すでに閂の外れた扉の前、リオンは一歩下がる。連れてカロルも下がったのを確認し、振り返っては目顔で合図する。 「さっさとしろ」 まるで通じ合ってでもいるような態度が気色悪くてカロルは言葉を吐き出す。それにリオンがにっこりと笑うのさえ忌々しい。 一人うなずいてリオンが扉に向き直る。するりとハルバードを構え、扉を引き開けた。 「うわ」 慌てているのかのんびりしているのかわからない悲鳴が上がる。素早く振ったハルバードに飛び出してきたものが切られた。 「下がれ、ボケ!」 リオンが何物かを切っている間にカロルはそれを確認していた。小部屋の中からは蜂が飛び出していた。ただの蜂ではない、魔法的な処理をされているのは間違いのない巨大な蜂だった。一匹が腕の長さほどもある。 「暗黒より来たれ刃、シルト<風刃>」 前衛で巨大蜂相手に苦戦するリオンの背後からカロルは魔法を放った。一瞬のことだった。生々しい音がする、と思えば蜂は体液を振りまいて切り裂かれ床に落ちていた。 「すみません」 風の刃の恐ろしさだろうか、リオンが少し顔を青ざめさせていた。 「人の言うことは聞け。邪魔だ」 「え……」 「テメェよけて発動させんのは手間なんだよ、このボケ神官が!」 「あぁ……すみません。ありがとう、カロル」 「うるせェ!」 風の刃に巻き込まれないよう、わざわざ避けてくれた。本当はそのようなことは言いたくないのだろうな、とリオンは思う。照れ隠しにも似た悪態が楽しくて仕方ない。 リオンはハルバードを振って蜂の体液を振り落とす。なまめかしい刃の輝きが戻った。カロルがそれにじっと目を留めていた。 「聖別されてるんです」 一言でカロルは納得したらしい。黙ってうなずいていた。 「物騒な神官がいたもんだぜ」 皮肉に言ってカロルは唇を歪めた。 武器を扱う神官が、神殿から武器を授与されることはままあることだ。その際、儀式を行って神の加護を武器に宿らせることがある。それが聖別された武器だった。 そのような武器を扱えるものがただの神官であるはずがない。リオンが神殿内でそれなりの地位にいる者だという証拠でもある。 「エイシャの神官だと言ったでしょうに」 「戦神じゃねェだろうがよ」 「幻想と真実の女神、青春のエイシャと言ったでしょ」 「だからなんだよ?」 「青春と言うのは戦いの連続ですよ」 恥ずかしげもなく言ってのけたリオンを一瞥し、カロルは苦いものでも吐き出すよう口を開く。 「けっ、気色悪ィこと言いやがって」 そして返答も待たず小部屋の中にと踏み込んだ。相変わらずいつすり抜けたのかわからないうちにリオンは前に立っている。 「ありましたねぇ、階段」 「あったがよ」 「なんです?」 「テメェ、なんとも思わねェのかよ」 呆れ声でカロルは言った。焦ってはいない、そう思えば思うほど苛立ちが募る。 階段は確かに小部屋の内にあった。だがしかし、下り階段だった。カロルが切望する上階へのそれではない。ようやく見つけたと思ったのも束の間、落胆が体の内に走った。 「ここしかないんだから仕方ないですよ。行きましょう」 言われなくともそれくらいのことはわかっている。下へであったとしても進むよりないことくらいは。カロルは唇を噛んでリオンのあとへと続いた。 階下は廊下だった。長く、そして狭い。薄暗いそれはまるで洞窟のようだった。壁を見れば黴でも生えているのだろう。不健康な色合いに染まり、水滴が滴り落ちている。 「ここはカロル風に行きましょうか」 「なんだと?」 「さっさと行くに限る、と言っています」 「けっ、やっと学習しやがったか」 冗談まじりの皮肉だったのだが、カロルは言葉通りに解釈したらしい。嬉々として進もうとするのはやはり、先を急ぎたい気持ちが強いせいだろう。 リオンはそれとなくカロルの顔色を確認し、足を踏み出す。魔術師にしては丈夫過ぎるほどだった。それでも体力は奪われているだろう。いずれどこかで休息を取らねば先は危うい。それをカロルが納得するかどうかが当面のリオン最大の悩みだった。 ゆるゆると二人で進んでいく。時折ぬめった床に足を取られそうになってはよろける。その度にどこからともなくリオンの腕が出てくるのが癇に障る。が、さすが神官戦士だなとも内心では思っていた。いくらアルディアから扱い方を習っているとは言え、カロルは魔術師だ。武器の技能に長けているとは言いがたい。 その点、どうもエイシャ女神の教義がよくわからないものの戦いを本分とする青春の女神の神官は、自分の体の扱い方もよくよく知っているらしい。ぬるつく床に足を取られることなどなかった。 「カロル」 そんなことを思っていたカロルはリオンの声に夢想を覚まされる。はっとして前方を見やった。 「あれは、いったい……」 わずかであっても呆然としたリオンの声が耳に快い。薄い魔法の明りに照らされた彼らの前にふわふわと鎧や金貨、剣などが浮かんでいる。近寄るでもなく、遠ざかるでもない。ただそこに浮いている。 「わかんねェか?」 心持、楽しげなカロルの声にリオンは振り返って苦笑を浮かべた。 「幻でないことはわかっているんですけどね」 やはりエイシャの神官。そこにあるのが実体だとは理解しているらしい。カロルはにんまりと笑ってリオンを後ろに下げた。 「カロル」 「なんだよ?」 「私が前のほうがいいと思いますが?」 「面倒くせェから下がってろ」 「はいはい」 心底、煩わしそうに言うのをリオンは喜ばしく聞いていた。やはり魔法に巻き込まれないようにしてくれるのか、と。実のところリオンはわかっていてあえて尋ねたのだったが、カロルは気づいた風もない。彼の背後でかすかにリオンは苦笑する。 「燃え上がれ万物の根源、サルド<火球>」 詠唱と共に火球が前へ滑るよう走る。と、何かにぶつかって弾けた。鎧ではない、まして剣や金貨では。リオンは目をみはる。確かにそれは透明な何かに当たって弾けた。 「キリがねェなぁ」 ぼやいて言うわりに、口調は楽しげだ。透明な何かは傷ついた様子もなかった。 「下がってな、ボケ神官」 振り向いた顔はやはりこれ以上ないほど楽しげだった。まだ残る炎の照り返しに、カロルの金髪が濃い色に染まる。 「焼き尽くし業火と化せ。狂乱し我が敵を撃て、バサルド<爆炎>」 見惚れていたリオンの目が、視力を失った。それほどの爆炎だった。とてつもない熱量を持った炎が廊下を焼き尽くさんばかりに荒れ狂う。ほんのわずかの間、透明な何かの前でわだかまり、そして次の瞬間に炎は向こう側へと突き抜けていた。 「派手ですねぇ」 心から呆れてしまった。それほどの火力を放たなくとも解決できただろうことは想像に難くない。ただ面倒くさいの一言でカロルは魔法を選択したらしい。 「ちまちまやんのは柄じゃねェ」 「ですねぇ」 「納得すんな、コラ」 自分で言うのはよくとも他人に同意されるのは嫌なのだろうか。それを思って仄かな笑みが浮かんだりオンをちらりとカロルは見やって鼻で笑う。 「行くぞ」 今度こそは追い抜かれまい、と足を速めるカロルの前、いつの間にかリオンが歩いていた。 「クソ忌々しい野郎だな」 ぼそり、呟く。体術の差と言ってしまえばそれだけなのだが、どうにもそれだけとも思いがたい節がある。 「カロル、さっきのはなんです?」 「あん?」 「なにか透明なものがあったのはわかったんですが」 「あぁ、あれか。ま、一種のスライムだな」 「あれが、ですか?」 リオンの知るスライムは、少なくとも不可視ではない。透明感があったとしても内容物などの色がついているのが当たり前だった。それに鈍いとは言え動く。緩やかな動きで獲物に触れてその体を溶かして吸収する存在だった。 そこまで浮かんでようやく思い至ったリオンは青ざめた。あれがスライムの一種と言うことは浮かんでいた鎧や剣は。 「ゼラチナス・キューブ。気づかないで突っ込んできた獲物を取り込んで栄養にする」 リオンの思考にかぶさるよう、カロルの声がした。 「透明なのはある意味では擬態と言うことでしょうね」 「どうだかな」 「そうは思いませんか?」 「ありゃ、失敗だぜ。ゼラチナス・キューブは金属を消化できねェ。いきなり鎧が浮かんでたら普通、気づくだろうがよ」 あえて普通、を強調して見せる辺りカロルも意地が悪い。リオンはまったく気づかなかったのだから。もっともこの場合リオンを責めるにはあたらない。あのような存在などそれこそ普通は知らないものなのだから。 炎が焼いてしまったおかげで、嫌な色の黴も一掃された。まだ焦げて燻る廊下を二人は進んでいく。焼けた匂いが鼻を刺した。 「やっとありましたねぇ」 廊下の最北端に階段がある。それを目敏く見つけたリオンの声にカロルも心が躍った。今度こそは上階へのそれだった。 「ちょっと待て」 ふとカロルが立ち止まる。 「なんです?」 「これ上っても上の階に戻るだけじゃねェのか?」 「でしょうね」 「だったら」 「でも上らなきゃ、はじまりませんからねぇ。行きますよ、カロル」 カロルの言葉を先取りしてリオンが促す。そう言われては言葉もないカロルだった。 背後からついてくるかどうか確認もせず階段を上るリオン。このまま立ち止まっていたならどうするのだろうかとわずかの間思った。そのような思いが浮かんだことを振り払うよう首を振って、カロルは彼の背中を追った。 |