師の前を辞し、カロルは準備を調えて城を出た。ゆっくりと塔を見上げる。やはり大した高さには見えなかった。けれどあれが魔術師の塔であるならば、そしてそれは確実なことだが、そうであるならば見かけの高さや外見などなんの問題にもならない。 「困ったもんだぜ」 まったく困っているようには聞こえない口調でカロルは呟き、ひとつ溜息をつく。 水はどうとにでもなる。魔法で水を出現させるのは初歩のうちだった。自在に操ることこそが難しい。それが可能なカロルにとって水の心配はないと言ってよかった。食料も携帯食を充分に用意した。途中で食料が尽きた場合には最悪、敵兵の持つ糧食を奪えばなんとかなる。ならばあとは自らがあの場に赴くだけ。 カロルは一度だけ城を振り返る。あそこには待っていてくれる人がいる。自分の帰りを、無事を祈る師がいる。 「面倒くせェなぁ」 言いつつカロルの口許には笑みが刻まれていた。 思い出すでもなく、昔のことが思い出される。 嫌で嫌でたまらなかった場所を逃げ出した自分を拾ってくれたメロール。あれから四十年近く経ってしまったのだとは考えてみれば驚くことだった。 それほどカロルにとって魔法の修行は面白いことだった。 どうやら自分はごく幼いころ、親に売られたらしい。厄介ごとを引き起こす子供だから、と言う理由で。 おかげで以前いた場所でもまともに扱われたと言う記憶がない。もっともカロルを――当時は違う名ではあったが――怒らせるととんでもない被害が出る、と言うことを早々に関わりのあった人々は学んだようで扱われるも何も遠ざけられていただけと言うのが正しい。 この体ひとつで生きてきた。それでも堪えかねて逃げたのは、やはりどうしても嫌だったからか。もしかしたら運命かもしれない、ふとカロルは思う。 逃げた先で出会ったのが、メロールだった。一目見るなり彼は手を差し伸べてくれた。そこに半エルフがいる、と言う驚きに声もなかったカロルに向けて。 「お前は魔法の才能があるね」 そう言って伸ばされた手を、カロルは意識せず、なにも言わずに取った。 何もかもが理解できた、そんな気がした。自分が巻き起こす厄介は、すべて魔法のせいだったのかと思う。いまだからこそ納得できるものではあるのだけれど、子供の頃であっても心に染みとおる何かはあった、と言うことだ。 「生まれつきなんだな、それは」 メロールの言葉に幼いカロルはうなずいたものだ。 物心ついたときから自分の中に何かがあった。物事の本質を見極め支配する言葉だと知りはしなかった。 メロールに師事してから、それが真言葉であることを知った。シャルマークの大穴が塞がって以来、真言葉を正確に発音できるものが減り続けている時代にあって、カロルはそれを天性として供えて生れ落ちてきた希少な子供だった。 間違いなくそのせいでカロルの学習は早かった。鍵語魔法の基礎となっている真言葉が理解できるのだ。当然、鍵語魔法の吸収も他人よりずっと早い。 「たいしたものだ」 メロールがそう感嘆の言葉を漏らしたのはいつのことだったか。 他人が十年かけて学ぶことをカロルは一年で理解した。魔術師として独り立ちするなど、たった四十年ではごく当たり前の人間ならば無理だ。だがカロルはそれを許された。 いまだ師の元にいるとは言え、すでに十年ほど前にカロルは師の名を頂きメロール・カロリナとなった。 いまや既知世界の人間の魔術師でカロルの前に立つ者はいないだろう。半エルフでさえ数は少ないかもしれない。 「そりゃ、言いすぎかな」 いたずらを見つかった子供のよう、カロルは見えもしない師の姿を思って肩をすくめる。 実際、師と相対して勝てるとはまったく思えない。よくぞあの体で、とカロルは思う。 カロルは人間だ。ほっそりとしたカロルでさえ、体格的には彼より優れている。それでも魔法を行使する際、先に息が上がるのはカロルだった。メロールによれば半エルフは体力だけで魔法を行使するのではない、と言う。やはりそのあたりは半ば魔法的存在だと言うのが大きな理由か、とカロルは思う。若干、羨ましくも思う。 人間の魔術師は魔法に血道を注ぐあまり体力にまで手が回らないものが多い。けれどカロルは子供の頃から体力にだけは自信があったのだ。おかげで魔法の修行を始めてからもその点で難儀した覚えはなかった。それでもやはり立て続けの大きな呪文などはメロールには敵わない。そして敵わない、と思えること自体が心の中が温まるような思いだった。 「けっ」 歩きながら嫌なものでも吐き出すようなカロルを城の警備兵たちが遠巻きにしては避けていた。 「黒衣の魔導師……」 他者の前に姿を現すときの常でカロルは深くフードを下ろしている。その性別さえも定かではない姿に兵たちはそのような畏怖とも嫌悪ともつかない声を上げるのだ。 煩わしくて視線を向けた。それだけで蜘蛛の仔を散らすように逃げていく。 「よくあれで警備が務まるもんだぜ」 口の中で罵ってカロルは足を進めた。 ほんの少し、メロールの立場を思う。彼もまた、星花宮から出るときにはフードを下ろしているから。半エルフの迫害が激しい地方に赴かざるを得ないときなど、自らに幻影の魔法をかけて姿を人間に偽っている。嫌なものだろうな、と思う。 「生まれはお前のせいではないよ、カロル」 自分の内に備わってしまった真言葉の響きを厭う若いカロルに言った言葉。いまもカロルの心に強く響いている。 それはもしかしたら、何度も自分の心に向けてメロール自身が言った言葉なのかもしれない。それほど切ない響きを持っていた。 あの出会いがなければ、どうなっていたことだろうと思う。自分が起こした厄介の原因もわからず、死んでいたことだろう、カロルはそう思う。 何度も見た魔法の暴走。カロルの耳には明らかに間違って聞こえた真言葉。それなのに魔術師を名乗る人間たちは誰一人結果を見るまで気づかなかった。 「あのようになっては、いけない」 フードの奥でさえ青ざめて見えたメロールの表情。鍵語魔法への移行を拒んで死んでいった魔術師の成れの果て。決してメロールはそれを喜んでなどいなかった。むしろ命短い人間が、なぜ死を選ぶのか理解などできないとばかり哀しんでいた。 「お節介だよな、師匠」 溜息まじり苦笑まじり。カロルにはわからない。メロールがなぜこれほどまでに魔法を広めたがるのか。これほどまでに迫害される身で、なぜ人間のことを思えるのか。 「さっさと行っちまえばいいだろうによ」 半エルフが行く最後の旅へと。二度と還らない場所に行ってしまえばいい。そうすれば人間の愚かな振る舞いなど、見なくて済むはずなのだから。 「まだまだ未練があってね」 憎まれ口を叩くカロルに向かってメロールはけれどそう笑うだけだった。 いったいこの世になんの未練があるというのだろう。こんな世界、出て行かれるものならば自分こそ出て行ってしまいたいとカロルは思うのに。 ほんの少し他人と違う。わずかばかり違うものを持っている。片親が人間ではない。物理的な武器ではない力を操れる。 たったそれだけのことではないか。まして親のことなど本人にはなんの関わりあいもないこと。自身にどうできるものでもない以上、他者にどうこう言われる筋合いもないことだ。 思いは急速にフェリクスへと飛ぶ。出逢ったころはまだ子供だった。まるで自分がメロールと出会ったときの再現のよう。 雨に濡れてくたびれて泥まみれで威嚇する子供をカロルは拾った。 「どうしたの、その子」 城中に連れて帰ったカロルに、メロールが呆気にとられたのはあれが最初で最後だったかもしれない。それを思い出すだけでにやりとしてしまう。 「拾った」 「カロリナ」 低い声にわずかばかり退きかけた。普段はどんな美しい人間の女でも敵わないくせに恫喝するとなるとぎょっとするほど恐ろしいのが半エルフだった。 「ぐちゃぐちゃだったんだから仕方ねーでしょ。俺のせいじゃねェ」 「私にはその子供が気を失っているように見えるが?」 「うん……、ちょっと……」 「ちょっと、なに」 「やりすぎちゃったかなー、と」 せめて一夜の宿でもやろうとしたカロルに向かって子供は短剣を構えて向かってきたのだ。相手が子供だということを肝に銘じていなかったならば、失神くらいでは済まさなかった、とカロルはしどろもどろに説明するがメロールの理解を得ることは出来なかった。 「お前はどうしてそうなんだろう」 深い絶望の溜息に聞こえて、さすがにカロルも反省する。 「その子がちゃんと回復するまで面倒見なさい」 「……はい」 「元気になったら、弟子にするんだね」 「えー。なんで俺が。面倒くせェ。師匠が教えてやりゃ……」 「カロリナ?」 「頑張ります」 「よろしい」 結局、そうやって手元に置くことになった子供だった。本人と意思の疎通をかわすまでの時間の長さを思えば今でも罵りたくなるカロルだ。 それでもフェリクスと名付けた子供の生い立ちを思えば仕方ないことかもしれない。ありとあらゆる他者を警戒しなければ生きてこられなかった子供。 拾ったときは汚れてわからなかった浅黒い肌。もつれた髪は洗って泥を落とせば柔らかな黒髪だった。きつい目だけは見えていた、夜の漆黒。 カロルは彼の出自を見て取った。が、何も言わなかった。思ったのはメロールのこと。彼の目の確かさを思うならば、失神した子供を見た時点で彼が何者かを知っていたのだろう。 フェリクスは闇エルフとの混血だった。悪に堕したかつての同族。それが人間との間に儲けた子供は決して幸福なあり方で生まれることはない。それをメロールは知っていたからこそ黙ってフェリクスを引き取ることに決めたのだろう。 「育てたなァ、俺だがな」 ぼそりと呟く。手のかかる子供だった。反抗的で我が儘で、気に入らないことがあれば当り散らす。物でも投げればまだいいが、それをその身に備わった魔法でするのだから始末に悪い。もっともそれのおかげでカロルの魔法の腕も上がったのだからメロールに向かって文句も言えない。ある程度、慣れてからは魔法を使うことはなくなりはしたが、代わりに殴りかかるだけならばまだしも短剣で切りつけられたときには本気で殺してくれようかとも思ったものだった。 あれから十余年。我と我が身を呪う血筋のせいでフェリクスはカロル以上に素晴らしい速度で魔法を習得した。それでもあれはまだ自分の弟子。カロルは決然と塔を見上げた。 どこかの魔術師がしたものだろうか。塔の前には無駄な防御呪紋が描いてある。南側に面した扉の前は、うららかな日に照らされて長閑ですらある。 カロルは扉に目をやった。やはり強力な封印が為されている、内側から。魔物を外に出さないための封印。塔の主が何を考えているのかわからなかった。それでも確かなことはひとつ。フェリクスはここにいる。 「手のかかるガキだぜ」 吐き出してカロルは塔の扉に手を触れた。ゆっくりと軋みを上げて開いていく。恐れ気もなく踏み込むカロルの背後で扉は閉ざされた。 出逢ったころはまだ子供だったものを。ただそれだけを考えていた。 |