一瞬でも和んだ自分が許せない。こんな場所でのんびりと口喧嘩を楽しんでいる場合ではなかった。リオンの目と髪にフェリクスを思う。なんとしても早く辿り着かねばならない。決意も新たにカロルは前方を睨み据えた。
 なにもない広い空間は闘技場を思わせる。そのことに気づいてはっと緊張したカロルは思わずリオンを見る。彼はすでにハルバードを油断なく構えていた。
「ゆっくり行きましょう」
 振り返りもせずリオンは言う。黙ってカロルがうなずけば見えもしないはずなのにリオンはうなずき返す。
 きゅっと唇を引き締めてカロルはリオンの背中を追った。笑ったのか睨んだのか、自分でもよくわからなかった。
「カロル」
「なんだよ」
「壁伝いと突っ切るの、どっちがいいですかねぇ」
「勝手にしろよボケ」
「では、最短距離で行きますかね」
 飄々と言ってリオンは部屋の対角線を進む。
 そんな彼を呆れてカロルは見やった。自分が無謀だというならば、彼はいったいなんだというのだろう。この世の中に、こんな神官がいていいものだろうか。ある程度、武器も使える魔術師と言う例外的な存在であるにもかかわらずカロルはそんなことを思う。
 進むに連れ、魔法の明りが壁に届かなくなってきた。二人の周囲を照らすだけになりつつある明りが頼りなく思え、カロルはぞっとする。
 暗い場所が苦手と言うわけではない。ただ肌に緊張を感じる。何者かの強烈な敵意がここにある。
「カロル」
 リオンもまたそれを感じたのだろう、彼を呼び様に左手が突き出された。不思議に思う間もない。聞き取れないほどの速さで詠唱された神聖魔法がカロルの体を包んだ。
「気休めですがないよりはましでしょうから」
 護身の呪文。礼を言うことはしなかった。単に呆然としていただけとも言えた。確かにカロルは神聖呪文については詳しいとは言えない。しかしリオンの詠唱のその速さ。自分の高速詠唱に勝るとも劣らない。それだけで充分、彼が高位の神官であることが窺えた。
 互いの体が仄かな光を帯びている。目に見えているわけではない。ただ、魔法を能くする者の目には視える。仄かでありながら確かな魔法にカロルは安堵している自分を見つけては訝しく思う。
 守られるなど柄ではない。守ってもらいたいと思うほど弱くもない。それほど軟弱な生き方はしてこなかった。
 カロルは思う。かつてはこの顔のせいでどれほどの人間が自分をか弱い女のよう扱いたがったか、と。思い出すだけで忌々しい。
 どれほど女性的な容貌をしていようとも、カロルは本質的に男性でしかない。彼自身、強いこと、庇護すること、猛々しくすらあることを願っている。もしかしたらそれは女のように扱われる反動なのかもしれない。同性からは肉欲の対象として見られ、異性からは珍獣でも見るような視線を浴びせられる。それは不愉快としか言いようがなかった。
 そんな彼の内面を理解しようとはしない人間がずいぶんいままでにもいたことだ。あるいはリオンも。そう思ったけれど、どうにも今までの有象無象とは違うような気もしてカロルはいつになく戸惑っていた。
「カロル」
 呼ばれて顔を上げた。それがまた忌々しい。この男がいると多少、注意が散漫になっても大丈夫なような気がしてしまう。
 いま守られるなど嫌だと思ったばかりの自分を内心でカロルは嘲笑った。
「わりィ」
「しっかりしてくださいね」
「うるせェよ」
 前を見たまま言うリオンの口許が笑っているような気がした。きっと間違ってはいない。
 リオンが注意を引き戻した理由。すぐそこに階段が見えていた。背後からリオンを窺えば、一度ハルバードを握りなおしたのが見える。そのことにカロルは口許を緩めた。
 リオンの呼吸の音が聞こえる。ゆっくりと吸い、そして吐く。それから階段に向かって足を進めた。
「参りましたねぇ」
 階段の下でそれを見上げたリオンが拍子抜けしたよう肩を落とす。
「なんだよ?」
「ほら、見てください」
「うん?」
 妙に素直に返事をしてしまった自分自身に舌打ちすればかすかな笑い声。振り向きもせずに拳を見舞った。
 背後で聞こえる笑いまじりの呻き声など聞こえないふりをしてカロルは階段を見上げる。今度の呻きはカロルの唇から漏れた。
「ね、困ったでしょう?」
 階段は、どこにも通じていなかった。ただ階段の形に作っただけの意味もない構造物がそこにあるだけ。カロルはゆっくりとリオンに体を向けた。
「おいコラ」
「なんです?」
「テメェ幻覚って言ったよなぁ?」
「違うかもって言いましたよ」
「うるせェ黙れクソ神官!」
 拳を振り上げたカロルの手が止まる。そのまま前方を、いまや自分たちが来やった方向を見据える。
 リオンも無言で振り返る。そのままハルバードを構えた。
「まんまとおびき寄せられましたねぇ」
「責任取れよクソ坊主」
「あぁ……あなたから責任取れなんて言葉を聞くと、私どうしていいかわからなくなりそうです」
「果てろボケ」
 言い捨ててカロルは詠唱を始めた。目の前にゆらゆらと異物が見えている。
「突破は難しいですねぇ」
 いやにのんびりと言うリオンの声が癇に障った。言われるまでもない、カロルは詠唱しつつ思う。
 二人の眼前、床一面に生えているもの。それは紛れもない女の腕だった。なまめかしい白い腕がひらひらと床から立ち上がり二人を手招いている。
「よけろボケ」
 カロルの声と同時にリオンが飛び退いた。呪文の発動と共に辺りを圧する轟音が響き渡る。
「う……」
 聞こえたリオンの声を無視した。女の腕は悶えていた。炎に焼かれるのは苦しい痛いとまるで声が聞こえそうなその有様。カロルの顔も色を失っている。
「行きます!」
 炎が通った道の腕が息絶えた。それを狙っていたのだろう、リオンが飛び出す。カロルも背後に従って走り出す。
 が、しかしまだ力を失っていない腕があったのを見落とした。気づいたときには腕が足首を捉えている。
「く……」
 女の腕とは思えない凄まじい力だった。
「動かないで!」
 ハルバードの一閃。血飛沫を上げて腕が切り飛ばされた。
「わりィ」
「どういたしまして。行きますよ!」
「おうよ」
 にたりと笑みかわし、互いにうなずく。その足が止まったのは耳に届く不安をあおる音だった。
「うわ」
 リオンがハルバードを振る。しかし敵は多すぎた。音の正体、それは飛来してきた巨大な虫の羽音だった。広間を埋め尽くすよう無数の巨蟲が二人の周りを飛び回る。
「稼げ!」
 時間がいる。一言だけでそれを伝えれば理解したのだろう、リオンはハルバードを振り続けて蟲を退けている。
「ちっ」
 珍しいリオンの舌打ち。頬を蟲の脚が掠ったらしい。細い血が筋になって流れていた。唇を噛みたくとも、カロルは詠唱を中断することはできない。近年感じたことのない焦りを覚えた。
 だがリオンは傷など意に介した様子もなくハルバードを振る。着実に、確実に。一閃ごとに数匹ずつの蟲が地に落ちる。ひくひくと断末魔の動きをする蟲の数が増えだした。
「吹き荒れよ風の王。すべてを飲み尽くし破壊を尽くせ、バシルト<竜舞>」
 そのときだった。カロルの呪文が完成する。リオンの肩を掴み、自分のほうへと引き寄せて放つ。
「防御せよ淡き光!」
 すぐ隣で聞こえたリオンの声が魔法を放つ。二人の周囲で吹き荒れる風の斬剣から守ろうと彼は魔法防御を発動させたのだった。
 リオンの目の前で、いまだかつて見たこともない暴風が吹き荒れている。風の中に剣があるようだった。目に見えないそれが蟲を両断し、細切れに刻んでいく。広間中に広がった風の魔法が蟲を一掃するのに、そう時間はかからなかった。
「一応、礼は言っとくか」
「別にいいですよ、自分のためにしたことですし。あなたの魔法に巻き込まれたら、私死んじゃいます」
「そりゃそうだな」
 うなずいてカロルは笑う。たまには礼でも言うかと思ったのだが、リオンがそれでいいと言うならばよいのだろう。どうにも柄でもないことをするのは照れて仕方ない。
 それを横目で見たリオンは彼が気づかない程度のかすかさで微笑む。それから満足げに片手を振った。魔法防御の膜が破れる。どこか温かい色合いをしていたのは彼が神官だからだろう。
「素晴らしく気が滅入りますねぇ」
 どこまで本気だかわからない口調のリオン。それが反って平静を知らせる。注意を払いながらであっても、彼が歩き出したのを見てカロルもまた歩を進めた。
「カロル」
「なんだよ」
「風系はもしかして苦手ですか?」
 時間稼ぎをしろ、と言ったことを言っているらしい。
「クソ坊主、鍵語魔法はどこまで知ってる」
「たいして知りませんよ」
「はん……さっきのは風系の最大呪文だ。俺ほど速く発動させられる人間はいねェ」
 嘯くカロルだったが、事実であった。確かに人間の中ではおそらく最速だろう。
「はぁ、すごいですねぇ。もしかして火系はもっと速いとか?」
「自慢じゃねェが師匠より速いぜ」
 言った途端、リオンが少し笑った。おかげでカロルは失言を知る。これでリオンは風系の呪文は師であるメロールのほうが速いことを知ってしまったことだろう。
「うっせェ、笑ってんじゃねェよ腐れ神官」
 リオンの和やかな笑い声が大きな呪文を行使した疲労を拭っていくようだった。
 ふっとカロルの表情が曇る。不意にフェリクスの笑い声が蘇る。まったく似ても似つかない声だったにもかかわらず。フェリクスのまだ子供の音色を残した声ではない。
 それでも思う、あるいはだからこそ。フェリクスとリオンと。さほど年齢は変わらないのだ、と。魔術師のせいで半ば成長が止まっているようなフェリクスはいまだ十代の少年のよう。だから大人の男の体をしたリオンとは姿形こそ違うけれど。




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