竜の体内で、冷気と炎が交わり互いを打ち消そうと己が体を苦しめる。
 リオンがハルバードを構えた。一閃。したはずなのにカロルには見えなかった。竜の頭が転がって行く。かっと見開いた目は無念そうに二人を睨みつけていた。
「カロル」
 駆け戻ってくるリオンの姿が二重に見えた。そっと頭を振る。疲労が滓のように淀んでいた。
「大丈夫ですか」
「うるせェな」
「少し休んだほうが」
「ここで座んのはごめんだな」
「それもそうです。行きましょう」
「ちょっと待て」
 言ってカロルは足元を確かめるよう竜に近づく。慌ててリオンが飛んできては彼の前に立った。
「危ないです」
「死んでる」
「それでも――」
「欲しいんだよ」
「え?」
「牙」
「あぁ……」
 それだけで納得したのだろう。リオンが竜の牙に触れていく。じっと見ていると笑ってしまいそうだった。
 鍵を解除するカロルの手つきをリオンはなんと言ったか。今のリオンの手つきこそ愛撫のようだ。柔らかく指先が竜の牙を撫でていた。身をかがめ、そっと何かを囁く。睦言のように。と、牙がぽろりとリオンの手の中に落ちていた。それを数回繰り返すうち、竜の牙はすべてリオンの掌に集まる。
「どうやった?」
 竜の牙ほど硬いものはそうそうない。非常に役に立つものではあるのだが、竜自体が少ないこと、そして牙を確保できるだけの道具が少ないことと相まって大変に貴重なものである。そもそも生半なことで倒せる相手ではない。魔術師と神官の二人で竜を狩ったなど言っても酒場の与太より相手にされない。
「騙すんです」
「なにをだよ、腐れ坊主」
「だから牙をですよ」
「あん?」
「まぁ、物質自体を騙すと言っていいでしょうね。お前がそこにくっついてるのはおかしい、間違ってるって言い聞かせるんです。そのうち向こうもそんな気になるんでしょうねぇ。そうしたら取れます」
 何か理論的におかしなことを聞いた気がするのだが、どこがどうおかしいのかわからない。あるいは理論はあっているのかもしれない。語るリオンがおかしなだけで。
 カロルは首を振り、とりあえず問題を先送りすることにした。そもそも神聖魔法はカロルに理解できるものではない。
「はい、どうぞ」
 リオンの手が出てくる。なにをしているのかわからなかった。
「欲しいって言ったじゃないですか」
「取ったなァ、テメェだ」
「差し上げますよ」
「おいコラ」
「だいたい私が持ってたって仕方ないですし」
「売ればけっこうな金んなるぜ」
「ですから私は神官ですって。金儲けに走ってどうするんですか」
「テメェのどこが神官だよ!」
「全面的に神官です」
 うなずいて言う顔が笑っている。呆れてカロルは笑い、礼も言わずに竜の牙を受け取った。
「あなたなら竜牙兵、作れるでしょ」
 カロルの手の中で牙が硬質な音を立てた。思わずリオンを見上げてしまった。
「テメェ」
「だから、鍵語魔法はそれほど――」
「どこがだ、ボケ。竜牙兵は鍵語魔法じゃねェ」
「え、違うんですか?」
「真言葉魔法。使ったの師匠にばれたらお仕置き食らうな」
 今の時代、真言葉魔法はなにが起こるかわからない。カロルはその身の内に真言葉を宿して生まれてきた。だからほぼ確実に発動させることが可能ではある。
 だが、ラクルーサの宮廷魔導師ともあろう者が、そして鍵語魔法の開発者の弟子たる者が真言葉魔法を開け広げに使うわけに行かないのもまた、当然だった。
「お仕置き」
「師匠は怖いぜ。あの面でよくああいう陰険なこと……」
 カロルは言葉を失った。リオンがうっとりと天を仰いでいる。もうなにを問う気にもなれない。なにを考えているか一目瞭然過ぎて気力が萎えそうだった。
「素敵……」
 呟き声は震えている。カロルは何も聞きたくない。耳を閉ざすことができない以上、何も聞こえないふりをし続けるより他にない。
「あ、待ってください」
 やっと正気に戻ったリオンが慌てて駆けてくる。カロルは返事もしなかった。
「カロル」
 追い抜いて振り返る。すっかり馴染んでしまったリオンの仕種だった。
「師匠の拷問で果てろボケ神官クソ坊主」
 一息に言ったそれを意に介しもせずリオンはなぜか嬉しげに笑った。
「あなたのお師匠様にお仕置きして欲しいわけじゃないですからね」
「勝手にしやがれ。さっさと果てろ」
「お仕置きされるあなたを想像したらうっとりしちゃって」
 カロルは言葉もなく睨みつけるだけ。ゆらり掲げた手の中に炎。にんまりと笑って放ったそれはリオンの頬を掠めて壁に当たっては爆発を起こした。




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