ふっと足元が揺らめく。知らず下がってしまった拍子に不安定な瓦礫を踏んでしまったらしい。
「カロル、大丈夫ですか」
 今の今まで打ちつけた背中をさすっていた人間とは思えなかった。動作を感じさせない動きで飛んできたリオンがカロルの体を支えている。
「離しやがれクソ坊主」
 ゆったりと腕に抱かれているなど気色悪くて敵わない。覗き込むよう近々と顔があるのも耐え難い。
「足、平気でした?」
「なんともねェから離せって」
「本当に?」
「おいコラ腐れ神官」
「なんです?」
「テメェ、絶対わざとだろ」
「おやまぁ、気づきましたか。それは残念」
 笑って言うが、棒読みだ。はじめから意図してやっていたとしか思えない。カロルはリオンの頬を張り飛ばし、腕から逃れる。
「行くぞボケ坊主」
 振り返りもせず言えば案の定、彼は前に立つ。それから肩越しにカロルを見やっては前方を指した。
「どっち行きます?」
 不可視の壁に囲まれた階段は、あのとき見たように二つある。どちらを選ぶべきかわずかの間考える。
「まぁ、どっち選んでも一緒でしょうけどね」
「どういう意味だ」
「だってどっちかは罠でしょ。だったら上ってみなきゃわからない」
 それを考えるのが必要なのでは、と思ったもののリオンがいいならばいいような気がしてきてしまう。そう思った自分にぎょっとしてカロルは言葉を失った。
「そりゃそうだ。テメェが何とかしな」
「はいはい、そうさせてもらいますよ」
「ちっ」
 嫌味を言っても張り合いのないことこの上ない。動揺を静めるための言葉だったはずが、いっそう揺れてしまった気分のカロルは口を閉ざす。
 黙って歩けば、足元で瓦礫が崩れる音がする。あちらこちらから聞こえる呻き声は死に切れなかった何者かのものか。
 綺麗さっぱりなくなった小部屋の残骸を見ながら足を踏み出せば、瓦礫の下に何かが埋まっていたのだろう。喉が潰れるような声がした。
「うーん、気が滅入りますねぇ」
 何かを踏み潰すたびに顔を顰めているのだろうリオンの声。だが、少しも気にかけているようには見えない。どういう神経をしているのかとカロルは思う。
「それでも神官かよ」
 思わず悪態をついていた。この状況を作り出したカロル自身でさえ胃を鷲掴みにされる思いなのだ。本来、言動からは考えにくい事実ではあるが、カロルと言う男は破壊衝動を持ち合わせてはいない。これほどの手段を取ってしまったのはひとえに彼が認めない焦りからだった。
「この有様の張本人に言われたくないです」
 リオンにしてはきっぱりと、それでもどこか茫洋として彼は言う。あまり責められている気がしなかった。
「別に責めてるわけではないですよ、カロル。確かに手間は省けましたし」
 こちらの気持ちを読んだようなことを言う、とカロルは唇を歪める。
 責められてもかまわない。どうしてもやらなければならないことがあるのだから。だから手間を省いた感謝をされる筋合いでもない。ただ、自分が前に進みたいだけだとカロルは知っている。
「さて、どっちにします?」
 階段の前、リオンが立ち止まっては振り返った。その表情を窺えば、何も変化していない。あるいは嫌悪でも見つけたかったのかもしれないと思ったカロルはつい目をそらす。
「うん、そちらにしましょうか」
 そらした視線をリオンは感じていた。けれどそれを悟られたくないであろうことも短い付き合いの中で理解している。
 それた視線が向いていたのは左の階段。だから彼がそちらを選んだとあえて誤解して見せリオンは微笑む。
「さ、行きましょう」
 カロルは何も言わなかった。ただ、リオンの背中に向けて少し笑っただけ。本人すらもそれを意識してはいなかった。
「カロル、少し訂正していいですか」
「なにがだよ」
「さっきの」
「さっさと吐けよ、ボケ」
「うん、ですからね。責めないと言ったのを多少、訂正したいと思いまして」
「あん?」
 二人は階段を上っていてた。途中で止まると崩れそうになる。小部屋を破壊しつくした風と炎から階段が逃れられるはずもない。必要なそれまでもが破壊の余波を食らっていた。
「もうちょっと手加減を覚えてください」
「無理」
「カロル!」
 わざとらしい怒った口調、振り返った顔は笑っていた。魔法の明りの中、黒い目が柔らかに光っている。
「そうですか、残念ですねぇ」
 悪戯をするよう細められた目にカロルは何か危険なものを感じた。
「カロルって、実は不器用な魔術師だったんですね。残念だなぁ」
「テメェ」
「手加減、できますね?」
 低い罵りを上げたカロルに、リオンはにっこりと笑っていた。
「ぜってェにやだ」
「不器用魔術師」
「うるせェ、腐れ神官!」
「私はどうでもいいですけどね。あなた不器用って言われるのいやでしょう?」
「わかってんだったら言うんじゃねェ」
「手加減しなきゃ言いますよ、ずっと」
「するからやめろ!」
 どこか悲鳴めいたカロルの声だった。魔術師にとって不器用と言われるほど屈辱的な言葉はない。自分が発動させた魔法の制御もできない未熟者、魔法の使い手にあるまじき者、そう言われているのに等しい。
「納得いただけて、やれやれですよ」
 大袈裟な仕種で胸を押さえて息をついて見せるリオンが忌々しかった。できないならばともかくも、できるのだからやれと約束させられた形のカロルは不機嫌だった。
「いつか犯す」
 ぼそり、背中に向けて呟いた。びくり、とリオンの肩が揺れるのを見ては気が晴れる。
「うーん、別にいいですけどねぇ」
「はい?」
「どちらかといえば、抱くほうが好みですが、カロルがどうしてもって言うならそれでもいいですよ?」
 言葉がないとはこういうことを言うのだろう、とカロルは理解した。
「撤回する、そばくんな」
「まぁ、そう言わず」
「つーか、離せ」
「おや、気がつきましたか。残念」
 いつの間にか上りきった階段の上でリオンはカロルの手を取っていた。
 あっさりと笑って離したのはここが新しい場所だからだろう。そうでなかったら、と思うにつけて恐ろしい。あるいは彼との出会いは塔の主の罠なのではないかとすら疑いたくなってくる。もっともこんな間の抜けた罠があるはずはないから違うのだろう。だが罠であったほうがよほど気が楽なカロルだった。
「ちょっと頼んでいいですか」
「おうよ」
 気を取り直してカロルはリオンの無言の訴えを聞き入れ、魔法の明りを拡大して辺りに飛ばした。
 階下よりも広大な広間に感じた。塔の構造から考えてそれはありえないことのようにも思えるが、魔術師の塔である。外見から構造を推し量ることはできない。魔法空間を構築すれば階下よりも階上が広いことなどざらにある。
 明りに照らされた場所を見渡しカロルは思う。広く感じた訳をそして知った。何もなかった。広大な空間が広がっているだけでしかない。小部屋も何もないのだ。
「あぁ、あそこを見てください」
 リオンが指差した辺りに向けて明りを集める。
「見えました?」
「見えた」
 照らし出されたのは上り階段だった。ちょうどここからは対角線上に位置している。もっとも遠い位置に配してある辺り、一種の罠と言えなくもない。
「目指すはあそこでしょうか」
 どこか不安を滲ませたような声音に彼を見上げた。それを感じたのだろう、苦笑の影を滲ませたままリオンが首をかしげる。
「なんだよ?」
「いえ……なんとなく変だな、と」
「幻覚ってことか。疑ってかかったほうがいいらしいな」
 エイシャの神官がおかしいと言うならば、階段そのものが幻覚である可能性を否定はできない、とカロルは一人うなずいた。
「カロル……」
 そんな彼を呆然とリオンが見つめている。そして彼の唇に徐々に浮かぶのは明らかな笑み。
「なんだよ、鬱陶しい男だなテメェは」
「私の言うこと、ちゃんと聞いてくれるんだなぁ、と思って」
「うるせェ、ボケ神官! 揚げ足とんじゃねェよ!」
「やっぱりあなたが好きだなぁ。いまとっても幸せです、私」
「さっさと果てろ、クソ坊主」
 言い捨てカロルは上り階段を睨みつける。あれが幻覚ならば、ここは階下に戻ったほうが得策かもしれない。だが、と迷うカロルの耳にリオンの声が聞こえる。
「幻覚かもしれません。断言はできませんが、行ってみないことにはわかりません」
 彼がそういうならば、本当に良くできた幻覚なのだろうと納得している自分にカロルは気づいたけれど、あえて見ないふりをしとおした。
「ただ幻覚であった場合、間違いなく罠ですから危険ですねぇ」
「じゃ、行くか」
「下に?」
「薄らボケ坊主。下行ってどうすんだよ」
「私の話し聞いてました?」
「聞いてたがよ、行ってみなきゃわかんねェんだったら行くしかねェだろ」
「ま、それももっともですね。でも気をつけてくださいね」
「うるせェ、テメェに言われたかねェぞコラ」
 カロルの罵声を耳に心地良く聞きつつリオンはハルバードを構える。軽く振っても背中は痛まなかった。そのことに何より安心した。
「さぁて、行きましょうか。カロル」
 嬉々として言う神官がいていいものだろうか。わずかの間、悩んだカロルはそれ自体が無駄だと悟る。
「腐れ神官が」
 呟きの大きさの罵りが聞こえなかった風を装ってリオンはちらりとカロルを見る。それから武器を持っていない左手が伸びてきたと思った途端、頬に彼の手がある。
「刻一刻と、あなたが好きでたまらなくなってきました」
 柔らかい色をした黒い目と、髪。フェリクスの面影が重なったカロルは物も言わずにリオンの手を叩き落としていた。




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