背筋が冷えるような音を立て、塔の大扉が背後で閉まっていく。カロルは黙って前を見つめた。 無謀なのは承知の上だった。昔、シャルマークの大穴に挑んだ冒険者たちは数人の仲間を募って旅をしたと言う。 カロルにはその理由がよくわかる。戦士は一度に多数を相手取ることはできない。魔術師は呪文を唱えるまでに時間がかかる。怪我を癒すには神官が必須。 ならばこうしてカロル一人が塔に挑むのはやはり、無謀だった。そのことはよくわかっていた。それでも彼はそうせざるを得なかった。 「ッたく」 面倒くさい。口の中で呟いて前方を見据える。扉が閉まった塔の内部は暗い。それでも薄ぼんやりとした明りが見え始めた。 広い部屋だった。カロルの左右から先に向かって太い柱が立ち並んでいる。そこに明りが灯っていた。高い位置に付けられた明りは部屋の中を照らし出す役には立っていない。ただ柱に彫り刻まれた魔物の恐ろしい姿を浮かび上がらせるだけ。 「こけおどしだな」 冷たく笑ってカロルは一歩を踏み出した。ゆっくりと歩く。自分のしていることの意味を理解している彼の足取りは確かだった。 柱のさらに左右は明りが届かないせいで真の闇と言っていい。どこまでも広がる空間があるばかりで果てが見えなかった。 かつり。カロルが進む足音だけが響く。 「わざとってことか。いい性格してやがる」 響く足音に、恐怖が増すだろう。どこまでも暗く広がる闇に震えるだろう。そうあえて作られた部屋。 わかっていればどうと言うことはない。そもそもこの程度で怯えるようならば、はじめから一人で乗り込んできたりしない、そうカロルは思う。 三番目の柱に差し掛かる。やっと光が前方に届いた。そこに見えたものに思わず目が吸い寄せられる。 そのときだった。荒々しい足音が突如として聞こえる。今まで身を隠していたものらしい。 だがしかし、すでにカロルは最初の扉を抜けた時点で人の気配に気づいていた。姿を隠すならば敵対の証し、とばかり相手の行動を探っていたのだった。 「やれェ!」 左右から人間が飛び出してきたのは、だからカロルの思う壺でもあった。手に手に長剣を持ち、粗末な革鎧をまとっている。その目にある狂気をカロルは一瞥し、フードの陰で目を細めた。 これが逆臣ダムドに与した人間か、と思う。正気を失った目つきはすでに人のものではない。それでもわずかにためらう。かつては人間であったもの。 「ちっ」 一瞬かわすのが遅ければ、切られていた。魔術師とは思えない体捌きにわずかに敵が怯んだ気配。その隙にカロルは体勢を立て直した。 脳裏に浮かぶフェリクスの面影にカロルはためらいを振り捨てる。 「燃え上がれ万物の根源、サルド<火球>」 もしも彼らが正気であったならば、我が目を疑っただろう。たった一人の魔術師、それも囲まれて後に呪文を唱える余裕があるとは。 カロルが一人で挑む自信がそれだった。並みの人間には到達できない高速詠唱を彼は可能にしていた。 通常の、半分以下の時間で魔法を発動させることを可能にする高速詠唱。だが、それには正確な発音が必要になる。先天的に真言葉を修得していたカロルだからこそ、難しい高速詠唱を難なく操る。鍵語魔法に移行した現在においても、やはり根幹は真言葉にあることの証左だった。 詠唱が済むと同時にあたりはかっと明るくなる。カロルを囲っていたものも、まだ柱の陰に身を隠していたものも、すべてが燃え上がっていた。悲鳴ひとつ、上がらなかった。 赤い光に包まれた部屋の中、カロル一人が昂然と立つ。炎の巻き起こした風が彼のローブをはためかせた。 「雑魚が」 わずかにカロルは顔を顰め、けれどすでに目は前を見ている。炎のおかげで、ようやく部屋の全貌が見て取れた。外部から予想していた通り、石造りの部屋。見るからに頑丈そうで多少の魔法には充分堪え得るだろう。 そしてカロルはひたと壁に目を据える。何も描かれてはいない。だが魔術師の目はそこに文様を見て取った。魔法で強化された石。 「多少どころじゃねェな」 思わず苦笑した。これで充分大きな呪文を行使できる、と思った自分に。 「どうも荒っぽくていけねェ」 頬の辺りを指でかきながらカロルは呟く。が、本人は少しも悪いとは思っていない。ただ進むことしか考えていなかった。 ふと思いついて天井を見上げる。 「やっぱだめか」 だめで元々と思っていたから落胆はしない。だがカロルが考えたことをメロールが知れば激しく落胆することだろう。 彼はいま、天井を抜くことを考えていた。一気に上まで塔を破壊し、その穴を抜ければ早い、と。幸いと言おうか、天井の石も強化の文様が刻んであって果たせない。 「しょうがねェ。地道に行くか」 溜息ひとつで大雑把な計画を捨て、カロルは進んだ。すでに目の前にまで到達している。 精緻な彫刻を施された大扉。 緩やかな、たったいま数人を燃やし尽くしたとは思えない足取りでカロルは進む。やはり、並みの魔術師ではなかった。 確かに難度の高い呪文ではない。だが、並みの魔術師ならばすべてを同時に撃つことはできなかっただろう。 仮に可能であったとしても、疲労が募ったことだろう。カロルは何もなかったよう、前に進む。呼吸一つ乱していなかった。 「こけおどしもここまでくると笑えるな」 ふっと口許が緩んだ。扉の前に立っている。細かい彫刻に紛れるようにして刻みつけられた文様をカロルは見ていた。 ――光持て入ることあたわず。 そう、記されている。それに皮肉な笑みを漏らしカロルは振り返る。すでに魔法の制御を解かれた炎は消えていた。窓ひとつない塔の内部は柱に取り付けられた明りのみのぼんやりとした薄暗さを取り戻していた。 「言いたいことがあるならはっきり書きやがれってんだ」 鼻で笑って扉に手をかけ。と。ゆるゆると扉が開き始める。 「驚けってか?」 独りでに開いていく扉に、カロルは呆れたよう笑う。罠を警戒するともなくし、扉が開ききるまでじっと待つ。 ぎちり。限界まで開いた扉が催促するよう、軋んだ。 「はいはい、うるせーよ」 カロルの目はじっと扉の向こうを見ていた。何も見えない。そこに踏み出すのは勇気がいることだろう。 だが、何のためらいもなく彼は進む。暗黒に囚われたとき、扉の閉まる気配がした。 「完全な闇だな。ご苦労なこった」 扉から漏れる明かりがなくなると、我が身がそこにあるのかも定かではないような闇になる。真の暗黒とはこのようなことを差すのだろうか。 「ルーン<白光>」 軽く手を振り、明りを灯す魔法の発動を試みる。もっとも最初から無駄だろうと思ってしたことではあった。 「やっぱな」 案の定、光は灯らない。空間自体に光を吸収する魔法がかけられているとカロルは見ていた。だから光の魔法を発動させると同時に吸い取られてしまっていたのだ。 「まいっか」 単に確認であった。それならばそれでいいとカロルは左手を壁につけて歩き出す。どうせ目を開けていても何も見えはしない。反って目を閉じているほうが感覚が鋭くなるようだった。 どこまでも続く長い廊下。扉が一つ、二つと過ぎていく。 「うん?」 不可思議に首をひねる。が、そのまま進む。 「騙されたか?」 だいぶ歩いてからカロルは首をかしげた。それからもう一度歩き出す。今度は扉を確認しつつ進んだ。一つ目の扉、鍵はかかっていない。二つ目、かかっている。三つ目、かかっていない。四つ目。 「かかってんな。つーことは、と」 壁から手を離し、カロルは廊下の反対の壁に向かった。やはり同じよう左手をつけて進む。長い間隔をあけて一つ扉がある。 「いて」 突然、何かにぶつかった。闇の中、多少なりとも感覚が狂ったらしいと思えば苦笑が浮かぶ。手探りで確かめれば、どうやら入ってきた扉に戻ったらしい。 「なるほどね。行きは無限で帰りは有限、と」 かがんで足元を探った。あるならばここだと見当はついている。反対を探すよりは容易なはずだった。 「みっけー」 見えはしなかったけれど、カロルはにんまりと笑っていた。 「へったクソだなぁ、おい」 そこで見つけたのは転移の文様。一箇所から特定の場所へ転移することを可能にする魔法陣だった。その、到達点にカロルはいた。 この廊下の反対のどこかに、出発点があるのだろう。だが、踏んだときには跳んでしまうので、さすがのカロルもこの闇の中で探すのは難しい。 「さてどうするかね」 しばし考えるふりをして、カロルは左手の扉を開けた。闇の中だけに生き物の気配は探りやすい。何もいない事を確認してからの行為ではあるのだが、無造作な開け方だった。 「ルーン<白光>」 ふっと明りが灯る。広くてがらんとした部屋だった。何もない。部屋自体に用があったわけではないカロルは奥まで行くことはせず、明りを灯したまま部屋から顔を覗かせる。 「姑息だったか」 闇の中、苦笑の気配がした。部屋から体の一部が出ると同時に光は消えた。 「しょうがねェなぁ」 諦めて部屋から出る。そのまま前に歩けば前方の扉にぶつかるはずだ。一歩、二歩、四歩。 「あたり」 にやりと笑ってカロルは扉に触れた。が、開けはしない。そのまま右手に滑って鍵のかかった扉を見つける。 「正解はこっちだよな」 そっと鍵を撫でれば、間違いなくかかっている。 「わざわざ鍵かけてくれたんだしよ、ご招待には応じないとな」 誰に聞かせるでもなく呟く。真の闇にあって、声でも出していなければ自分の存在を疑いそうだった。 「さーて、何が出てくっかな」 もしも聞くものがいたならば、カロルの正気こそを疑っただろう。それほどうきうきと弾んだ声だった。正気を保つために努力している声だとは、決して思えないほどに。 |