むっつりとカロルは手を前に伸ばす。ある地点で急に大気が抵抗を増し、それ以上は手が動かなくなる。やはりそこには不可視の壁があった。 「あれが正解か?」 ふと左手の広い部屋と思われる壁に視線を向ければどうやら部屋の扉と思しき物がある。すぐそこにあるのに辿り着けない、歯痒かった。 「カロル、見てください」 「んだよ」 「ほら、あそこ」 見れば扉の正面に当たる南側の壁に階段が二つ、並んであった。 「どっちかがトラップだな」 「でしょうけど、こればかりは上ってみないことにはねぇ」 「もっともだ。ちっ、面倒くせェ」 「仕方ないですね」 「んじゃ行くか」 「とりあえずあちらを先に」 なにを言うのかと見れば背後を指している。右手斜め後ろに小部屋らしい壁が見えていた。 いささか忌々しかった、リオンが。なぜこうも目端が利くのかと、苛立たしい。が、非常に役に立っているだけに文句も言えない。 「カロル?」 さっさと歩き出したカロルを追い抜き、それでも不思議そうに声をかけてくる。 「とっとと行きやがれ、ぐずぐずすんじゃねェ。ボケ神官」 その背中に罵声を浴びせれば何事もなかったよう、少しだけ笑みを浮かべてリオンが前に向き直る。その口許がどことなく満足げでいっそ殴ってやろうかと思う。 小部屋の前、リオンが溜息をついていた。 「ざまァ見やがれ」 ぼそりと呟き、そして行く道がなければ困るのは自分だということを思い出す。 「なにがです?」 「うるせェよ」 「別にいいですけど。扉はないようですねぇ」 「次いくぞ、次」 「はいはい」 確かに小部屋らしき突部はあるのだが、出入り口が一切ない。リオンは若干の懸念を感じていた。無駄な何かがあるとは思えない。ならばここは転移して入る以外にないのだろう。つまるところまだ最低一箇所は転移の仕掛けがあるということだ。転移による移動を不得意としている彼はそれが気がかりだった。 二人はゆっくりと不可視の壁の向こう側へと道を取る。大きな部屋らしいものを大回りにしなければならないのが腹立たしい。 広い空間に、なんの魔物も兵隊崩れも出てこないことが不安をあおる。魔法の明りさえ歩きながらでは隅々まで届かない。部屋に沿って歩く二人の影が塔の壁に向かって長く伸び、そして闇に消える。 「またですねぇ」 そうリオンが言ったのは、一端もとの階段のあった北側まで戻り、東に向きを変えた後のことだった。東北の隅に、やはり今までと同じ大きさの小部屋らしいものがある。 「ほら、見てください、カロル。やっぱり扉がないですよ」 「別にいいだろうがよ」 「なんでです?」 心から不思議そうに言うリオンを罵りたくとも具合の悪いことに相応しいだけの罵倒を思いつけない。舌打ちだけをしてカロルは上り階段のほうを指差した。 「あぁ、そうですねぇ。確かに上れればいいんですものねぇ」 だがそういう言葉にはどこかすっきりとしないものが漂っている。カロルは目つき一つで続きを促した。 「心配なんですよ、私」 「なにがだよ」 「あの階段の前にまた見えない壁がありそうな気がして」 言われてみればその通り。ないほうが不自然だった。失念していた事実にカロルはわずかに唇を噛む。 「カロル」 「うるせェ」 「聞きなさいって」 「なんだと、クソ坊主」 「いいから」 言ってリオンは足を止め、体ごとカロルに振り向いてはそっと翠の目を覗いた。 「なにしてやがる、腐れ神官」 「あのね、焦っても仕方ないでしょ。あなたが焦れば焦るだけ、事態は悪化しますよ。大丈夫、お弟子さんはちゃんと私たちで助けられますから」 物も言わずにカロルはリオンの頬を張り倒す。彼は無言でされるままになっていた。じっと見つめてくる視線があまりに穏やかで、いたたまれない。 「……なんでそんなことがわかる」 「神官ですよ、私は」 「だからなんだって言うんだ、ボケ」 「神官ですからねぇ、我が女神の啓示を受けたとでも思っててくださいな」 「……信用ならねェ」 「まったくですね」 自分で言って、自分で笑った。信用させる気があるのかどうか理解ができない。 ただ、少しだけ気は楽になった。焦るな、言われたことで自分がどれほど焦っていたのかわかった気分だった。 悔しげに視線を外したカロルをリオンは微笑んで見つめる。自分のことは自分が一番わかるなどと言うのは幻想だ。他人に言われなければ気づかない事実と言うものもある。 それを悔しげにであっても受け入れたカロルは実は性根が素直なのだろうとリオンは思う。そう思えば罵詈雑言の数々もいっそ可愛い。 「さ、行きましょう。正解は次ですから」 「なんでそんなことがわかる。啓示なんぞとぬかしやがったら――」 「ちょっと考えただけですって。この階の隅、三箇所に部屋があったなら、もう一箇所あるはずでしょうに」 わざとらしい呆れ声。カロルの激発を誘発するためのものでしかない。案の定カロルはかっと頬を紅潮させて蹴りを放つ。 「さぁ、行きますよ」 それを軽く避けてリオンはカロルの背を押した。 「馴れ馴れしく触んじゃねェ!」 罵声に生返事が返ってくる。むっとしてもう一度蹴ろうかと思ったときにはすでにリオンは無防備な背中を向けていた。 「ちっ」 そのような態度を取られては、反って何も出来なくなってしまう。背後から罵り声を上げるのが精一杯だった。 「カロル」 呼ばれても返事などするものかと思う。それを悟っていたようリオンはそのまま言葉を続けた。 「その淀みなく溢れ出る罵声が、とても素敵ですよ」 前を向いて歩いたままリオンは言った。カロルは当然のよう、背中の中心を強く殴りつける。一瞬、息が詰まったのだろう、リオンが喉の奥に何かが詰まったような声を上げる。久しぶりに気分が良くなった。 「カロル、あなた……」 「手加減はしてっからな。魔法叩き込まなかっただけマシだと思えクソ坊主」 「いえ、そうじゃなくて。魔術師のわりに蹴りも拳も力が乗ってますね、と言おうと思って」 「鍛えてっからな」 わずかばかり嬉しくなった。魔術修行の気分転換に、アルディアから武術を習った甲斐があるというもの。今はそれが炎の剣を使う役に立っている。ここでリオンを殴る役に立つと思えばなおさら嬉しい。 「おかしな魔術師ですねぇ」 「テメェにだけは言われたくねェよ」 「おや、どうしてです? 私ほど真面目な神官もいないのに」 「どこがだよ!」 「そうですかねぇ? あぁ、ほらありましたよ、次」 無駄話をしている間に次の小部屋が見えてきた。こちらからでは扉の有無は確認できない。左手には反対を不可視の壁に遮られた階段が見えている。念のため、と確認すればやはりこちら側も透明な壁に遮られていてカロルの肩を落とさせた。その彼の背を軽くリオンは叩き小部屋の扉を見つけに戻る。 「なかったらどうしましょうかねぇ」 のんびりと非常に煩わしいことを言ってのけるリオンを尻目にカロルは足を進める。もう肩は落としていなかった。慌てたよう、追いついては追い越していく。 「カロル、前に出ないでください」 「だったらとっとと進みやがれ」 「走っても疲れるだけですよ」 「なにボケたこと言ってやがる、爺かテメェは」 「あなたよりだいぶ年下ですけどねぇ」 「そういうとこがボケた爺だって言ってんだ、ボケ」 「はいはい、わかりましたって」 言いつつリオンが小部屋らしい突部の西側に周った。そしてにんまり笑ってカロルを手招く。 「あったのかよ?」 「はい、ですが」 「だからなんだって言うんだよ、はっきり言いやがれボケ爺」 「ちゃんと名前で呼んでくれたらそうしましょうかねぇ」 「けっ、誰が!」 何もそこまで拒むものでもないはずなのだが、そう言われると拒みたくなる。カロルはさっさと扉の前に立った。 すでにそこに扉があることはカロルにも見て取れている。だがしかしおかしかった。 「なんだ、これ?」 「どう見ても外から鍵がかかってるんですよねぇ」 「なに考えてんだ?」 カロルの唇から思わず呟きがもれる。小首を傾げれば淡い金髪が魔法の明りの中でさらりと流れた。 扉には外から鍵がかかっているなどと言うものではなかった。外から閂がかかっている。外して入ればいいだけのことで、だからこそ不安がよぎる。 「なんでしょうねぇ、これ」 「入って見りゃわかんだろ」 「それもそうですね」 あっさりうなずいてリオンが閂に手をかける。カロルは黙って一歩を下がった。重い音を立てて閂が外れる。振り返ったリオンは笑みを浮かべていた。 「なんだよ、気色悪ィな」 「別に?」 カロルが一歩下がってくれたこと、自分がハルバードを振る場所を開けてくれた、前衛を任せてくれたことが嬉しいなどと言うつもりはなかった。 言えばまた罵声が飛んでくる。別にそれはそれでよかったのだけれど、何も言わないことで反って不安になったらしいカロルのかすかな表情の変化もたまらなかった。 「言いたいことがあるなら言え、腐れ神官」 「不思議ですねぇ」 「だからなにがだよ!」 「別に何も言うことはないんですけど?」 からかうよう言えば、さっとカロルの頬に血が上る。殴りかかってくる腕を軽く避ければ次いで蹴り。まったく魔術師にしておくにはもったいないほどだとリオンは思って、笑った。 |